東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

「漢文のすすめ」とその舞台~その五(杉並区天沼)

2014-10-02 19:35:47 | 杉並区
「漢文のすすめ」の舞台を歩くの続きである。本書では、『大漢和辞典』の編纂とその裏話も面白いのだが、それだけではなく明治、大正、昭和の時代の生活が描写されている点が、非常に興味深い。原田氏の生まれ育った下谷区金杉上町は町場として開けた時代が早いところだが、雑司ヶ谷そして今回の杉並区天沼となると、宅地化が進行したのは原田氏がそこに暮らした時代とそれ程離れてはいなかったと思われる。関東大震災後の市街の急速な拡張によってできていった町で彼は暮らしていたわけで、それがこの時代の空気や生活感を感じさせてくれるように思う。

「昭和十年三月のこと、私と大島が大東文化学院の高等科を卒業したとき、諸橋先生から重大な依頼を受けた。他に就職しないで辞典の仕事の責任者になってほしいとのことであった。前にも書いたように、『大漢和辞典』編纂の仕事は当初から専任者というものは一人もいなかった。当時、どの出版社でも大きい辞典の編纂であっても、専任者を雇い入れることはほとんどなかった。完成した後に、その人たちの処遇に困るからである。」
ということで、原田氏は『大漢和辞典』の編纂を仕事とするようになる。この当時の辞典の編纂作業の実態というものが、外から想像されるようなものとはかなり違っていることも、面白いと思う。諸橋氏の業績の筆頭にあげられるような大著でありながら、諸橋氏はいわばプロデューサーであり、その中身は原田氏などの若手の担当者が思うままに作り上げたものというのも、意外なほどだった。また、プロデューサーとして、その制作に掛かる厖大な費用の捻出と企画の立案こそがポイントであり、有能で優秀な若者達が実作業を行っている内容について、干渉しないというのも、どこかこの時代の雰囲気を色濃く残しているのかもしれない。
明治時代の日露戦争の話など読んでいると、当時の将軍が黙って大人然と座っていることが第一で、作戦指揮などは参謀の仕事であり、将軍が口を挟むものではなかったというようなことが出ていたが、どこか重なってくる様に思える。

「前年の昭和九年、北京留学から帰った東京高等師範出身の原富男氏が編纂の主任のようになり、原さんの住居に近い杉並区天沼一ノ二六三、荻窪駅の近く、熊野神社の裏の家を借りて編纂室とした。そこはまた西荻窪の近藤正治教授宅にも近かったからである。諸橋先生はその家を「遠人村舎」と名付けた。これは陶淵明の園田の居に帰る詩の中の「曖々たり遠人の村、依々たり墟里の村」から採ったもので、縦四十センチ横十センチほどの板に、先生がそれを縦書きして下さった。」
この天沼、調べてみると熊野神社の裏ではなく、八幡神社の裏であったようだ。この辺りには確かに熊野神社もあるのだが、地番を明記して頂いているので、地図で確認することが出来た。周辺には、その当時以来の建物も僅かに残されていた。


「天沼 八幡神社
 この神社は、『新編武蔵風土記稿』多摩郡天沼村の条に八幡社とあって、「除地、百五十坪、コレモ中谷戸ニアリ此所の鎮守ナリ本社ハ三尺四方ニテ覆屋二間二三間南向例祭九月ニテ下ノ稲荷十二所権現ト交ル々々行ヘリト云ウ」と記されているように、旧天沼村字中谷戸の鎮守で天正年間(一五七三~一五九一)の創建とされています。
 祭神は応神天皇です。
 明治四十年九月に字四面道の鎮守厳嶋神社(祭神市杵嶋比売命)を合祀しました。
 昭和二年四月に村社となりました。
 境内末社に大鳥神社(一殿)・稲荷神社(二殿)・須賀神社・金山彦神社・日枝神社(以下合殿)があります。
 なお日枝神社はその昔、天沼村が江戸時代に赤坂の日枝神社の社領であったため、旧村から末社としてこの地に奉斎されました。
 相殿の祭神市杵嶋比売命は、合祀以来水神・安産の神として深く信仰され、雨乞いの行事なども古くから伝えられてきました。
 大鳥神社(祭神日本武尊)は、商売繁盛の神社として信仰され、毎年十一月の酉の日を祭日として熊手市がたちます。当社では開運熊手守・福枡等を授与しています。
 現在の社殿は昭和五十二年に改築されました。
 昭和五十八年三月 杉並区教育委員会」


境内の建築物は比較的新しいものが多くて、原田氏が見たと思える様な年代のものは、大きな樹木くらいだった。


境内は落ち着いた雰囲気だった。


「さて、遠人村舎の敷地は二百坪あまり、広い庭があり、部屋数は、玄関の間と七畳半の床の間のある座敷、六畳が三室、ほかに三室、計八部屋もある平屋建ての大きな家であったが、そのうちの六畳三室の襖を取り払って編纂室にした。
 この家に私と大島が寝泊まりし、文字通り辞典の原稿や校正刷といっしょに寝食を共にすることになった。
 移転の際、トラック一台に積んで来た参考書籍や原本・原稿を六畳へ運び込んだとき、家の根太が抜けてしまった。差配に紙を少し置いたら根太が抜けたと連絡すると、驚いてやって来た。世間の常識では紙といえば軽いものであるが、私たちにとっては紙や本は重いものである。早速に根太を補強して貰って、原稿や本を置いた。」
今は都営アパートが建てられているのだが、落ち着いた住宅地で、遠人村舎のあった頃の雰囲気もどことなく想像できる。ほぼ二年間をここで過ごしていたと言う。


すぐ裏手の右側が、遠人村舎のあったところではないかと思う。今は都営アパートが建てられている。


この日大通りへ出る通りは、古くからある道筋のようだ。昭和の初期から存在したであろう木造の住宅も大事にされている。


その先には、木造の商店。角は理髪店だろうか。モルタル仕上げの店舗は、後年の改装によるものだろう。


遠人村舎の人たちも、かつてここが商店であった頃には利用していたのだろうか。


「そのころ、私は時々微熱が出て体がだるいことがあり、よく休んで寝た。近くにあった衛生病院というアメリカ人の医師だけの病院へ行って診てもらったりもした。それゆえ、父や叔父は心配し、そんなことをしていては病気で倒れてしまうからやめなさいと何度も言われた。しかし私は“世紀の大事業”に参画しているという気概から経史子集の中国学の典籍ばかりではなく、天文・暦数・草木・鳥獣などあらゆる方面の雑書籍を渉猟することができるので、諸橋先生の手伝いをしているというよりも、もはや自分の仕事をしているようなつもりで、憑かれたように仕事に打ち込んでいた。」
東京衛生病院は、今も地域の医療を担っている。セブンスデー・アドベンチスト教会に依って運営されており、教会も併設されている。そんな背景から、当時はアメリカ人の医師だけの病院であったのだろう。

熊野神社もすぐ近くにある。
「天沼熊野神社
 この神社は、旧天沼村の鎮守で、伊邪那美命を祭神としています。
 創立については詳らかではありませんが、社伝によれば、神護景雲二年(七六八)、東海道巡察使が武蔵国に来た折に、氏神を勧請し、別当を置いたのがはじまりと伝わります。
 また一説には、元弘三年(一三三三)、新田義貞が鎌倉幕府執権の北条高時を討つため、鎌倉へ軍を進める途中で、この地へ陣をしき、社殿を創設したとも伝えられています。その後、応永二年(一三九五)、朝倉三河守という武将がこの地に帰農した際、社殿を修理し、十二所権現と称するようになったといわれています。熊野神社と名称を改めたのは、明治維新以後のことです。
 天沼は古くからの名称で、奈良時代末期の武蔵国の「乗瀦駅(あまぬまえき)」から起こったといわれていますが、諸説あって定かではありません。周辺の地域からは中世の板碑が出土しており、その頃すでに開発が進んでいた地域であったと考えられます。蓮華寺の過去帳によれば、天沼村は慶長年間(一五九六~一六一五)には成立していたものとみられます。
 境内には、直径二メートルにも達する幹をもつ大杉の切株が保存されています。社伝によれば、新田義貞がこの地を訪れた際、戦勝を祈願して手植えをした杉と伝えられています。惜しいことに枯死したため、昭和十七年(一九四二)に伐採され、今では切株で昔をしのぶだけとなっています。また、この大杉の手前には、文久二年(一八六二)九月奉納の石造手水盤があります。
 平成二十六年二月 杉並区教育委員会」


こちらも境内は比較的新しく整備されている雰囲気だった。大きな木が繁っている。


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