東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

目黒を歩く~その二:目黒春日神社、三田用水跡の道

2015-04-21 18:39:25 | 目黒区
さて、目黒駅から恵比寿へ向かう尾根筋の道、今は道幅も広く、歩道もたっぷりスペースが取られていて快適な道になっている。この道を進んでいくと、小さな神社があった。三田春日神社という。このあたりは三田と言い、港区の三田と飛び地で遠い昔には同じ行政区であったらしい。
「目黒三田春日神社 由緒
当社は人皇六十二代村上天皇の御宇天徳二年(九五六年)春、上巳の節句に武蔵国国司藤原正房卿任国の折藤原氏の氏神たる大和国奈良、春日大社の御神霊を勧請して当時の荏原郡三田村(現在の目黒区三田)に鎮祀せられた。又、この地が高台にあり遠く富士、秩父連山塔を一望し清々しき処なるを愛で給い、屋敷を定め村人を慈しみ給いければ、村人も多く住居し諸人の神社を崇敬する心厚ければ神社も日々に盛になり藤原氏の子孫と共に大いに繁栄し今日に至った。
 祭神名 天児屋根命
 神社名 春日神社」(境内の貼り紙より)


道路整備が行われた時に、境内も整備されたような感じの新しさ。


調べてみると、上記の様な創建の物語のある神社だが、太田道灌が天文年間(1533~55)に港区三田へ遷座したという。その神社のあった跡地というところに、昭和9年に神社を再建したという。(猫のあしあとサイトより)


このあたりは戦災の被害はなかったようなので、ガーデンプレイス関連の再開発までは古い町が残っていたのではないだろうか。1980年代にもこの道を歩いた覚えはあるのだが、どんな感じだったのかまでは記憶にない。


そして、その直ぐ先のところで左に斜めに入って行く道がある。これが三田用水跡の道だ。元は用水と平行して道があったのだろうと思う。
「1664年(寛文4)に開削され、玉川上水を下北沢村から分水して、代々木・渋谷・目黒・白金・大崎付近で開渠を導き、伏樋で伊皿子・三田まで給水した。」(Wikipediaより)


古くからの道の痕跡というべきなのか、蛇行しているのがよく分かる。用水は完全に人口のものなので、高台の尾根筋を流れて行く。


住宅街であり、マンションも建てられているところだが、ところどころに木が繁っている。


これも見事な木だ。左側に見えるマンションの建物の前でも、存在感を見せている。


反対側から見たところ。どのくらいの樹齢なのだろうか。


その先で、新茶屋坂が切通で下っていくところに突き当たる。これは右手の恵比寿ガーデンプレイス方向を見ている。かつては、この切通を越える橋があり、そのまま向こうへ用水は通じていた。昭和3年に新茶屋坂の切通の道が拓かれたことで、導水橋が設けられていた。平成15年まで残っていたが、道路拡張で撤去されてしまったという。私もこの新茶屋坂は車で何度も上ったことがある。だから、この橋というよりも、短いトンネルが無くなっていたことに驚かされた。ガーデンプレイスまで真っ直ぐには抜けにくくて、坂の上を左に曲がって恵比寿の方へ降りていくのがメインの道だった。


新茶屋坂をのぞんだところ。今も自衛隊の施設が大きなスペースを占めている。かつては、海軍の研究所があり、それ以前には明治から火薬製造所もあった。都市化によって昭和3年に群馬県に移転したという。このあたりの事情は、板橋に火薬製造所が出来た事と同じ背景で、よく似た経緯を辿っている。

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