東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

「漢文のすすめ」とその舞台~その三(豊島区雑司が谷1)

2014-09-30 21:31:25 | 豊島区

「漢文のすすめ」
原田種成著  新潮選書  1992/09刊

表4より
「ひとつの文学的事件  中村真一郎(作家)
この書物は、表題が「漢文のすすめ」というような、限定された目的を意図しているようになっているが、じつはこの斯界の碩学の、豊富な生涯を懐古した、内容の多岐にわたる、興味津々たる読物なのである。しかも、この書物は、著者が自分の一生における大事なこと、本質的な経験を、可能な限り広く、ここに書き残そうとしたことにおいて、正に随筆のジャンルに、新しい一体を拓いたことになった。だから、この書は、限りなく面白いだけではなく、実に文学的な事件なのである。主題は、著者の幼時から青年時代、壮年期から老人に至る、それぞれの時期において、著者にとっての関心の移動に従って、おのずとその主題が移動し、それに伴ってスタイルも変化して行くという、重層的複合的構成となっており、これが非常に独創的であり、前代未聞なのである。」

「漢文のすすめ」の舞台を歩く、今回は豊島区雑司が谷である。まずは、原田種成氏が『大漢和辞典』の編纂に参加する下りから見て頂こう。
「昭和七年三月に本科を卒業し、四月から高等科へ進学した。大東文化学院は当初、国費で運営されていたから授業料は徴収しなかったが、昭和二年の金融恐慌、昭和五年の金輸出解禁などで、国家の緊縮財政によって補助金が削減されたために昭和七年からは授業料を徴収することになった。しかし、私と波多野は本科卒業のときの成績によって特待生に選ばれ、授業料免除となっていた。
 七月の初めのこと、本科一年生のときに老子研究会の筆記を頼まれたことのある川又武さんから、こんどは『大漢和辞典』の編纂の手伝いをしてくれないかと誘われた。」
昭和七年のことだから、原田氏は二十二歳ということになる。『大漢和辞典』は、諸橋轍次の業績の中でも筆頭にあげられる大著であり、その実作業を担うということは原田氏の素養が傑出していた事も裏付けていると言えるだろう。そして、この昭和7年10月1日を期して、大東京三十五区制がスターとしている。この時から雑司ヶ谷は北豊島郡から豊島区へと変わった。

「最初、『大漢和辞典』の編集室は雑司ヶ谷の諸橋轍次教授宅の応接間であった。六畳より少し大きいほどの広さであった。諸橋邸は護国寺の左側の墓地の前を通って少し坂になっている狭い道をのぼり、右に折れたつきあたりの家であった。玄関の手前左側の家には「菊池炻」の表札があった。三男の諸橋晋六さんと炻の息子の英樹さんは小学三,四年生ぐらいでいっしょに遊んでいたが、親同士は口をきいたことがなかったようである。のちに晋六さんは、三菱商事の社長となり会長になった。」

この説明はかなりアバウトで、一体これがどこだったのか、調べるのに少し手こずった。原田氏の著述の中には記憶違いと思われるものや、省略しているものなどあるようだ。
まず、現在の護国寺横。この高速道路の高架が通る大通りは勿論この時代には存在しない。この道路の建設でこの辺りは景色が一変したことだろう。


そして、これが弦巻川の暗渠の道の護国寺横からの入口である。ここは池袋駅西口の丸池を水源とする弦巻川という川が流れていたのだが、昭和7年に暗渠化されている。この通り沿いは商店が多く、周辺の宅地化と共にその需要を賄う商店街になっていった様だ。これもまた、原田氏がやって来るのに合わせたかのように、暗渠化が完成しているわけである。


この道を進んでいくと、マンションがある。その前にプレートが設置されていて菊池炻旧居とある。
「菊池炻は、明治二一年(一八八八)一二月二六日に香川県高松市に生まれた。戯曲「父帰る」、小説「無名作家の日記」「忠直卿行状記」などの作品で文壇の地位を確立した。その後、大正一二年(一九二三)に雑誌「文藝春秋」を創刊、昭和十年(一九三五)芥川賞・直木賞を創設するなど、後進の育成にも尽力し、文壇の大御所と言われた。炻は大正一二年以来、とうちからほど近い雑司ヶ谷金山に居住していたが、昭和一二年に当地に転居、晩年までここで過ごした。昭和二三年三月六日没。
 「不実心不成事 不虚心不知事」
 (実心ならざれば事成さず、虚心ならざれば事知らず)は、炻の座右の銘として知られている。
 平成十一年十一月 東京都豊島区教育委員会」
原田氏が諸橋邸に訪れていた時には、まだここに転居していなかったわけである。


先に進んで行くと、「炻」という店がある。ここは三角炻の旧居を料理屋にしたところ。菊池炻の紹介で、昭和10年にここへ越して来たという。だから、『大漢和辞典』の作業が始まったことには、まだ無かったということになる。


しばらく行ったところで、四つ角から右手を見ると上り坂になっている。ここからのぼっていく訳である。ここまでの間が、省略されていると言えるだろう。


坂をのぼって振り返ったところ。今も細く曲がりくねった坂道である。


この路地の奥が諸橋轍次教授の家であったという。そして、手前左側の家が菊池炻宅ということである。辿り着いてみると、何とも面白い興味深いところだと感じた。昭和の文豪と、漢文の大家が軒を並べていたということもあるし、ここに原田氏を始め若い才能が集っていたのだと思うと感慨深い。


坂の上の道の眺め。左側が旧菊池炻邸。その向こう側を左に入る露地が、一つ前の写真である。

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