東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

「漢文のすすめ」とその舞台~その四(豊島区雑司が谷2)

2014-10-01 18:24:44 | 豊島区

「漢文のすすめ」
原田種成著  新潮選書  1992/09刊

表4より
「ひとつの文学的事件  中村真一郎(作家)
この書物は、表題が「漢文のすすめ」というような、限定された目的を意図しているようになっているが、じつはこの斯界の碩学の、豊富な生涯を懐古した、内容の多岐にわたる、興味津々たる読物なのである。しかも、この書物は、著者が自分の一生における大事なこと、本質的な経験を、可能な限り広く、ここに書き残そうとしたことにおいて、正に随筆のジャンルに、新しい一体を拓いたことになった。だから、この書は、限りなく面白いだけではなく、実に文学的な事件なのである。主題は、著者の幼時から青年時代、壮年期から老人に至る、それぞれの時期において、著者にとっての関心の移動に従って、おのずとその主題が移動し、それに伴ってスタイルも変化して行くという、重層的複合的構成となっており、これが非常に独創的であり、前代未聞なのである。」

「漢文のすすめ」の舞台を歩く、雑司ヶ谷編の続きである。『大漢和辞典』の編纂に携わるようになってからの話で、昭和7年のことである。
「『大漢和』編纂の原稿作成の手伝いをして九月十日に夏休みが終わったが、さらに継続して手伝うことになった。当時、大東文化学院の高等科はすでに、土曜も休みで週休二日であったから、そのほか祝祭日や午後に授業のない日も仕事ができた。しかし、尾久の自宅から通いながら学校へ行って編集室に出るのは時間が惜しいので、編集室の近くに家を借りて大島宇一と一緒に住むことにした。そのころは世の中が不景気だったから、貸家や貸間があちこちにあった。不動産屋とか貸間・アパートの斡旋業者というようなものはなく、よく半紙に「貸家」「かしま」と書いて斜めに貼ってあったものである。「売家」はまっすぐに貼ってあるが、貸家・貸間は必ず斜めに貼ってあったのは、今は見られなくなった風景である。
 家主と喧嘩して、荷車に荷物を積んで歩いていると、貸間の札が目に付いたのでそこへ引越したというような話も多かった。権利金や礼金などはもちろんなく、二カ月分の敷金か前家賃(その月の家賃の前払い)だけでよかった。だから学生の身分でも、玄関があり、四部屋で庭もあるような家が借りられたのである。その家は豊島区雑司ヶ谷二ノ四四六で、近くに小学校があり、時々子供の声や朝礼の声が聞こえた。」

「私は伯母(母の姉で、寡婦となり、いつも我が家の手伝いをしていた)に頼んで家事一切をやって貰った。伯母は安くて栄養のあるものと考え、「ねぎま」と「おでん」をよく作ってくれた。「ねぎま」は、葱と鮪のトロの汁で、そのころ、トロは今日のように上等な食べ物ではなく、魚屋の店先の一番前に皿に山盛りにして安く売っていた。また、あの当時のようなマグロの大トロのたっぷり入ったうまい汁を食べたいものである。」
 当時の食生活が伺える。明治以降、西洋化が急速に進んでいった一方で、人の嗜好というものは保守的で変化するのに時間が掛かるようだ。動物性脂肪に対する慣れとか、嗜好という点では、昭和初期でもまだ拒否反応が残っていたことになる。今では死語になっているが、高度成長期頃までは年配者の言い回しで、バタ臭いとうのも残っていた。バター臭いということで、西洋料理や菓子などに牛乳やバターが使われていると、それを嫌ってそういったのだが、転じてエキゾチックな顔立ちや雰囲気を指してもバタ臭いという言い方をしていたのを覚えている。

「近くの目白通り、千登勢橋のたもとに銭湯があり、その主のチョビ髭をはやした顔と体型が菊池炻そっくりだったのが懐かしい。私たちは一カ月の食費その他の経費を伯母に渡した後、うっかりすると湯銭がなくなってしまう心配があったので、その主にかけあって一回五銭を一カ月一円の月決めにして貰った。昭和一桁時代には学生の数が少なかったから、学生だというと、万事大目に見てくれるところがあった。」
 昭和8年3月31日まで、この雑司ヶ谷二丁目での生活が続いたとある。そこで一旦引き払って、原田氏は尾久の実家へと戻ったという。

 まずは当時の雑司ヶ谷の地図である。赤で1と記した辺りが、雑司ヶ谷二ノ四四六あたり。地番入りなのだが、ぴったりの地番が見当たらなかった。発行は昭和8年1月なので、正に原田氏が住んでいた次期に合致する。2は上記の話に出てくると思われる銭湯。今は無くなって、マンションが建っている。そして星印3が諸橋轍次教授宅である。これは前回掲載したところ。そして、その北側のことは、また後に書く。


 この少し先が雑司ヶ谷二ノ四四六。家は建て直されて、道は舗装されたが、細い道が入り組んでいるのは当時から変わらない。


 原田氏も歩いたであろう道。こんな風に細い道が曲がりながら延びていく。


 文中に出て来た小学校。豊島区立高田小学校だった。2001年に統廃合により廃校になっている。学校の裏手も、狭い道が曲がりくねっている。


「昭和九年四月、私たちが高等科三年になったとき、編集計画の立て直しが行われた。それは従来の日給や時間給をやめ、原稿一枚をいくらという単価を決めて作成を進めたことである。そして、昭和十年三月末までに原稿を完成することときめられた。」
「担当の分量は多く、寛政の期日も決められているので、二人で雑司ヶ谷墓地の近く(雑司ヶ谷一ノ七〇番地)の二階家を借り、同期生の中の信頼できるものを集めて手伝って貰った。」
というのが、最初の地図の5番のところである。


 本書では触れられていないのだが、雑司ヶ谷の変遷を見つめてきた存在と言えば、マッケレブ館といわれる旧宣教師館である。今は豊島区が管理して、建物も保存されている。地図の4がこの場所である。
「雑司が谷旧宣教師館は、明治40年にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自らの居宅として建てたものです。マッケーレブは、昭和16年(1941)に帰国するまでの34年間この家で生活をしていました。豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築であり、東京都内でも数少ない明治期の宣教師館として大変貴重なものです。」(豊島区サイトより)




 そして、この周辺には、原田氏が過ごした頃から変わらずに残っている建物が幾つかある。この蔵も当時からあったものだろう。この裏手の道を行くと、諸橋邸へ通じている。恐らく、数限りなく原田氏も通った道筋と思う。


 旧宣教師館の向かいには、立派な門構えの家があった。撮影したのは、2011年12月。既に玄関前に金網が置かれていて、閉鎖されていた。


 その北側のブロックが原田氏が借りた家のあったブロックになる。そこと向かい合うところには、恐らくはその当時に建てられた家が残っていた。これも2011年12月の撮影。


 板塀にモルタル仕上げの洋間がある家が並んでいた。恐らく、これらの家は原田氏も当時見ていたはず。


 この一角だけが、時が止まっているかのような並びになっていた。


 昭和初期にこの辺りも一気に宅地化されていったようで、当時の流行を取り入れた洋間のある家が並んで建てられた訳である。


 都心部の住宅地でありながら、こんな風に昔のままの景色が残っているとはと思っていた。思わず見とれてしまうようなところだった。


 今回、久し振りに訪ねてみると、宣教師館の側も、その裏側もすっかり古い家は姿を消して、真新しいコンクリートの集合住宅に建て替えられていた。


「そういう時の気晴らしといえば酒を飲むこと以外にはなかった。一人で下宿していると飲みに行きたいなと思うのは一週に一度くらいで、後は辛抱しているわけである。しかし、誰かが言い出すと我慢ができなくなるのは当然である。したがって、ほとんど毎晩のように酒場やカフェーへ飲みに出かけるようになった。そして、必然的に資金が不足する。私の『皇清経解』など三百六十冊もある唐本などを円タクに積み込んで質屋に入れて飲んだことも度々あった。入質した本は結局流してしまった。原稿作りに、こういう苦労もあったことについては諸橋先生は全く気付いていなかったようだ。」
 この辺りは、全編を冷静に描写している原田氏の人間性が垣間見える部分で、読んでいて思わず笑ってしまった。 

「毎日大勢集まって原稿作成に取組み、総力を傾注する様子はさながら梁山泊の観があった。
 この梁山泊は雑司ヶ谷墓地に近く、よくその中を散歩した。今でも印象に残っているのは島村抱月の墓である。木陰の下にあまり大きくない丸みのある自然石が置かれ、ただ抱月とだけ刻してあり、床しく思った。それに対して夏目漱石の墓は数段高く築かれた墓所に大きな御影石に法号が刻され、当時存命だった夫人の法号も並べて刻し、朱を入れてあったのが、何か漱石らしくないような感じがした。

 これが島村抱月の墓所。といっても、2004年に東京の墓所を維持する人が高齢になった事で、島根県浜田市へと里帰りしたという。今は墓所跡になっていると言うべきか。

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