さて、北耕地川の跡を辿るのも、これで北区へ入り、しかも台地の縁を削る渓谷区間へと入っていく。これまでの上流部辺りでは、いかにも人工の農業用水として開削された水路の雰囲気が濃くて、根村用水とか中用水と呼ばれていた、呼ばれ方にもその特徴が現れていたように思う。この姥ヶ橋交差点から谷を下っていく辺りは稲付川という名で呼ばれていたようだ。稲付という、この辺りに古くからある地名を川の名に関しているというのも、興味深い。
この区間のうち、どこまで人工的に開削されたものなのかというのも、今見てもよく分からない。少し進んで行くと、深い谷になってきて、これは河川による浸食でできたのだろうと思われるところがあるのだが。
姥ヶ橋交差点から階段を下りて、川の跡の道へ。上に見えるのは、環状七号線の立体交差の陸橋。
周囲よりも少し下がっていて、静かな裏通りかと思うような道。曲がっているのが、川の跡の雰囲気。
とはいえ、今では両側には家が建ち並んでいて、ここに川が流れていたとは信じられない様子。
右手は上十条。見るからに谷が削られて出来た様子。
しばらく行くと、少し広くなっているところへ出てくる。昭和三十年代後半には、既に家が建ち並んでいたようだ。この広くなった道の左側半分くらいが川だった。
振り返ると、二叉になっている。右手は、かつては陸軍射撃場、その後北区立梅木小学校で直ぐに突き当たりになる。
上十条側を望む。この広くなっているところは、昭和20年代には田圃や畑だった。今は宅地になっている。背後の上十条は山の上になる様な感じ。
広くなっているところの終わりの辺りで、上十条から下ってくる道を見上げたところ。かつては、川の流れを見下ろしていた家。上十条に向けての傾斜がかなり厳しいことが分かる。
「游鯉園の坂
十条仲原の台地から稲付川(現在は暗渠)に下る坂です。大正時代から戦前まで坂下の川下にあった川魚料亭が游鯉園で、この坂の名前は、その料亭の名に因んで付けられた俗称です。明治の頃、坂下に水車小屋があり、旧稲付村(ほぼ、現在の赤羽西・西が丘・赤羽南に相当します)の農家がよく利用していました。
北区教育委員会」
その坂の下、水車小屋があったのはこの辺だろうか。この道の奥には、西が丘の側の台地へ上る階段がある。その階段はかつては急坂だったそうで、水車小屋へやって来た農耕馬が足を滑らせて死んだこともあったという。その供養のために、馬頭観音も建てられていたというのだが、今は何も残されていない。
坂下の川下側というと、どの辺りだったのだろうか。こちら側の少しすすんだ先にあったのが游鯉園かもしれない。この角の辺りは、かつては家は建てられていなかった様だ。
川が流れていた頃からあった家ではないかと思う。今は傷んでいるのが寂しい。
次第に高度を下げて、川の道は続く。この辺りは、二十三区内の住宅地というには珍しい、渓谷の地形を楽しめるところ。
古い時代から、川の流れ、町の変化を見つめてきたのだろう家がある。木造平屋の日本家屋。手入れが行き届いている。
この台地の縁を、湧き水などから出来た小さな川が削り、谷を作り、入り組んだ凹凸を作り出してきたのだろう。行く手にも、台地の縁の突きだしているところが見えてくる。
中央の木陰に右手の台地上へと繋がる階段がある。急激な壁が立ち塞がっているのが、右手の様子で分かる。
川の跡の道路にありがちな、歩道部分だけが嵩上げされて平坦になっているところ。
左側も急峻ではないものの川の跡よりは緩い傾斜で下って来ているので、まだ高低差がこの辺りでは結構ある。その裾野を巻くように流路が進んで行く。
梅木小学校の下の広くなっているところの終わりの辺りで、左側を道路が、右側を川が下っていくように別れる。今はどちらも道路になっているのだが。それが、ここでまた並行する。
そして、旧岩槻街道と交差する。向こうに見えるのは、埼京線と東北新幹線の高架橋。旧岩槻街道の向こう側には、道路の形に合わせた商家の建物がしばらく前まで残されていた。岩槻街道の拡張のために取り壊されてしまい、残念。
在りし日の商店。この右側を川は流れていた。2012年8月撮影。
この区間のうち、どこまで人工的に開削されたものなのかというのも、今見てもよく分からない。少し進んで行くと、深い谷になってきて、これは河川による浸食でできたのだろうと思われるところがあるのだが。
姥ヶ橋交差点から階段を下りて、川の跡の道へ。上に見えるのは、環状七号線の立体交差の陸橋。
周囲よりも少し下がっていて、静かな裏通りかと思うような道。曲がっているのが、川の跡の雰囲気。
とはいえ、今では両側には家が建ち並んでいて、ここに川が流れていたとは信じられない様子。
右手は上十条。見るからに谷が削られて出来た様子。
しばらく行くと、少し広くなっているところへ出てくる。昭和三十年代後半には、既に家が建ち並んでいたようだ。この広くなった道の左側半分くらいが川だった。
振り返ると、二叉になっている。右手は、かつては陸軍射撃場、その後北区立梅木小学校で直ぐに突き当たりになる。
上十条側を望む。この広くなっているところは、昭和20年代には田圃や畑だった。今は宅地になっている。背後の上十条は山の上になる様な感じ。
広くなっているところの終わりの辺りで、上十条から下ってくる道を見上げたところ。かつては、川の流れを見下ろしていた家。上十条に向けての傾斜がかなり厳しいことが分かる。
「游鯉園の坂
十条仲原の台地から稲付川(現在は暗渠)に下る坂です。大正時代から戦前まで坂下の川下にあった川魚料亭が游鯉園で、この坂の名前は、その料亭の名に因んで付けられた俗称です。明治の頃、坂下に水車小屋があり、旧稲付村(ほぼ、現在の赤羽西・西が丘・赤羽南に相当します)の農家がよく利用していました。
北区教育委員会」
その坂の下、水車小屋があったのはこの辺だろうか。この道の奥には、西が丘の側の台地へ上る階段がある。その階段はかつては急坂だったそうで、水車小屋へやって来た農耕馬が足を滑らせて死んだこともあったという。その供養のために、馬頭観音も建てられていたというのだが、今は何も残されていない。
坂下の川下側というと、どの辺りだったのだろうか。こちら側の少しすすんだ先にあったのが游鯉園かもしれない。この角の辺りは、かつては家は建てられていなかった様だ。
川が流れていた頃からあった家ではないかと思う。今は傷んでいるのが寂しい。
次第に高度を下げて、川の道は続く。この辺りは、二十三区内の住宅地というには珍しい、渓谷の地形を楽しめるところ。
古い時代から、川の流れ、町の変化を見つめてきたのだろう家がある。木造平屋の日本家屋。手入れが行き届いている。
この台地の縁を、湧き水などから出来た小さな川が削り、谷を作り、入り組んだ凹凸を作り出してきたのだろう。行く手にも、台地の縁の突きだしているところが見えてくる。
中央の木陰に右手の台地上へと繋がる階段がある。急激な壁が立ち塞がっているのが、右手の様子で分かる。
川の跡の道路にありがちな、歩道部分だけが嵩上げされて平坦になっているところ。
左側も急峻ではないものの川の跡よりは緩い傾斜で下って来ているので、まだ高低差がこの辺りでは結構ある。その裾野を巻くように流路が進んで行く。
梅木小学校の下の広くなっているところの終わりの辺りで、左側を道路が、右側を川が下っていくように別れる。今はどちらも道路になっているのだが。それが、ここでまた並行する。
そして、旧岩槻街道と交差する。向こうに見えるのは、埼京線と東北新幹線の高架橋。旧岩槻街道の向こう側には、道路の形に合わせた商家の建物がしばらく前まで残されていた。岩槻街道の拡張のために取り壊されてしまい、残念。
在りし日の商店。この右側を川は流れていた。2012年8月撮影。
このあたりの川のエピソードに「園部おまわりさんありがとう」があります。
碑は伊勢湾台風の時に氾濫した稲付川に飲まれ殉職されたおまわりさんの功績を伝えるもので、遊鯉園の坂の下付近に設置されており、誰もが目にし、知っているものだったのですが、いつの間にか無くなっていました。
ネットで調べたところ、現在は赤羽警察署の敷地内に移設されたようで(調べられた方がUPされています)、懐かしさを感じると同時に、北耕地川と隅田川の合流地点付近に建つ赤羽署に移されたことで碑の意味も完全には失われず良かったなと思っております。
以上、ちょっとしたエピソードでした。
御覧頂いて、どうもありがとうございます。
地域に伝わる物語、その記録であった碑のことなど、教えて頂けて有り難いです。
今では川は暗渠化されて、住宅地になった町が、かつてのどんな姿であったのかを感じさせてくれるものだと思います。
この辺りは時々散策に歩いているのですが、赤羽警察まで足を伸ばして、是非その碑を今度は見てきたいと思います。
高低差のある、谷筋の町は、ちょっと他にない趣があって、良いところだと思います。
の記憶ですが裏の崖が崩れ建物が傾き付近の人たちと非難したのを覚えています。
後日警察官が゛少女を助けようとして殉職したと聞きました
通った小学校が廃校に成って居たのが残念でした。
川が塞がれても全体の景色は昔のままで良かったです、貴重な資料拝見でき有難うございます。
遠い昔の大変な出来事と思っていたのですが、広島の豪雨災害を見ていて、これは大変な事だったのだろうと改めて思っておりました。その当時に、お住まいだったんですね。
コメントを頂き、どうもありがとうございます。
うろ覚えの記憶がハッキリしました、米軍の戦車が走り、蝉を取り とんぼを追いかけ、射撃場あとで凧揚げした事など
全部思い出しました。
尚 清水小卒さんのお話を参考に、近いうちに赤羽警察を訪ねてみたいと思います。
でも、今の姿になる前の西が丘周辺の雰囲気が伝わってくるようです。
どうもありがとうございます。
当時は大きな台風が良く来て死者が多数出ており記憶が ゴチャゴチャでスミマセン 小学低学年の記憶ですから。
その後 姥が橋に有った米軍の施設で数か月過ごし世田谷に引っ越しました、そして55年ぶりに十条から稲付を歩いた訳です。
それから 避難が一字変換ミスでした、それでは失礼します、良いお仕事を。
警察もせっかく地元と繋がる良い話なのに、仏頂面とは残念ですね。いずれ私も見に行きたいと思いながら、時間が経過してしまいました。
五十五年振りの十条、稲付は大分様相が変わったかと思います。ブログで少しは楽しんで頂けたのなら、嬉しく思います。