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東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

目黒を歩く~その十九:祐天寺裏から油面へ

2015-05-09 17:46:02 | 目黒区
祐天寺の横手を南側に向けて進んでいくと、道は下っていく。下りきると、また登って、緩やかな起伏を越えていく。この辺りの裏道も、祐天寺へ続く古くからの道であったのだろうと思われる。さらに進んで行くと、商店街の外れに出てくる。そんな中にあった元床屋さん。モルタル仕上げの看板建築だが、意匠が可愛らしい。油面への道を訪ねたのは、2014年11月。


富士山の形と風合いが、モルタルの壁面ととてもマッチしていて、思わずしばらく眺めてしまった。柔らかなタッチで、とても良い感じだと思う。


そして、更に南へ向かう通りに入ると、油面地蔵通り商店街に入っていった。最初に目に入ったのがあびこ屋ふとん店。ペンキ塗の看板が柔らかいふとんを思い起こさせるような文字。訪問した碑が休日だった。


目黒区立油面小学校の前を過ぎると、学校と道路の間の敷地に規模の大きな二階屋の長屋があった。かつては商店が多く入っていた様子。


店舗後は板が貼られているのが少々さびしい雰囲気。


この道が古くからの道である証しのように、その向かい側には木造店舗の良い雰囲気のある理髪店があった。


和風の木造建築を改装して洋風な店舗が作り出されているが、どこか懐かしげな雰囲気がする。


「油面子育地蔵尊(高地蔵) 目黒4-26-15
 この地蔵尊は、「高地蔵」と呼ばれ油面の人々に親しまれています。もと、目黒通り(昔の二子道)の油面交番近くの小高い角地に立っていましたが、昭和9年に道路拡張のため現在地へ移転されました。土手の上に総高2米以上もある高い地蔵が祀られていたので、「高地蔵」の名が生まれました。享保の頃、江戸は連年の飢饉や大火で生活困窮のため多くの死者を出しましたが、その人たちの冥福を祈り救済を願って教法8年7月(1733)に祐天寺に於いて供養が営まれ、六十六部供養塔とともに祀られました。また、この地蔵の左側に「南無阿弥陀仏、祐天寺、裕東、文政元年」と刻まれた名号碑が建っています。今も育児の厄除けに霊験あらたかな子育地蔵尊として信仰され供養を続けて、毎月3の日に縁日が開かれています。
 平成4年3月 目黒区教育委員会」


案内板にあった名号碑。


今も大事に祀られているのがよく分かる。この時にも、真新しい花が上げられていた。


少し行くと目黒通りの油面交差点に出る。この辺り、道路拡張前に先の地蔵尊があったのだなと思うが、変わり果てていて、想像しようにも難しい。


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