佐野眞一氏の著書「渋沢家三代」は、渋沢栄一についての入門書としても丁度良いボリュームと内容を備えていると思う。人間としての渋沢家の人々を描いているところが面白いし、単純な偉人伝というわけではない、苦悩する人々の物語であるところも興味を惹く。
また、栄一の歩みは、日本の近代の歩みであり、東京の町の変遷とも重なってくるところが多い。本書には、渋沢家の住まい、職場など、東京の中の各所が登場してくるが、その場所場所を尋ねて歩くだけでも、充分に明治からの東京の歴史を振り返ることができる。本書についての感想は、別のブログに書いてみたが、東京という町と渋沢栄一という側面から、本書を見てみようと思う。

まず、やはり北区飛鳥山の渋沢史料館をまず上げておきたい。この記念館の展示をみることで、渋沢栄一の全体像を掴むことができるだろう。あまりに多くの業績を残してきた人物ではあるが、その概要は理解しうると思う。


(史料館パンフレットより)
そして、この飛鳥山の地は、栄一が晩年までを過ごしたところでもある。明治12年に完成した別邸は、当初は正に別荘であったのだが、関東大震災後には本宅として使われていた。その邸宅は第二次大戦中の空襲によって失われてしまったが、青淵文庫と晩香廬という二つの建物は今も残されており、内部の見学もできる。栄一翁の息づかいが感じられる場所として、また大正期の贅を尽くした建築物として、見学する価値のあるものだと思う。
この二つの建物については、以前エントリを書いたのでリンクを貼っておく。
渋沢史料館晩香廬、青淵文庫内部公開を見る
飛鳥山を離れると、まずは日本橋兜町を上げるべきだろう。証券取引所の脇にある日証館、関東大震災の後に建てられたビルだが、この場所には震災前まで渋沢邸があった。明治21年築の辰野金吾の手による邸宅が有名である。それ以前の海運橋際に第一国立銀行も、栄一にとっては重要な事業の一つであった。明治8年に官職を辞して第一国立銀行頭取となると、栄一は兜町に住まいを移している。ここからが、実業界の巨人渋沢栄一の物語になっていく。この第一国立銀行設立時の三井との駆け引きについても、本書では描かれていて興味深い。兜町の邸宅については、谷崎潤一郎も幼い頃に鎧橋から眺める景色が、水の都ヴェニスのようで眺めていたという思い出を書いている。
現在の旧渋沢邸跡には、日証館が建っている。すぐ近くに、かつては海運橋があり第一国立銀行の置かれた三井組ハウスがあったところもすぐ近くである。


さらに、ここで三井の代表として、明治の三井の立志伝中の人物である三野村利左衛門が登場してくる。三井財閥中興の祖とも言われるほどの人物だが、本書では「自分の名前も知らない浮浪児から幕末維新の動乱に乗じてのしあがった一種天才的な商人だった。」と書かれている。三野村の屋敷は隅田川を越えた清澄庭園に隣接してあったという。当時の清澄庭園は、下総関宿藩主久世氏の下屋敷跡で明治維新以降荒廃していたという。ここを岩崎弥太郎が買い取ったのは、利左衛門の亡くなった翌年の明治11年のことである。岩崎弥太郎と渋沢栄一は不倶戴天の敵と言っても良いような、激しく争うライバルであった。今も、清洲橋通りに面して三野村株式会社がある。


隅田川を越えたところで、少し南へ下って、永代通りに面した福住へと向かう。ここには、時代を感じさせる建物はないが、渋澤シティプレイスと渋澤永代ビルの二つの大きなビルが建っている。渋澤永代ビルには、大きく今も澁澤倉庫の文字が書かれている。明治8年に栄一はここに邸宅を造った。ここは幕末の米問屋近江屋があったところだそうで、三千坪を越す敷地に三十三の黒漆喰の米倉が並んでいたという。それを活かすことを考えて設立されたのが澁澤倉庫であった。本書の中でも、福住の家は度々登場している。
この場所は、今の住居表示では江東区永代二丁目になっている。そして、巨大な新しいビルが建っている。すぐ近くの大島川西支川に架かる御船橋。昭和三年の架橋なので、この地で渋沢家の人々が暮らしていた頃からのものは、残されていない様だ。関東大震災で焼失している為である。

この地にあった明治11年に清水組によって建てられた屋敷は、明治41年に三田綱町へ移築され、戦後に物納され国有化されていたが平成2年に渋沢家の元執事であった杉本行雄十和田開発(現・三沢奥入瀬観光)社長が払い下げを受け、翌年青森県の古牧温泉渋沢公園内に移築され、現存している。移築されたことで震災、戦災を免れ得た訳で、東京に存在した明治初期からの木造建築というのは、非常に貴重な存在でもある。
清水建設による旧澁澤邸解体および移築工事の模様のサイト。
そして、明治三十九年、栄一の息子篤二は福住町の家から、三田綱町へと転居する。そして、綱町での暮らしに慣れる頃には篤二は家を出てしまう。新橋の芸者玉蝶と暮らすようになってしまい、篤二は綱町の家には帰らない。一族の間で大騒動となったのだが、結局篤二は法的に相続から排除されることになり、大正二年には裁判所へ申し立てが行われてしまう。篤二は、学生時代から栄一という巨大な父に押し潰されそうになって、そこから逃げ出すように放蕩に走るということをしていた。一族のタブーになっていたと書かれているが、その重圧の中で生きた篤二という人、人間的な魅力に溢れた人のようで、惹かれる。その篤二が玉蝶と暮らし、生涯を終えたのは白金三光町であったという。その場所には、松岡美術館が建っている。この辺りの経緯も本書では触れられていて、興味深いところ。
三田綱町の家は、戦後に渋沢敬三が物納で国に納めた。二の橋から直ぐのところに、今も三田共用会議所という施設がある。ここが旧渋沢邸のあったところで、かつて青森に移築された建物があった時代に、私はさんざんこの前を通っていたのに、そんなことはまるで知らずにいた。今思い返すと茫然とするようなことは、幾らでもあるものだと思う。
白金三光町に渋沢家の問題児となってしまった二代目の篤二が、三田綱町の家を出て暮らすようになったのは、三田綱町へ転居して間もない頃からだったらしい。大正2年1月には、篤二の廃嫡が決定している。現在の松岡美術館のところだったと言うが、明治末の頃の白金はどんなところだったのだろうか。
これは、白金台四丁目の住宅地。階段状の宅地造成の土留めがレンガで作られている。

清正公前に残る出桁造りの商家。古そうに見えても、昭和初期に建てられたものが多い。この建物の年代は分からないのだが。

篤二が暮らした年代から確実に存在していたのは、この清正公。慶応元年に建てられた堂宇とのことで、これは間違いなくその時代に存在していた。

栄一の故郷である埼玉県深谷市の血洗島にも、いずれ訪ねてみたいと思っている。単に偉人というだけではない、渋沢家のもつ清廉な魅力は、時代を超えても普遍性のあるものだと思う。むしろ、より輝きを増しているのかもしれない。今日の拝金主義万能と言いたくなるような世情の中で、渋沢家のあり方は異なる価値観で生きる術を見せてくれているようにも思える。
また、栄一の歩みは、日本の近代の歩みであり、東京の町の変遷とも重なってくるところが多い。本書には、渋沢家の住まい、職場など、東京の中の各所が登場してくるが、その場所場所を尋ねて歩くだけでも、充分に明治からの東京の歴史を振り返ることができる。本書についての感想は、別のブログに書いてみたが、東京という町と渋沢栄一という側面から、本書を見てみようと思う。

まず、やはり北区飛鳥山の渋沢史料館をまず上げておきたい。この記念館の展示をみることで、渋沢栄一の全体像を掴むことができるだろう。あまりに多くの業績を残してきた人物ではあるが、その概要は理解しうると思う。


(史料館パンフレットより)
そして、この飛鳥山の地は、栄一が晩年までを過ごしたところでもある。明治12年に完成した別邸は、当初は正に別荘であったのだが、関東大震災後には本宅として使われていた。その邸宅は第二次大戦中の空襲によって失われてしまったが、青淵文庫と晩香廬という二つの建物は今も残されており、内部の見学もできる。栄一翁の息づかいが感じられる場所として、また大正期の贅を尽くした建築物として、見学する価値のあるものだと思う。
この二つの建物については、以前エントリを書いたのでリンクを貼っておく。
渋沢史料館晩香廬、青淵文庫内部公開を見る
飛鳥山を離れると、まずは日本橋兜町を上げるべきだろう。証券取引所の脇にある日証館、関東大震災の後に建てられたビルだが、この場所には震災前まで渋沢邸があった。明治21年築の辰野金吾の手による邸宅が有名である。それ以前の海運橋際に第一国立銀行も、栄一にとっては重要な事業の一つであった。明治8年に官職を辞して第一国立銀行頭取となると、栄一は兜町に住まいを移している。ここからが、実業界の巨人渋沢栄一の物語になっていく。この第一国立銀行設立時の三井との駆け引きについても、本書では描かれていて興味深い。兜町の邸宅については、谷崎潤一郎も幼い頃に鎧橋から眺める景色が、水の都ヴェニスのようで眺めていたという思い出を書いている。
現在の旧渋沢邸跡には、日証館が建っている。すぐ近くに、かつては海運橋があり第一国立銀行の置かれた三井組ハウスがあったところもすぐ近くである。


さらに、ここで三井の代表として、明治の三井の立志伝中の人物である三野村利左衛門が登場してくる。三井財閥中興の祖とも言われるほどの人物だが、本書では「自分の名前も知らない浮浪児から幕末維新の動乱に乗じてのしあがった一種天才的な商人だった。」と書かれている。三野村の屋敷は隅田川を越えた清澄庭園に隣接してあったという。当時の清澄庭園は、下総関宿藩主久世氏の下屋敷跡で明治維新以降荒廃していたという。ここを岩崎弥太郎が買い取ったのは、利左衛門の亡くなった翌年の明治11年のことである。岩崎弥太郎と渋沢栄一は不倶戴天の敵と言っても良いような、激しく争うライバルであった。今も、清洲橋通りに面して三野村株式会社がある。


隅田川を越えたところで、少し南へ下って、永代通りに面した福住へと向かう。ここには、時代を感じさせる建物はないが、渋澤シティプレイスと渋澤永代ビルの二つの大きなビルが建っている。渋澤永代ビルには、大きく今も澁澤倉庫の文字が書かれている。明治8年に栄一はここに邸宅を造った。ここは幕末の米問屋近江屋があったところだそうで、三千坪を越す敷地に三十三の黒漆喰の米倉が並んでいたという。それを活かすことを考えて設立されたのが澁澤倉庫であった。本書の中でも、福住の家は度々登場している。
この場所は、今の住居表示では江東区永代二丁目になっている。そして、巨大な新しいビルが建っている。すぐ近くの大島川西支川に架かる御船橋。昭和三年の架橋なので、この地で渋沢家の人々が暮らしていた頃からのものは、残されていない様だ。関東大震災で焼失している為である。

この地にあった明治11年に清水組によって建てられた屋敷は、明治41年に三田綱町へ移築され、戦後に物納され国有化されていたが平成2年に渋沢家の元執事であった杉本行雄十和田開発(現・三沢奥入瀬観光)社長が払い下げを受け、翌年青森県の古牧温泉渋沢公園内に移築され、現存している。移築されたことで震災、戦災を免れ得た訳で、東京に存在した明治初期からの木造建築というのは、非常に貴重な存在でもある。
清水建設による旧澁澤邸解体および移築工事の模様のサイト。
そして、明治三十九年、栄一の息子篤二は福住町の家から、三田綱町へと転居する。そして、綱町での暮らしに慣れる頃には篤二は家を出てしまう。新橋の芸者玉蝶と暮らすようになってしまい、篤二は綱町の家には帰らない。一族の間で大騒動となったのだが、結局篤二は法的に相続から排除されることになり、大正二年には裁判所へ申し立てが行われてしまう。篤二は、学生時代から栄一という巨大な父に押し潰されそうになって、そこから逃げ出すように放蕩に走るということをしていた。一族のタブーになっていたと書かれているが、その重圧の中で生きた篤二という人、人間的な魅力に溢れた人のようで、惹かれる。その篤二が玉蝶と暮らし、生涯を終えたのは白金三光町であったという。その場所には、松岡美術館が建っている。この辺りの経緯も本書では触れられていて、興味深いところ。
三田綱町の家は、戦後に渋沢敬三が物納で国に納めた。二の橋から直ぐのところに、今も三田共用会議所という施設がある。ここが旧渋沢邸のあったところで、かつて青森に移築された建物があった時代に、私はさんざんこの前を通っていたのに、そんなことはまるで知らずにいた。今思い返すと茫然とするようなことは、幾らでもあるものだと思う。
白金三光町に渋沢家の問題児となってしまった二代目の篤二が、三田綱町の家を出て暮らすようになったのは、三田綱町へ転居して間もない頃からだったらしい。大正2年1月には、篤二の廃嫡が決定している。現在の松岡美術館のところだったと言うが、明治末の頃の白金はどんなところだったのだろうか。
これは、白金台四丁目の住宅地。階段状の宅地造成の土留めがレンガで作られている。

清正公前に残る出桁造りの商家。古そうに見えても、昭和初期に建てられたものが多い。この建物の年代は分からないのだが。

篤二が暮らした年代から確実に存在していたのは、この清正公。慶応元年に建てられた堂宇とのことで、これは間違いなくその時代に存在していた。

栄一の故郷である埼玉県深谷市の血洗島にも、いずれ訪ねてみたいと思っている。単に偉人というだけではない、渋沢家のもつ清廉な魅力は、時代を超えても普遍性のあるものだと思う。むしろ、より輝きを増しているのかもしれない。今日の拝金主義万能と言いたくなるような世情の中で、渋沢家のあり方は異なる価値観で生きる術を見せてくれているようにも思える。
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