東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

品川からの道~目黒、碑文谷の寺社の草創をまとめてみる。

2014-12-31 17:24:25 | 目黒区
さて、品川宿から目黒、碑文谷へと伸びた道を辿り、その行き先がそれぞれ寺院であるところを尋ねてみた。そして、碑文谷の円融寺、目黒の目黒不動龍泉寺の開基が同じ人物であるところまで見てきたのだが、もう少しまとめて俯瞰してみると、より全体像が見えてきて、ダイナミズムが感じられると思った。

806年 目黒大鳥神社創建
808年 目黒不動尊瀧泉寺創建 円仁(慈覚大師)によるという。
853年 円融寺、円仁により法服寺として創建される。
857年 円仁、浅草・浅草寺の観音像を作る。(浅草寺の創建は628年といわれている。)

という辺りをまとめてみるだけでも、円仁という人が武蔵国で天台宗の寺院を精力的に築いていたことが分かる。さらには、浅草寺の中興にも寄与しているというのも興味深い。この時代には、まだ江戸は単なる寒村に過ぎないので、浅草寺は東京と千葉方面との交通の要衝であったらしい。そんな時代背景を思い浮かべる中に、目黒というところが加わってくると云うのが面白い。
室町時代初期の建築、円融寺の釈迦堂。


規模が拡大され、改築も数多く行われてきていて、創建当初のイメージを思い浮かべるのが難しい目黒不動尊。


この時代のこういった流れを見ていくだけではなく、円融寺の歴史を見ても、なかなか凄いものだ。1283年に日蓮の弟子である日源により、日蓮宗に改宗したとある。法華寺と名を改めている。調べてみると、日蓮は天台宗の教えをベースとしていたそうで、天台宗から日蓮宗への改宗というのはその流れを汲んでいるとも言える。さらに、この1283年というのは、日蓮の歿した翌年である。日蓮が日蓮宗を興し、その新しい宗派の生々しい時代に、日蓮宗に改宗したということをみると、 これもまた興味深く思える。日蓮宗に詳しいというわけではないが、なかなか激しい宗派であるという印象を持っていて、外部からの弾圧も多く受けているし、内部での争いも激しいと思っている。

円融寺仁王門も、日蓮宗法華寺の時代のもの。


さらには、法華寺が廃寺に至る経緯というのも凄まじい。不受不施派という、日蓮宗信徒以外からは、布施も受けず、法施も行わないという厳しい協議を設けた一派があったのだが、徳川家康から禁止されていたという。日蓮宗の総本山である身延山久遠寺と、大本山池上本門寺との間で、激しい闘争が行われたわけで、幕府に強いコネクションを持っていた身延山が勝利を収め、不受不施派は一掃されると言う事になった。法華寺も日進が信州上田に流罪になり、その上に天台宗への改宗が行われたわけで、非常に過酷な結末であったことが分かる。
それでも、改宗され円融寺と1834年に改められ、多くの人から信仰される寺院であったわけで、これもまた興味深いものだ。

日蓮宗への改宗などは、日蓮の死没、そして池上本門寺が形成されていく中で、連動して法華寺へと変わっていったことが想像されて、この辺りも池上本門寺と合わせてみていくことで、城南エリアの中世の動きが見えてくる様に思う。
そして、品川宿に数多くある寺だが、調べてみると13世紀創建というところが多い。荏原神社が現在地に遷座した時期が不明だが、1274年に京都祇園社(八坂神社)より牛頭天王を勧請という記述がWikipediaにある。どうも、この年代に品川が一気に町として発展していった時期なのではないかとも思える。この時期に出来たという寺は、各宗に及んでいるのだが、日蓮宗が勃興した時期であったことも各宗派の活発化した時代を呼び寄せていたのではないかとも思えたりする。鎌倉幕府の時代であることも、当然第一にその背景として考えられることだろう。この辺りのことを年表にまとめていくと、地域史としても違った側面が見えてくるかもしれない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿