荒川区教育委員会から発行されている、この「~の民俗」というシリーズは、荒川区内をエリアごとに分けて、その歴史的な背景から成り立ち、そしてそこで暮らす人々のことまで、深く掘り下げた地域資料として読み応えのあるものだ。今回は、南千住エリアを歩いて撮影したものを掲載しているので、その背景である南千住地区の発展の変遷をチェックしてみようと思う。まず最初に、地図を掲載しておこう。基本は現在の地図だが、南千住の発展を見る上で重要と思われる施設について書き込んである。現存していない施設が多いのだが、その後が今はどうなっているのかと言うことも、この町を見ていく上では興味深いものだと思う。

この町は、そもそもが日光街道沿いという立地から見ていくべきだろう。江戸時代以前の千葉氏のことなども面白いし、興味深いところではあるが、今日の南千住エリアを俯瞰すると、その発端は江戸時代に日光街道が整備され、千住大橋が架けられたことにあるのではないだろうか。千住の宿場は橋の向こう側がメインであったようだが、南千住も宿場の一部として加わり、発展することになる。この時に出来た宿場町は、千住大橋から南側のコツ通りの北半分くらいと、国道四号線側は南千住警察署入り口交差点辺りまでだったようだ。
また、現在の南千住駅のすぐ近くには、小塚原回向院がある。その名で分かる通り、この少し南側に小塚原の刑場があった。その刑死者のために両国の回向院の別院として創建されたお寺である。常磐線と貨物線の線路を通すために少し北側へ移動しており、線路の間には地蔵とそれを祀る延命寺という寺が残されている。
コツ通りにある栗本商店。この二階がかつては寄席栗友亭であった。これについても、今後改めて触れるので外観だけ。

その宿場町に次の変化が訪れるのは、明治維新の声を聞いてからになる。明治12年に川沿いの湿地帯であったエリアに、官営工場の千住製絨所が建設された。これは新政府の軍隊の軍服に使用するウール生地を国産化するための工場であった。らしゃ場と呼ばれた工場は、南千住のシンボルと言えたかもしれない。この工場が建設されたことで、数多くの人がここで働き、またここへ通う人も生じたことで、交通も町も今日に繋がる発展を始めることになる。昭和20年の敗戦によって操業停止となり、大和毛織に売却された。その後に業績不振に陥り、昭和35年に閉鎖され、昭和37年から47年まで東京スタジアムがおかれ、プロ野球の本拠地であったりもした。
この跡地には、今は南千住警察署、荒川区スポーツ施設や都立荒川工業高校など、色々な施設が作られている。

製絨所の名残の赤レンガの塀。

今は僅かに保存されているレンガ塀が、製絨所の名残になっている。

製絨所初代所長、井上省三の胸像。初代所長として製絨所の発展に尽力したが、過労に斃れ、四十二歳の若さでなくなったという。

その隣には、明治21年に東京板紙会社が工場を造る。この工場は、我が国で最初に段ボールの製造を始めた会社である。この会社、ボール紙製造を始める契機となったのは、「明治初期の三大名著とうたわれた中村正直翻訳の『西国立志扁』を広く普及させるため」であったという。活版印刷での出版を計画したものの、西洋式の装丁に必要であったからというもの。この時代から、しばらく経過した明治末の頃には、印刷も普及し、出版も大規模に行われるように変わっていく訳で、こういった先人の苦労の上に一気に花開いていったことを思わされる。そして、らしゃ場に並んで、この工場が操業していくことが、この南千住でも三ノ輪辺りの都市化を一気に進行させたこと考えられる。
我が国板紙製造発祥の地の碑。

そして、南千住駅が出来るよりも早い明治26年には、東京瓦斯千住工場が建設されている。ここは今では東京ガス(株)技術センターに変わっているが、隅田川を利用してガスの原料になる石炭を運び込むのに好都合な立地であることから、この地に作られたわけである。ここは橋場に近い方で、山谷の北側に位置している。
その北側には、今も東京の一大貨物ターミナルとして活動している隅田川貨物駅がある。この貨物駅を含めた、常磐線が日本鉄道によって開通したのは、明治29年のこと。この時に南千住駅も開業している。鉄道の開業によって、街道は完全に過去のものになり宿場は寂れていくことになる。だが、南千住は、隅田川(当時は荒川と呼んでいた)の水運を利用する大規模な工場が次々と建設されていき、工業都市としての発展を遂げていくことになった。
現在の東京ガス千住テクノステーション。

そして、球形のガスホルダー。

更にもう一つの変化は、大正2年に三ノ輪~飛鳥山下間に王子電車が開業したことである。王子電車は、メインのビジネスは配電であり、明治43年に巣鴨新田に蒸気機関による発電所を設置し、その配電を行っていた、その電気を利用し電車を走らせた訳である。
現在のジョイフル三ノ輪商店街の辺りには、かつては石川屋敷というものがあった。
「石川屋敷跡
伊勢亀山藩主石川日向守屋敷は、新開地一帯(現在のジョイフル三ノ輪あたり)にあって、総坪数一万千四十坪(約三万六千四百平方メートル)にも及ぶ広さであった。万治元年(一六五八)、主殿頭憲之の時に、三河島・三ノ輪・小塚原三か村のうち一万五百三十坪(約三万四千七百平方メートル)の地を拝領し下屋敷を造築。寛文五年(一六六五)三河島村重右衛門の所有地五百十八坪(約千七百平方メートル)を買い上げ、屋敷・庭園を造築した。
この石川屋敷では、四月から七月までの間に限って鉄砲稽古をしたという。
荒川区教育委員会」
この石川屋敷跡が広大な空き地として残されていたことから、王子電車のターミナルが作られ、その際に周囲の造成も行われたことが予測できる。そして、新しく造成されたところなので、新開地と呼ばれていたのだろう。

この資料を見ていて面白いのは、東京の旧市街の周辺部が一気に都市化していく契機が関東大震災であった。荒川区内でも尾久や町屋などはまさにその時期に農村が宅地へと変化している。ところが、この南千住エリアだけは震災以前に都市化が終わっていて、震災後の人口増加が極めて少ない。その前の時点で、現在の町がほぼ出来上がっていたと言うことである。これは、上記の様な大規模工場や鉄道の開通によって宿場町から工業の町へと姿を変えていたこと、そして王子電車の開業に伴う新開地の開発で、このエリア内にはオープンスペースが残っていなかったと言うことが考えられる。
こんな背景を頭に入れて、ジョイフル三ノ輪の周辺を歩いてみると、石川屋敷や、そこが新開地と呼ばれる町に変わっていったこと、その前からのらしゃ場や板紙工場で働く人達の町になっていったことなど、色々と面白く感じられる。荒川区内を歩き回ってきたわけだが、南千住周辺が他のエリアとは少し違う雰囲気を持っているのは、そんな背景によることが分かって、より興味深く感じられる様になった。

この町は、そもそもが日光街道沿いという立地から見ていくべきだろう。江戸時代以前の千葉氏のことなども面白いし、興味深いところではあるが、今日の南千住エリアを俯瞰すると、その発端は江戸時代に日光街道が整備され、千住大橋が架けられたことにあるのではないだろうか。千住の宿場は橋の向こう側がメインであったようだが、南千住も宿場の一部として加わり、発展することになる。この時に出来た宿場町は、千住大橋から南側のコツ通りの北半分くらいと、国道四号線側は南千住警察署入り口交差点辺りまでだったようだ。
また、現在の南千住駅のすぐ近くには、小塚原回向院がある。その名で分かる通り、この少し南側に小塚原の刑場があった。その刑死者のために両国の回向院の別院として創建されたお寺である。常磐線と貨物線の線路を通すために少し北側へ移動しており、線路の間には地蔵とそれを祀る延命寺という寺が残されている。
コツ通りにある栗本商店。この二階がかつては寄席栗友亭であった。これについても、今後改めて触れるので外観だけ。

その宿場町に次の変化が訪れるのは、明治維新の声を聞いてからになる。明治12年に川沿いの湿地帯であったエリアに、官営工場の千住製絨所が建設された。これは新政府の軍隊の軍服に使用するウール生地を国産化するための工場であった。らしゃ場と呼ばれた工場は、南千住のシンボルと言えたかもしれない。この工場が建設されたことで、数多くの人がここで働き、またここへ通う人も生じたことで、交通も町も今日に繋がる発展を始めることになる。昭和20年の敗戦によって操業停止となり、大和毛織に売却された。その後に業績不振に陥り、昭和35年に閉鎖され、昭和37年から47年まで東京スタジアムがおかれ、プロ野球の本拠地であったりもした。
この跡地には、今は南千住警察署、荒川区スポーツ施設や都立荒川工業高校など、色々な施設が作られている。

製絨所の名残の赤レンガの塀。

今は僅かに保存されているレンガ塀が、製絨所の名残になっている。

製絨所初代所長、井上省三の胸像。初代所長として製絨所の発展に尽力したが、過労に斃れ、四十二歳の若さでなくなったという。

その隣には、明治21年に東京板紙会社が工場を造る。この工場は、我が国で最初に段ボールの製造を始めた会社である。この会社、ボール紙製造を始める契機となったのは、「明治初期の三大名著とうたわれた中村正直翻訳の『西国立志扁』を広く普及させるため」であったという。活版印刷での出版を計画したものの、西洋式の装丁に必要であったからというもの。この時代から、しばらく経過した明治末の頃には、印刷も普及し、出版も大規模に行われるように変わっていく訳で、こういった先人の苦労の上に一気に花開いていったことを思わされる。そして、らしゃ場に並んで、この工場が操業していくことが、この南千住でも三ノ輪辺りの都市化を一気に進行させたこと考えられる。
我が国板紙製造発祥の地の碑。

そして、南千住駅が出来るよりも早い明治26年には、東京瓦斯千住工場が建設されている。ここは今では東京ガス(株)技術センターに変わっているが、隅田川を利用してガスの原料になる石炭を運び込むのに好都合な立地であることから、この地に作られたわけである。ここは橋場に近い方で、山谷の北側に位置している。
その北側には、今も東京の一大貨物ターミナルとして活動している隅田川貨物駅がある。この貨物駅を含めた、常磐線が日本鉄道によって開通したのは、明治29年のこと。この時に南千住駅も開業している。鉄道の開業によって、街道は完全に過去のものになり宿場は寂れていくことになる。だが、南千住は、隅田川(当時は荒川と呼んでいた)の水運を利用する大規模な工場が次々と建設されていき、工業都市としての発展を遂げていくことになった。
現在の東京ガス千住テクノステーション。

そして、球形のガスホルダー。

更にもう一つの変化は、大正2年に三ノ輪~飛鳥山下間に王子電車が開業したことである。王子電車は、メインのビジネスは配電であり、明治43年に巣鴨新田に蒸気機関による発電所を設置し、その配電を行っていた、その電気を利用し電車を走らせた訳である。
現在のジョイフル三ノ輪商店街の辺りには、かつては石川屋敷というものがあった。
「石川屋敷跡
伊勢亀山藩主石川日向守屋敷は、新開地一帯(現在のジョイフル三ノ輪あたり)にあって、総坪数一万千四十坪(約三万六千四百平方メートル)にも及ぶ広さであった。万治元年(一六五八)、主殿頭憲之の時に、三河島・三ノ輪・小塚原三か村のうち一万五百三十坪(約三万四千七百平方メートル)の地を拝領し下屋敷を造築。寛文五年(一六六五)三河島村重右衛門の所有地五百十八坪(約千七百平方メートル)を買い上げ、屋敷・庭園を造築した。
この石川屋敷では、四月から七月までの間に限って鉄砲稽古をしたという。
荒川区教育委員会」
この石川屋敷跡が広大な空き地として残されていたことから、王子電車のターミナルが作られ、その際に周囲の造成も行われたことが予測できる。そして、新しく造成されたところなので、新開地と呼ばれていたのだろう。

この資料を見ていて面白いのは、東京の旧市街の周辺部が一気に都市化していく契機が関東大震災であった。荒川区内でも尾久や町屋などはまさにその時期に農村が宅地へと変化している。ところが、この南千住エリアだけは震災以前に都市化が終わっていて、震災後の人口増加が極めて少ない。その前の時点で、現在の町がほぼ出来上がっていたと言うことである。これは、上記の様な大規模工場や鉄道の開通によって宿場町から工業の町へと姿を変えていたこと、そして王子電車の開業に伴う新開地の開発で、このエリア内にはオープンスペースが残っていなかったと言うことが考えられる。
こんな背景を頭に入れて、ジョイフル三ノ輪の周辺を歩いてみると、石川屋敷や、そこが新開地と呼ばれる町に変わっていったこと、その前からのらしゃ場や板紙工場で働く人達の町になっていったことなど、色々と面白く感じられる。荒川区内を歩き回ってきたわけだが、南千住周辺が他のエリアとは少し違う雰囲気を持っているのは、そんな背景によることが分かって、より興味深く感じられる様になった。
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