東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(83)山の手の子

2015-07-03 06:42:01 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、山梨県立文学館館長を2013年まで務められていた。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、坂道の話から自転車に触れ、そして山の手の話へと続く。

「坂みちを自転車で滑り下りるときの快感は、私の子供のころの経験にはなかった。四方八方、平地ばかりだったから、坂というものの感触を知らなかったのである。もし少しでもそれに似たものがあったとすると、橋の上から下りるときであった。
 たとえば小名木川の萬年橋南側斜面である。そこは多くの橋のなかでもいちばんの急坂だった。いま行ってみるとさほどでもないが、自転車で橋のはたを飛びだすときは、子供の冒険心をそそるのである。三輸車を持ち出したり、乳母車をあやつって、子供たちは坂で遊んでいた。私は自転車屋の息子だったから、わりと早く自転車をおぼえたほうである。小学二年のとき、補助車つきを造ってもらい、それで乗れるようになった。高学年になって大人用を借り出し、とどかない足を無理にのばして乗っていた。工場ではバンド・ブレーキ、リム・ブレーキを造っていた。以前は清澄号という名称の完成車を出していたらしいが、ものごころついたときはブレーキ専門になっていた。」

 この辺りの話は、板橋の台地の上で育った私には新鮮に感じられた。小学校から通った文京区も台地の上であったし、何時も生活圏の中に坂があるものだったから、隅田川に近い下町の、遙か彼方までフラットに拡がって行く町を最初に見た時には、ある種のカルチャーショックを感じるほどに新鮮に思えたものだった。
 自転車に乗り始めたのは、近藤氏の書かれているのと同じ様な、小学校低学年の頃で最初は補助輪付だったのも同様だ。そして、そう間もないうちに補助輪を外して乗れるようになった。それでも、坂道を下る快感は勿論のこと最初から付き物ではあったけど、家に帰るには必ずまた坂を上らなければならないこともセットになっていることに気付くのには、それ程時間を要しなかったようにも思う。その意味では、自転車が教えてくれたものも大きなものであったなと思う。
 そして、大人用の自転車に子供が無理に乗るというのは、さすがに私の頃には見掛けないものになっていた。私よりも上の世代の話として、聞くのみである。

 文中に出て来た萬年橋。


「そんなことから、私は志賀直哉の「自転車」をおもしろく読んでいた。十二のときとあるから明治三十年代のはじめであろう。輸入自転車にはブレーキがついていなかったというのである。前輸は径五尺と大きく、後輸は一尺もない小さなもの。チェーンはなくペダルを踏んで、その一回転が前輸の一回転となる。十九世紀ロンドンの風俗画にあるような前時代のしろもので、ずいぶんとのんびり走る自転軍だったらしい。それで志賀直哉は千葉や横浜・鎌倉へ遠乗りしたというから、かなりの体力の持主で、好奇心旺盛な少年だったにちがいない。時代の先端をゆく山の手の裕福家庭の坊ちゃんだったとわかる。
 山の手の坂、下町の橋。これは東京の二つの地域を象徴する言い方だった。山の手の住人は坂を下ってきて、登りかえして家にもどる。下町の住人は橋をわたり、橋をわたりかえして帰る。」

 私にとっても自転車は最初に自由というものを意識させる、好きなところに出掛けていける便利な道具として、初めて手に入れたものと言える。それが、明治の頃となれば、まだ世の中に物珍しく、しかも高価な輸入品であり、一般には手の届くようなものではなかったという時代である。自動車がやってくるよりも前の時代に、まず西洋からもたらされた生活の景色を一変させていく文明の最先端であったとも言えるだろう。そんなものに、志賀直哉が少年期から親しんでいたということ自体が、彼がいかに富裕な環境に育ったかということを示しているし、遠乗りまでしていたということが、自転車というものがどれほど革新的に行動半径を拡大していったかを表しているとも言えるだろう。
 山の手の坂と下町の橋、これほどに適確にそれぞれの特性を捉えた言葉はないだろう。

「その山の手育ちの坊ちゃんをよくつたえるのは、水上瀧太郎の『山の手の子』(明治四十四年)であろう。書き出しにつぎの一節がある。
「山の手の高台もやがて尽きようと云ふだらだら坂を丁度登り切つた角屋敷の黒門の中に生れた私は、幼き日の自分を其黒門と切離して想起すことは出来無い。私の家を終りとして丘の上は屋敷門の薄暗い底には何物か潜んで居るやうに、牢獄のやうな大きな構造の家が厳めしい塀を連ねて、何処の家でも広く敢囲んだ庭には鬱蒼と茂つた樹木の間に春は梅、桜、桃、李が喫揃つて、風の吹く目には何処の家の梢から散るのか見も知らぬ種々の花が庭に散り敷いた。そればかりではない、もう二十年も前に其の丘を去つた私の幼い心にも深く浸み込んで忘れられないのは、寂然した屋敷々々から、春の頃月の宵などには申合せたやうに単調な懶い、古びた琴の音が洩れ聞えて淋しい涙を誘ふのであつた。私は斯うした丘の上に生れた。静寂な重苦しい陰鬱な此の丘の端れから狭いだらだら坂を下ると、カラリと四囲の空気は変つてせゝこましい、軒の低い家ばかりの場末の町が帯のやうに繁華な下町の真中へと続いて居た。」
 台地の上と下のみごとな描写である。丘の上の静けさと下町のにぎわいがひと眼でみてとれるようである。語り手の「私」はだらだら坂を下って、唐物屋や玩具屋や絵双紙屋に出かける。そこで西洋趣味のおもちゃを買い、芳年の妖怪変化の絵や武者絵を買う。私は玩具屋の「いゝ花客」だったと書いている。しかし、彼は下町の子供とは遊べなかったのだ。」

 ありがたいと思うのは、この辺りの小説は青空文庫で読むことが出来る。ネットやITのもたらしてくれる利便性とマイナスというのは、時としてその軽重について考えさせられることが多いのだが、青空文庫は恩恵の大きなものの一つと言えるだろう。iPhoneでも実際の紙の書籍のページを繰るように、読むことが出来る。それも、書店や図書館に出向くことすらなしにできるというところは、とてもありがたい。
 この辺りの話はさすがに、私の世代になるとお話として聞いたことしかないような、御屋敷のお坊ちゃんという世界が、その時代には現実に存在していたことがよく分かる。お坊ちゃんというと、どこか軽く小馬鹿にしたような、揶揄を含んだ印象を受けることが多いのだが、ここまでの話になるとそれが正に字義通りというのか、そんな想いを越えた世界の違いというものまで感じることが出来る。
 その上、都市が変わり、社会が変わっていったことで、下町というもの自体が意味合いまで変容していったように、山の手というものもそもそもがどんなものであったのかが、今となっては見失われているようで、そのオリジンに迫るという点でもこの話は面白い。

 舞台になった麻布台のすこし違う側、狸穴の坂下付近にて。


 公園に聳える木。


「この一篇では、御屋敷の子の悲しみが主題である。魚屋の娘で、彼に好意をもってくれたお鶴という少女が芸者屋に売られてゆくといういきさつをまじえて、少年の日々を回想するかたちをとっている。もちろん、フィクショナルな部分がふくまれているのは後年の「『その春の頃』の序」にいう「お鶴はもとより煙草屋の姉弟も皆我がほしいままに描き出せる架空の人物に過ぎざるなり」の一節からわかるし、愚かな新聞記者への抗議からも読みとれるのだが、水上瀧太郎が自分のおかれた境遇と、山の手と下町との地理地形、生活風景を実感的にとらえたという点で、私にはきわめて輿味ぶかい作なのである。それは江戸市中の形成から東京への移行のなかにつながる現象でもあったわけである。」

 水上瀧太郎という人のことも、私はここで初めて知ったのだが、とても面白く興味深く読むことが出来た。そして、山の手と下町という都市の文化として意識されるものが、思い描かれる通りに存在した時期というものが、明治維新以後から関東大震災まで、敢えていえば戦前くらいまでといえるような、実はかなり限定的な短い間のものであったということを、改めて知る事になっている。江戸時代の町人と武家の織り成す社会で醸成されてきたものがその基盤にあることは確かだが、近代や西洋というスパイスが加わることによって、イメージするような下町や山の手というものが出来上がっていった訳である。そして、それは関東大震災によってほぼ焼失してしまい、再建された町はそれ以前のものとは違っていた。そして、そこにあった残り香すら戦災によって失われていったといえるのだろう。そこにとどめを刺してきたのが、戦後の歩みということになるのかも知れない。
 そんなことを思いながらも、その大元にあった明治の山の手の姿をこうして、リアルに描き出されている文章で読むことは、やはり興味深い。

 僅かに残る下町の痕跡。


「明治にはいっても山の手の概念はほとんどかわらなかった。市区改正、鉄道交通網の発達、教育機関の設置、それにともなう山の手の再構成と開発がすすんで、かつて東南に延びていた街は西にむかってひろがりつづけてゆく。下町は商業地、工業地、山の手は住宅地という機能上の施策がおこなわれて、東京はあらたな局面をむかえてゆく。水上瀧太郎は第二作「ものゝ哀れ」(「新次の身の上」の題で「三田文学」に発表)ではつぎのように書いた。
「生れた家は暗かつた。厳格な父は其の少年時に受けた儒教的教育と、其の青年時に修めた実利主義の学問と、殊に官界から野に下つて或会社事業に其後の一身を全くゆだねて、其の事業の為には神に対する敬虔な牧師のやうに尽した自家の努力主義から、物質的に成功した人点の免がれない著しい偏狭に陥つてゐた。『実業界の君子』と云ふ冷嘲的な響を持つ肩書は常に父の頭の上に置かれた。自分の制定した掟に反する者の面には唾する事を拒まない父の眼からはのらくら者の道楽仕事としか見えない文学、美術、それらのものをぱ罪悪とした。詩人、小説家、画家、音楽家、彼らは正しき道を歩む人ではなかつた。・・・・・・」
 山の手に生まれた東京人第二世はこのような精神的加重を感じつつ、おのれの道を歩むのである。その点、瀧太郎の生い立ちは荷風とおなじだった。」

 荷風と似た境遇にあり、時代も重なるという点でも、この人はとても面白いと思う。荷風のような複雑な屈折を含んだ韜晦ではなく、むしろ率直な感性の持ち主であるように思える。そして、父親に対する様々な想いを抱えながらも、生まれ育った家を嫌いであったと言いながらも、深く懐かしんでいるからこその作品であることも面白さを増す材料になっている。下町の話は比較的数多く今も聞くことが出来るのだが、山の手の御屋敷育ちの話というのは、確かに中々そう聞けるものではない。失われた東京の一面を知る上では、非常に重要な物語であるに違いないと思う。

狸穴坂。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 変わりゆく町:板橋区加賀と... | トップ | 目黒・品川再訪(六)~小山... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

東京・遠く近き」カテゴリの最新記事