HIMAGINE電影房

《ワクワク感》が冒険の合図だ!
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天気のいい日はプロレスでも――【最終回】

2018年01月30日 | Novel

 両者は相手をマットへ平伏させる為に、厳しい鍛錬によって培った肉体と技を惜しみなくぶつけ合った。来生が殴れば愛果も負けじと殴り返し、愛果が蹴れば来生もまた蹴り返す。肉体同士がぶつかり合う音とふたりの叫び声だけがリングの中に響き渡るが、観客たちはもっと内面的な――《レスリング》という言語による彼女たちの会話を心で感じ想像し、己が信奉する選手たちを力一杯応援した。
 愛果の身体が、捻りながら弧を描きマットに突き刺さった。来生が必殺技として好んで使用する捻り式バックドロップが炸裂したのだ。スピード、入射角度、そしてタイミング。どれを取っても申し分ない精度で技は決まった――だがそれでも愛果は立ち上がる。来生は化け物でも見るかのような目で彼女を見て愕然とし慄いた。名も知れぬローカル団体の、それもお嬢様レスラーゆえに受身の技術も大した事はないのだろうと正直舐めていたのだ。しかし「これひとつだけでもお客さんを沸かせられる」と、さゆりから徹底的に受身を叩き込まれた愛果は技のダメージが下半身まで及び、がくがくと膝を震わせるがそれでも相手をしっかりと睨みつけ、両足でマットを踏み締め立っている。
 それまで来生を支えていた絶対の自信とプライドが揺らぎ始めた。これまでも何度か他団体選手と試合をした事はあっても負けた事は一度も無かった。「もしかしたら……」とネガティブな思考に憑りつかれた瞬間、それまで感じた事の無い恐怖感が湧き上がり、意識と身体とが正常にリンクせず対戦相手に隙を見せてしまう。
 相手をテイクダウンさせてマットへ寝かせ、力一杯締め上げてこの試合を一秒でも早く終わらせよう――余裕を失った来生の頭にはそれしかなかった。膝を小刻みに震わせるも、目だけは闘志を失う事なく輝かせている愛果に向かって来生は叫びながら突進する。だが愛果との距離があと数歩と迫った時、彼女の膝の揺れがぴたりと止まった。勢いが付き過ぎて最早止まる事も出来ない来生は、愛果の懐へ吸い込まれたかと思うと素早く身体を横へ一回転させられ、彼女の膝頭で腰周りを激しく打ち付けられた――カウンター技である風車式背骨折りがベストなタイミングで決まった。

 痛打した腰を押さえマットの上で激しく悶絶する来生に対し、愛果はさらに追い打ちをかける。相手の脚を掴み身体をエビのように反らせると、自分の首に来生の脚をマフラーのように掛ける一方で片腕を足を絡めて固定する。背中から腰にかけて言葉に出来ない程の痛みが走り「ロープへ逃げる」という選択肢すら浮かぶ余裕が無くなった彼女は、痛恨の思いでマットを激しくタップし、レフェリーへギブアップの意思表示をするのだった。大会数日前の道場での練習で、さゆりから直々に教わった変形ストレッチマフラーホールド《スコルピウス(蠍座)》が決まり、愛果ゆうは《太平洋女子 vs こだまガールズ全面対抗戦》の大事な初戦を見事勝利で飾ったのだった。

 がっくりと肩を落とし、敗北の悔しさを隠しきれない来生の元へ、“勝者”である愛果が近寄ってきた。辛うじて勝ちを治めたものの愛果とて無事ではなかった。相手の厳しい打撃技や投げ技を受け続けた彼女も、コスチュームから露出している肌には赤や青のアザが浮かび上がり、身体の至る場所がズキズキと鈍く痛んでいた。
 愛果は真っ直ぐ手を差し出し、来生に握手を求める。
 彼女の瞳からは憎しみは既に消え、互いに全力を出し切って闘った者としての敬意が感じられた。最初は躊躇するものの憐みや蔑みのない、相手の純粋な気持ちを読み取った来生は愛果の手を握ると、さっぱりとした表情で高々と腕を上げ満場の観客たちに“勝者”を紹介した。太平洋女子とこだまプロレス、双方の団体のファン達は女子プロレスの“メジャーシーン”に新たに誕生したニューヒロイン・愛果と、潔く負けを認めた来生に対し惜しみなく拍手と歓声を送り続けた。

 試合が終り、愛果は痛む身体を押して控室に続く通路を駆けていく。メイイエベントに登場する神園さゆりのセコンドとして同行するためだ。さゆりからは「付かなくてもいい」と言われていたが、どうしても彼女の闘う姿を、レスラーとしての生き様を間近で感じたいと半ば強引に志願したのだ。
 控室のドアを開けると、既に身支度を終え出番を待っているさゆりの姿があった。派手な色彩の和柄が刺繍された着物風のロングガウンに身を包む、彼女の姿はまるで約15年前の全盛期当時を思わせた。

「さゆりさん……」

「モニターで観てた――凄くいい試合だったわ。さて、今度はわたしが頑張らなくちゃ」

 さゆりから声を掛けられた途端、それまで張り詰めていた緊張の糸が解け瞳から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。有り得ない程の重圧と恐怖を自分ひとりで必死に堪え闘ってきたが、控室に入り彼女の顔を見て安心すると、それまで閉じ込めていた感情全てが一気に流れ出たのだ。感極まってしがみ付き嗚咽を上げる愛果に、さゆりは微笑みを浮かべやさしく背中を撫でてなだめるのだった。
 坊主頭をしたこだまプロレス練習生が、入場の時間が来た事を告げにやって来ると、さゆりの表情は優しげな大人の女性から目付きも厳しい戦闘モードへと一変した。

 水澤……お望み通り見せてやるよ、元アイドルレスラーの本気ってやつを。

 団体ロゴの入ったTシャツを被った愛果を隣に従え、さゆりは大型照明に照らされ白く輝くリングへと向かい、颯爽と歩みだす――

 カーテンで仕切られた入場口の手前では、ゴー☆ジャス譲治が今日の主役の登場を待っていた。さゆりが一番好きな、少し照れたような笑顔で。
 譲治は無言で彼女の肩を軽くぽんと叩き「頑張れよ」と激励すると、さゆりも軽く彼の腹に肘鉄を喰らわせ、分厚い胸板に顔を摺り寄せてハグをした。ふたりに言葉は不要だった。スキンシップだけで互いの想いが、肌を通して十分に伝わってくる。

 ――青コーナー側より、こだまガールズレスリング・神園さゆり選手の入場ですっ!

 カーテンの向こう側より、リングアナウンサーによる紹介アナウンスが聞こえてきた。さゆりと愛果、そして譲治は互いに顔を見合わせると、観客たちが期待に胸膨らませて待ち構えている大ホールへと飛び出していった。爆音で流される入場曲をものともしない大歓声が、彼女たちこだまプロレス勢に浴びせられる。特に知名度という点ではどの選手よりも高いさゆりには8割方の観客たちから声援が飛んでいた。こだまプロレスや動画サイトにアップロードされてる過去の試合映像を観て知った若いファンや、かつてテレビ中継や実際に生で試合観戦した事のあるオールドファンに至るまで、年齢・世代を超えて《神園さゆり》を応援するこの状況にさゆりは感激に打ち震える。試合の始まる前から黙々と燃やし続けた闘志が、大歓声によって更に大きく、熱く燃え上がった。
 スチール製のステップを一気に駆け上がりロープを潜って、リングの中央に立ったさゆりは両手を広げると、会場より生まれる歓声を全て独り占めするかの如く、ぎゅっと抱き抱えるような仕草を見せる。ファン心理を刺激する心憎い彼女のポーズに観客たちはまた唸った。

 館内の照明が一旦落とされ、今度は赤コーナー側の入場ゲートより今宵の“もうひとりの主役”である水澤茜が現れた。エナメル加工された銀色のロングベストを羽織った水澤は、リング上に立つさゆりの方を向き右腕を高々と掲げた後、ゆっくりと指を拳銃(ピストル)の形に変え撃つ仕草をして彼女を挑発する。場内に赤と青のスポットライトの光が交互に照らされる中、水澤は自身の入場曲のリズムに乗って気の向くまま身体をくねらせダンスを踊るように、観客たちが待ち構えているリングへと続く通路を進んでいった。リングサイドに設置された本部席では、太平洋女子の社長である緒方が彼女の入場する姿に満足げな笑みを浮かべる――先月の大会では、さゆりについての案件で関係に亀裂が入りかけた両者だが、今この場に彼がいる事から推測するに水澤の、緒方に対する不信感は払拭された模様だ。

 あいつ、格好いいなぁ――さゆりは熱狂するファン達とスキンシップを取りながら、こちらへ向かう水澤を見て素直にそう思った。内面に秘めているモノが違うと言えばそれまでだが、最後まで「可愛い」と持て囃されていた現役時代の自分が、年齢を重ねても遂に辿り着かなかった「格好いい」を、あの若さで既に備え持っている事を同時に嫉妬もした。

 遂に相まみえた因縁の両者。レフェリーからボディチェックを受ける間も決して相手から目を離さない――いや、彼女たちが「獲物」としてあまりにも魅力的で目が離せないのだ。特に水澤は待ちに待った「自分を更なる高見へ上げてくれる」相手と直に対峙して、顔には出さないものの嬉しくて仕方がなかった。さゆりも同様で現在の女子プロレスの頂点トップが如何ほどの者なのか、直接肌を合わせられる事に感謝する。公営体育館の収容人数を遥に超える超満員フルハウスの観客たちは、両団体のトップ同士が顔を合わせるこの光景に、背筋をぞくぞくさせ試合開始のゴングを今や遅しと待ち侘びていた。
 体育館の柱に掲げられている大時計が、午後7時45分を指した瞬間――30分1本勝負で争われる両者の、闘いの始まりを告げるゴングが遂に打ち鳴らされた。

 観客たちは序盤のセオリーとして、基本的ベーシックなレスリングの攻防からスタートするのだろう、と予想していたが、実際に目に映る光景は全く違っていた。抑えきれない感情を爆発させるべく、試合早々からハイスパートを仕掛けてきたのだ。素早く水澤がさゆりの首を取りヘッドロックで締め上げると、嫌がるさゆりは彼女の胴に腕を廻し後方へ下がりロープに背をつける。当然ブレークの声がレフェリから上がるもののそれを無視し、ロープの反動を利して相手を正面側のロープへと振った。身体に加速がつき、さゆりへ仕掛けていたヘッドロックが外れた水澤は勢いのままロープへと走ると、次はショルダータックルか何か別の技を狙い猛突進するがさゆりは冷静にマットに伏せそれを回避、戻ってきた所へすかさずドロップキックを放つ。だが水澤も彼女の攻撃は読んでおり、顔面を標的ターゲットとしたフロントハイキックで迎撃した。着弾まであと数センチという所でカウンター攻撃を喰ってしまったさゆりは、頬にリングシューズの跡を付け大きく後方へ飛ばされマットへと落下した。
 痛む顎骨を手で押さえさゆりは立ち上がり、更なる攻撃を加えんと足を振り上げた水澤に対し今度は中国武術の後掃腿――プロレス風に言えば水面蹴りで彼女の軸足を刈り取ってダウンさせ、お返しとばかりに腹部へ近距離のニードロップを突き刺す。膝頭をまだ固めていない腹筋へともろに喰らった水澤は、痛みに顔を歪め横に転がってさゆりから距離を取った。
 患部を押さえ、睨み合って停止する彼女たちに場内からは拍手と歓声が沸き起こる。多くの観客たちはこれまでの闘いに無かった、「殺るか、殺られるか」の緊張感溢れるふたりの攻防を全面的に支持したのだ。
 水澤は立ち上がると、這うような低いタックルでさゆりの胴へ腕を絡み付け、そのまま背後へと回り間髪入れずに投げっ放しのジャーマンスープレックスで後方へ遠く投げ捨てる。だが持ち前の反射神経で危険を察知したさゆりは、自らバック宙をして頭部へのダメージを回避させると今度は、彼女の長い脚へ低空のドロップキックを放ちマットに跪かせると、腕を取ってラ・マヒストラル(横回転十字固め)で綺麗にパッケージしフォール勝ちを狙う。しかし水澤も不自然な体勢から強引に切り返し、事無きを得て大きく安堵の溜息をつく。
 約5センチばかり水澤の方が背が高いとはいえ、ほぼ同サイズの両者の攻防はスピーディーかつスリリングに富んだものとなり、秒単位で攻守が入れ替わってしまうので観客たちは一瞬たりとも目が離せない――もちろん闘う選手たちの方も。
 一転して今度はマットレスリングでのせめぎ合いとなった。隙あらば相手の首や腕、そして足首に至るまで掴める箇所は全て掴み、締め、拉いだ。だが技が完全に極められてしまえばそこでジ・エンドとなってしまうので、 ふたりは持てる力を振り絞って固定されるのを防いだり、極められるポイントを意図的にずらしたりしてサブミッションから逃れようとする。水澤の持つ柔術系の関節技もさゆりのプロレス流関節技も、相手の防御力の高さによってなかなか極める事が出来ず、幾度となくブレークの掛け声がレフェリーから発せられた。休む事無く続けられる裏の読み合い、知恵の輪の解き合いのようなグラウンド技の応酬にふたりの息は次第に上がっていく。

 ――これっ、これよ。私が求めていたものは! 互いが持つプロレスラーの“格”を奪い喰らい合う、果し合いのような試合をずっと待ち望んでいた。アンタが負けても格が下がる事は無いかもしれないけど、逆に勝てば誰も並び立つ者がいない処まで私は行ける!―― よしっ喰ってやる、勝ってやるっ!

 上昇志向の塊のような水澤は目をぎらぎらと輝かせて、標的であるさゆりに向かって再び迫っていく。だがさゆりだって簡単に負ける気などさらさら無い。スタンド技やグラウンド技など、どれも一発でも喰らえば即負けが決定してしまう危険な攻撃を、寸前のところで躱し、往なし、防いでいった。彼女の気が休まる暇も無い。

 ――さすが、現在の女子プロレス界のトップを走っているだけはあるわ。攻撃力に防御力、それに備え持ってるカリスマ性……正直厳しいけど相手にとって申し分ない。絶対に喰われてなるものかっ!

 リングアナウンサーが観客たちに試合開始から15分が経った事を告げると、皆はえっ? と驚いた。過去にアナウンスされたはずの5分目、10分目の経過報告が全く記憶にないからだ。それだけ観客たちはリング上で繰り広げられる、おんなふたりの息詰まる闘いに魅了されているに他ならない。しかし試合時間が残り半分を切ったものの一進一退の闘いが続き、誰もがクライマックスを未だ予想出来ずにいた。

「ごれが一流同士の闘い……凄いけれど、この先どうなるんでしょう代表?」

 リング下でずっと試合を見守っていた愛果が、鉄柱を挟んで隣にいる譲治に尋ねてみた。もちろん明確な答えは期待していないが「さゆりの一番近くにいる人」の意見をふと聞いてみたくなったのだ。

「さあな。プロレスの女神様だって決着(けり)の付け方に戸惑っているんだろう、きっと」 

 愛果の顔を見る事なく、譲治はまるで独り言のように彼女に返事をした。実際、さゆりと水澤の間には身体的な差も世代的な差も、試合中のふたりからは今の所感じられない。しかし長丁場となれば、肉体年齢の若い水澤に分があるのは誰の目から見ても明らかで、どこで勝敗を分ける分岐点(ターニングポイント)が発生するのか観客たちは目を凝らして、リング上で起こっている全ての出来事に注視する。
 水澤がコーナーポスト下でダウンしている――直前の展開で彼女は、ロープに振られ戻って来たさゆりから変形ネックブリーカードロップを喰らい、マットへ後頭部を叩き付けられたのだ。このチャンスを逃してはならぬとさゆりはコーナーポストを駆け上がり、落下技を仕掛けるべく相手に狙いを定めた。

 ――?!

 ぐらりとほんの一瞬、目下に寝そべる水澤の姿が歪む。それと同時に疲労感が身体に圧し掛かり、どっと冷汗が流れた――スタミナが切れ始めたのだ。

 ――冗談じゃない、こんな時にっ

 自己否定と焦りで心拍数も上昇、コーナー上でさゆりはロープを掴んで停止したままで、水澤がその間に回復しその場からいなくなった事も気が付かない。

 がつっ!
 頭部に走る激痛と共に、彼女の網膜に映る景色はぐるぐると回転し、やがて全てが真っ暗となった。コーナー上から動かないさゆりの死角に素早く廻った水澤が、ロープを利したジャンピングハイキックで蹴り墜としたのだ。ほんの一瞬の隙を突かれ、ダメージを負ったさゆりは踏み留まる事も出来ず、コーナー上からセーフティマットの敷かれている場外へと抗いもせず落下していった。
 大歓声に沸き上がる会場とは裏腹に、リングの周りにいる人間たちは言葉を失い、時が止まったかのように立ちすくんでいた――無論、仕掛けた水澤も含めて。

 さゆりの落ち方があまりにも自然過ぎる、と水澤は思った。プロレスラーは「魅せる受身」を常日頃練習をしているが、それが発動されるのは何も技を受ける時だけでない。場外へ転落する際にも、遠方の席に座る観客にも分かるよう見た目は危なげに、且つダメージを最小限に留めるような受身を取るのだ。だが彼女の今の落ち方は明らかに事故で、危険を察知して辛うじて頭部は守ったが背中を強く打ち付け、さゆりは動けなくなっていた。
 咄嗟に水澤は、本部席の緒方の方を見た。だが「プロレスラー」ではない彼は、アクシデントに関する解決策など持っている筈もない。彼に出来るのはストーリーを考える事と会社を運営させる事だけだ。彼女の悲痛な視線に緒方はどうする事も出来ず、ただ下を向くだけだ。予期せぬ事態に《キャラクター》という殻の内側にある、本来の水澤が顔を覗かせ顔面蒼白となる。

「さゆりさん! さゆりさんっ!」

 愛果も自分の目の前で、倒れたまま動かないさゆりを見て、パニックに陥りかけていた。一刻でも早く側に寄って彼女を揺さぶり起こしたいと、一歩前に出かけたが譲治は腕を掴みそれを強引に引き留める。

「何でなんですかっ?! さゆりさんの事が心配じゃないんですか!」

 ヒステリック気味に怒鳴る愛果の肩を掴み、落ち着いてと冷静に語りかける譲治。最初は感情的になり理解出来なかった愛果だったが、彼の真剣な眼差しと肩から伝わる体温で、次第に落ち着きを取り戻していく。
 譲治は更にリング上で、自分のキャラクターを放棄して怯えてしまっている水澤にも、観客たちに気が付かれない様にアドバイスをした。

「心配要らないよ、茜ちゃん。ちょっと落ち方が悪かっただけだ。直に回復するからそのまま怖い顔して待ってて」

 試合中そんなに怖い顔かな、私?――納得いかない表情の水澤を余所に、目を閉じて倒れたままのさゆりの側に寄り添うと譲治は、パンパンと手を叩き大声で語りかけた。決してさゆりの容態を全て把握しているわけではない、だが公私と共に大切なパートナーとなった譲治には、何故だか不安はなく根拠の無い自信だけはあった。

「さゆりさん、皆が待ってるよ。だから……辛いかも知れないけど起きてっ」

 大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせながら、譲治は彼女の反応を見守る。
 彼の呼び掛けからワンテンポ遅れて、さゆりの指がぴくりと動いた。やがて掌は拳へと形を変え彼女はゆっくりと上半身を起こす――さゆりは無事だ。

 愛果は涙ぐんで彼女の名を叫ぶ。水澤も安堵の表情でほっと胸を撫で下ろす。

「……痛ててて、ちょっとミスったわ。本音を言えばこのまま寝ていたいけど、お客さんが――水澤が期待して待っている。だから行かなきゃ」

 譲治の肩を借りてさゆりは、床から身を剥がすように立ち上がった。足元が若干ふら付いているが時間の経過と共に回復するだろう。譲治は念のため彼女の瞼を開けて、瞳孔を確認するが特に大きさに異常はない。

「うん、あと少し。悔いの残らないよう存分にシバき合って頂戴ね」

「ひどーい! それが“恋人”に言うセリフ?」

 いい笑顔だ。これなら残り時間内は問題なく闘えるだろう。譲治はさゆりの背中を優しく擦りながら、闘いの舞台であるリングへと送り出す。
 リング上で待っていた水澤が、ロープを開けてさゆりを招き入れる。彼女なりの最大限の敬意の表し方にさゆりは、にこりと笑みを浮かべ黙ってそれに従った。
 リングへ無事に舞い戻った《フェアリーファイター》は再び宿敵と対峙した。だが以前のようなギスギスとした空気はなく、どこか落ち着いた社交場のような空気が流れていた。ここは己の意見を言論ではなく力と技によってぶつけ合う、最もシンプルかつ公平な場所。自分の優秀性を誇示したければ――相手を腕ずくで叩き伏せるしかない。

 さゆりが水澤に握手を求め手を差し出した。彼女もそれに応じ手を握り返す。

「――残り時間、全力で突っ走るわよ」
「また途中で、ガス欠起こさないで下さいね。先輩?」

 ふたりが手を離した瞬間、互いが背後のロープへ走り加速を付けると、合わせ鏡の如く同時にドロップキックを放ち、相手へ着弾し損ねたふたりはマットへと落下した。しかしまだ攻撃を諦めていないさゆりたちは、素早くヘッドスプリングで身体を起し次の展開に備えた。
 相手をグラウンド戦へ持ち込もうと、さゆりがフライング・ヘッドシザーズを仕掛けた。だが既にこれを読んでいた水澤は側転で切り返し、マットに寝そべる事を拒否する。お返しに後方からさゆりに飛び付きくるりとエビに固めた水澤だったが、この技も相手がしっかり腰を落とす僅かな隙をついて、さゆりは身体を回転させフォールを狙う。ふたりの裏の読み合い、技の返し合いに観客たちはまた熱いエナジーを放出させる。一旦敗北へのフラグが立ったかと思われたこの試合だが、持ち直したさゆりの猛攻により再び勝敗の行方は分からなくなった。
 水澤は素早く立ち上がると、まだ片膝を付いたままで体勢の整っていないさゆりに対し、強烈なミドルキックを撃った。踏ん張りの利かないさゆりは彼女の容赦ない蹴りをもろに受け、ロープを超えて場外まで転がっていった。

「よし、行くぞぉ!」

 この試合、初めて水澤が観客たちに声を出してアピールした。彼女は反対側のロープへ飛び助走のスピードを上げると、場外で胸を押さえ呼吸を整えているさゆり目掛け駆けていき、セカンドロープを踏み込んで高く上に飛び上がった後、全身を捻って相手に体当たりを喰らわせた。旋回式ボディアタック――《トルニージョ(竜巻)》が見事に炸裂しさゆりは大の字になって倒れる。この水澤の美技に観客たちは、驚愕のどよめきと賛辞の拍手を惜しみなく贈った。
 一足先にリングへ帰還した水澤は、ダメージを蓄積させたまま戻って来たさゆりの腕を担ぐとロープ越しのブレーンバスターを狙い持ち上げた。だがこれを嫌がったさゆりは足をばたつかせ、重心を下げてこれを回避すると彼女の横っ面へ強烈な張り手をぶちかます。目の奥がぐらりと揺れ意識が一瞬遠退いた次の瞬間、水澤の首を両手で固定したさゆりは、エプロンサイドへ尻餅をついてトップロープを相手の喉元へ押し当てた。さゆりの体重が乗掛かった自分の首をロープで激しく打ち付けた水澤は、強い衝撃と共にロープの反動で大きく後ろへ飛ばされてれてしまう。
 マットに寝そべった水澤を確認したさゆりは、自分もトップロープへ飛び乗りバウンドさせて跳躍力を蓄えると、くるりと後ろ向きになり大きな弧を描いて空間を舞い水澤の身体へ全身を叩き付けた――スワンダイブ式のムーンサルト・プレスが決まった。しかしレフェリーのカウントはツー止まりで試合はまだ続いていく。

 試合時間が残り5分を切った。これまでにも普通の試合では、十分にフィニッシュになり得た場面は幾つもあった。だが、そうはならなかったのはさゆりと水澤の、勝利に懸ける執念と相手に対する意地や見栄、そしてどの選手よりも防御力・耐久力が優れていたからに他ならない。水澤は生まれ持った天賦の才能で、さゆりは練習と過去の試合から得た経験で相手の攻撃を凌ぎ、躱し、往なしてきたのだ。

 あぁぁぁぁぁっ!

 水澤が激痛に喘ぐ。さゆりの関節技でのフィニッシュホールドである、変形羽根折り固め《フェアリーズ・ボウ》がガッチリと極まったのだ。腕や上半身に走る痛みに奥歯を噛み締め耐え、マットの上を藻掻きながら必死に逃げ場を探し求める。逃げられてたまるかと、渾身の力を振り絞って締め上げるさゆり。何とかロープに辿り着き、レフェリーの「ブレーク」の声と共にさゆりの身体が離れた瞬間、水澤は安堵の表情を浮かべた。
 再び両者がスタンドの状態になると、真っ先に水澤はさゆり目掛けて鋭角な肘打ちを喰らわせた。被弾した箇所が赤く染まる中、さゆりも負けじと同じ技で反撃しごつごつとした肉弾戦がふたりの間で繰り広げられる。二発、三発と打つ度に戻ってくる打撃は自分の力以上のものを感じ、既に疲労している身体にますますダメージが蓄積されていき遂に、水澤はさゆりとのエルボー合戦に力尽き前屈みになってしまう。この千載一遇のチャンスを逃してはなるものか、とさゆりは止めの一撃を喰らわすべく大きく腕を振りかぶった。

 ――よし来たっ!

 この時を待ち構えていた水澤はにやりと笑うと、さゆりの攻撃を流し自分の方へ彼女の身体を引き込んで回転し腕を取った。飛びつき腕十字固めが電光石火の如く極まり、さゆりの肘が伸ばされ今度は彼女が悲鳴を上げる番だ。痛みから逃れようと、曲げられている方の手を掴み上体を起こそうと必死になる。己の背筋力をフルに駆使して立ち上り、腕十字固めを何とか防ぐ事はできたが、水澤はそれを察知していたのか今度はグラウンドの状態から三角締めへと移行し、頚動脈を自分の肩と相手の大腿部で締め付けられたさゆりの顔には苦悶の色が浮かぶ。逃げれば逃げるほど太腿が喉へ食い込み、血液中の酸素が遮断されますます意識が遠退いていく。そして――さゆりは脱力し動かなくなった。
 涙を流しながら、さゆりの名を何度も叫ぶ愛果。だが目を閉じ、ぐったりと寝そべったままの彼女からは何の反応もない。水澤はそんな彼女の姿に安堵と喜びとが入り混じった表情を見せ、コーナーポストの金具に足を掛け最上段へと昇っていく。いよいよ彼女一番の必殺空中弾《メエルシュトレエム》を放つ時が来た。残り試合時間がいよいよ3分を切った頃に訪れた最高の、そして最後のチャンス――コーナーの真下で最後の時を迎えるさゆりに、しっかりと狙いを定め自分の中でゴーサインを出すと複雑な捻りを身体に加えながら落下していった。水澤の体重プラス空中回転により発生した圧力をまともに喰らったさゆりは、目をひん剥いて悶絶する。
 ワン、ツー……とレフェリーがマットを叩きフォールカウントを取る。あとひとつ数えられれば水澤の勝利が確定する――だが三つ目を叩き入れようとした時、急にレフェリーは振り上げた手を止めカウントを停止した。全身全霊を込め、立ちはだかる最強の敵に放った最高の一発が返された? 勝利を確信していた水澤は食って掛かるがレフェリーが指した指の先を見て愕然とした。さゆりの足がサードロープに触れているのだ。気が逸りすぎてフォールする際に、ロープとの距離など位置確認を怠ってしまった事に水澤は顔を手で覆い天を仰いで悔しがる。

 頭皮に痛みが走った。背後から誰かが髪を掴んでいる――さゆりだ。呼吸も荒く目は虚ろだが、それでもしっかり立っている。

「――落ち込む暇があったら、とどめを刺しに来いよバカ」

 生気の無い顔で笑うさゆりを見て、水澤は得も言われぬ恐怖を感じ背筋が凍った。
 どんっ!
 水澤の腹に一発、さゆりは頭突きを喰らわし足元をふらつかせると続いて左右の張り手を顔面へ、最後にハイキックを首筋に叩き込み精神的ダメージから未だ立ち直っていない彼女の肉体に大打撃を与えた。全身の力が抜け落ち、膝から崩れ落ちる水澤の身体をさゆりは背後へ回り抱きかかえると、両腕を羽交い絞めで固定し、ひと呼吸で一気に彼女もろ共ブリッジをした。腕が固定され肩が上がらない水澤は、受身を取る事も出来ずそのままマットに後頭部を痛打した。一時現役を退いてから十数年、ずっと封印していた神園さゆり最強の必殺技《ウイングロック・スープレックス・ホールド》が炸裂する。羽根をもがれた《天使》は成す術も無く奈落の底へ墜ちていく――
 だが燃えたぎる闘志を打ち消すかのように、突如ゴングの音が場内に鳴り響いた。30分間の試合時間が終了したのだ。リング上の熱い闘いに息を飲んで見守ってきた観客たちはゴングの鈍い金属音を聞き、ようやく我を取り戻す。

 パチパチパチパチ……!

 何処からともなく自然発生的に、ふたりの闘いに敬意を表し拍手が沸き起こった。正直もう少し――出来れば決着が付くまで観ていたいというのが本音だが、死力を尽くし精根尽き果てるまで闘った彼女らに、「これ以上」を求めるのは酷というものだ。さゆりが羽交い絞めのロックを外し力無く座り込んでいる。その表情からも疲労の色が見て取れた。そのすぐ隣では水澤が仰向けになって、胸を大きく上下させ深呼吸をしている。彼女も同じく疲労困憊ですぐにマットから立ち上がれずにいた。

「さゆりさんっ!」

 愛果と譲治が試合終了と同時に駆け寄ってきた。仲間の存在に気が付いたさゆりは残っていた力を振り絞り腰を上げると、ふたりの元へふらふらと歩いていき辿り着いた譲治の懐へ自身の身体を預けた。彼の体温を感じようやく彼女の顔に笑顔が戻る。対する水澤も若手選手による懸命のアイシングで、身体の痛みを緩和してもらいどうにか立ち上がれるまでに回復した。
 レフェリーがふたりの腕を上げて、観客たちに引き分けを宣告した後本部席からさゆりにマイクが渡される。どうやら彼女は水澤に何か言いたいらしい。それが自分に対する叱責なのか賞賛なのかわからない水澤は、マイクが拾う彼女の荒い呼吸音が止むのを下を向いてじっと待っていた。

「――水澤、あなた本当に最高の選手よ。時代の潮流ってやつを自分の身体で感じてつくづくわたしは“昔の人間”だって事を痛感した。だから、もうわたしに構わないで頂戴。あなたは既に現在の女子プロレス界の最高峰、こんな過去の遺物に付き合っていちゃ駄目なの。あなたを倒す事を夢見る、若い子たちの高い壁であり続けなさい。もしそれでどうしても悩んだりする事があったら――わたしを頼りなさい。好敵手(ライバル)にはなれないけど、茶飲み友達としては大歓迎だから」

 さゆりの話が終った瞬間、水澤は目に涙を浮かべて彼女にハグをした。その身体はどこか震えていて、孤高の存在で居続ける事への不安と重責に必死になって耐えてきた事はさゆりにも十分伝わってきた。だからこそ自分よりも格上の選手を求め、闘う事で心の平穏を得ていたのかもしれない――無敵であるが故に守備に入るのではなく、常に攻め続ける挑戦者(チャレンジャー)としての本来の自分の姿を見失わないように。さゆりは闘っている時とは違う、素の水澤茜に触れたような気がして急に愛おしくなり、まるで幼子をあやす様に優しく髪を撫でるのであった。

 過去と現在、異なる世代同士が衝突した《夢の対決》は、記録の上では引き分け――つまり勝者も敗者も存在しない中途半端な結末を迎えた。しかしこの一戦を目撃した観客一人ひとりの中では、それぞれ異なった結末を胸に帰路に就く事だろう。全体的に水澤が試合を支配していた主張する者もあれば、いや、さゆりが最後まで喰らい付いていたと思う者もいるだろう。勝敗が付いていない事に不満を漏らす者、逆に未決着だから次に闘う時が楽しみだと期待する者――プロレスにはいろいろな感じ方があってもいい。只の時間切れ引き分けではない、《一流》にカテゴライズされるふたりが心技体を駆使して闘い、制限時間内に勝負が付かなかった《死闘》の真の勝敗は闘った本人しか分からない。
 この試合に対し、水澤はコメントを求められても一切語る事は無く彼女のファンや、ゴシップ好きのプロレスマニアからはさまざまな憶測が飛び交ったが、彼女は別にそれでもいいと思った。さゆりも同様で、試合後の会見でこの一戦について聞かれた際に「どっちが勝者かって? それは観た人が決めてください」と短いコメントを残したきり二度と口を開く事は無かった。だが後日、親しい人たちの前ではこんな事を語っている。

 ――勝った負けたで言えば「勝った」って言えるわね。水澤との? いや違うわ、団体としてよ。だってあんな大きな団体から喧嘩を売られたけど、借金までして舞台をセッティングし、必死でチケット売り捌いてその結果、大入り超満員だったんだから太平洋女子に「勝った」って胸張って言えるわよ。それまでどこの女子プロレス団体もやった事が無いんだから当然よ。

 その時のさゆりの表情は、満面の笑みだったという――

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――  

 そして季節はいくつも流れ、また春が訪れる。

 市民の憩いの場である大公園には桜の花が満開に咲き誇り、しばらくの間雪で覆われていたこの地域の景色をまた違った、明るい雰囲気へと変えてくれる。まだ朝晩は身を切る寒さが残るものの、日中は陽気に包まれて暖かく冬場は外出を躊躇していたような人々も、今では何の気兼ねも無く、思い思いの場所へ足を運んでいる。

 そんな中、《こだまプロレス》は今年最初の野外興行を、この大公園で開催していた。
 大勢のギャラリーが見守る中、肌の露出が多いセパレートスタイルのリングコスチュームで登場した神園さゆりは、暖かな日の光を全身に受け大きく背伸びをした。

 ――気持ちいいな。やっぱり天気のいい日は外でのプロレスよね。

 どこかまったりとした空気感を醸し出しているさゆりに対し、簡素なリングコスチュームでまだあどけなさが残る先月デビューしたばかりの新人選手は、がちがちに身を固くし緊張している。そんな彼女にさゆりは肩を抱いて気持ちを落ち着かせると、目の前にいる対戦相手へちらりと視線を送るとこう語りだした。

「見てごらん、白いコスチュームを着た彼女……愛果ちゃんねぇ、あなたと同じ歳の頃にここに来たんだけどね、いっぱい負けていっぱい泣いてそれでもいっぱい練習して――今じゃ太平洋女子のタッグチャンピオンにまで成長したのよ。だからあなたも負ける事を恐れちゃ駄目。敗北を次の勝利への糧としなさい」

 新人選手はかつてのさゆりの弟子――つまり自分の姉弟子である愛果ゆうへ目を向けると深く一礼する。自分の後輩である彼女の、微笑ましい行動に愛果はふと目を細めた。

 愛果はあの対抗戦の後、さゆりの斡旋によって太平洋女子へ定期参戦するようになり、そこで練習と実戦経験を重ね大学卒業後に太平洋女子へと籍を移したのだ。“レジェンド”神園さゆりの寵愛を受け、エース・水澤茜にも目を掛けられる存在である愛果には同世代の選手から嫉妬されたが、それをひとりずつ己の実力で黙らせていったのは流石としか言うほかは無い。
 そして現在ではその水澤とタッグを組み、何と太平洋女子認定のタッグ王座を保持するまでに成長したのだった――本日の試合の隣りにも、あたり前のように水澤が傍に寄り添っている。

「さゆりさん、今の愛果はアンタが知っているかつての愛果じゃないよ。かつての愛弟子から倒される覚悟、出来ている?」

 水澤が挑発する。かつてのように自分自身にプレッシャーを掛け続けトップの重責をひとりで担っていた、狂気に近い雰囲気を纏う水澤茜はそこにはいなかった。余分な力が抜けさゆりと同様に、プロレスをエンジョイしようとする彼女は前以上に魅力的に映る。事実さゆりとの一戦をきっかけにファンになったという者も多いと聞く。やはり生まれ持ったカリスマ性は偉大である。

「さゆりさん、さっさと負けて早く譲治代表と式を挙げたらどうですか? 待ってますってきっと」

 愛果もさゆりに向かい口撃するが、逆にそれが怒りに火を付けたようで彼女は愛果の髪を掴むと刺すような視線で睨み返す。

「うるせーバカ! もうちゃんと決まってるよ……今年の6月だよ。だから愛果ちゃんたち、ご祝儀よろしくお願いね♡」

 ちょっぴり恥ずかしげに、しかし喜びに満ちた表情で態度とは裏腹に結婚式の報告をするさゆりだが、愛果のトンチンカンな発言にますます怒りの火が燃え広がった。

「勝利で恩返し……ってのはダメですか?」

「物理的なもんに決まってるだろ! おいレフェリー、さっさとゴング鳴らせ! 絶対愛果から一本取ってやる」

「と、いう事だから愛果。後はよろしくね」

 いきり立つさゆりを見てこりゃ手が付けられない、と思った水澤はリング内に愛果ひとりを置いて、早急にロープの外へと逃げ出した。危険察知能力は相変わらず早い模様だ。

「そんなぁ~。さゆりさんも水澤さんもヒドイよぉ」

 涙目の愛果をよそに、おんなたちの大混戦はゴングの音と共に開始された――

 
 ―――終


天気のいい日はプロレスでも――【第5回】

2018年01月30日 | Novel

 「――それではお呼びしましょう。ゴー☆ジャス譲治さんとサユリーナ選手、どうぞ!」

 清潔感を漂わせる美貌の女子アナウンサーからの呼び出しと共に、合板丸出しな番組セットの裏で待機していた譲治とさゆりがADに促され、眼が眩むほどの大型照明とテレビカメラの待機するセット正面へ移動した。ふたりはいつも試合で着用している、おなじみのリングコスチュームでの登場だ――

 《太平洋女子 vs こだまガールズ全面対抗戦》がマスメディアで発表されてからというもの、譲治たちの身の回りが急に慌ただしくなった。団体事務所の電話にはチケットの問い合わせはもちろん、地元や県外マスコミからの取材依頼が引っ切り無しにかかってきて、彼や選手たちは休む暇なく対応に追われていた。
 目立ちたがりという本来の性分もあり、《こだまプロレス》旗揚げ時より譲治は「地元愛を謳う謎の覆面レスラー」という“色物枠”でローカル番組にたびたび出演、それが自身の存在と団体の認知度を上げるきっかけになった事もあってか、今回もテレビ出演を中心に宣伝活動を行う事を決めた。実際、テレビに出た後のチケットの売れ方は普段の倍以上で、普段プロレス中継や、専門誌を見ない一般層に向けて情報を届けられる最良の媒体は、圧倒的に地上波によるテレビ放送であろう。
 一方で活字媒体へのアプローチも忘れてはいない。プロレスの、見た目の面白さや凄さは映像媒体だけで伝わるが、そうでないもの――譲治のプロレスに対する視点や哲学など、自身の内面を表現するのには時間に限りのあるテレビよりも、腰を落ち着けて読者が目で「聞いてくれる」活字が一番いい。だからテレビ出演の合間を縫って雑誌や新聞、それにWebメディアからのインタビュー依頼を出来る限り受け、時には面白おかしく、または真面目に大会のアピールと共に自身のプロレス観を大いに語ったのだった。

 小洒落たカフェをモチーフとした情報番組のセットの中では、メイン司会の女子アナウンサーと共にふたりは短く編集された、《こだまプロレス》の大会の様子やアイドルレスラーだった頃のさゆりの試合を見て、ときどき尋ねられる質問や疑問に答えていた。モニターには懸命に制止する若手選手たちをものともせず、熱狂的なファン達に揉みくちゃにされながら入場する彼女が映し出されていた。

「うわっ……この時怖くなかったですか?」
「画面では平気な顔してますけど、正直ほんと嫌でしたね。試合後に“胸を触られた”って下の子たちが泣き出したりするし……試合自体よりも入退場に神経使いました」

 眉を八の字にして若干引き気味のアナウンサーに、さゆりは笑顔で当時の“裏話”を語った。映像は次の場面に移り、フィニッシュ直前の様子へと切り替わる。コーナーポストからの落下技を狙う対戦相手に、セカンドロ-プへ足を掛け弾みを付けると、突き上げるようなドロップキックを放ち落下させたさゆりは、頭を押さえふらふらと不用心に立ち上がる相手の背後を素早く奪い、羽交い絞めで両腕の動きを封じそのまま後方へ、綺麗な弧を描いてブリッジしマットへ沈めた――全盛期のフィニッシャーであったウイングロック・スープレックス(ドラゴン・スープレックス)が決まると画面の中に映る十五年前の観客も、それを見ていたアナウンサーからも同時に驚愕の声が漏れた。

「凄いですね! 相手との体格差をものともせず投げちゃうなんて。今度行われる試合でも見せてくれるんでしょうか?」
「出来たらいいなーとは思っているんですけど、相手があの水澤茜ですから。でもチャンスがあれば狙っていきますよ、当時一番の必殺技でしたから」
「先ほどちらりと対戦相手の名が出ましたが、さゆりさんは水澤さんの事をどう評価されてますか?」

 さゆりはしばらく上を見て考えた後、はっきりとした口調で水澤について語りだした。

「ひと言で――凄い選手です。この間試合を生で観戦しましたけど、時代云々ではなくどの選手より身体能力が高く自己表現も素晴らしい、正に完璧に近い今の時代のスターだと思っています。だからこそ彼女には絶対勝ちたいですね」

 試合が決まった以上は、年齢や休止期間(ブランク)によるスタミナの衰えなどを言い訳にせず、持てる全ての力を相手にぶつけた上で勝利したい――水澤との対戦に消極的だった以前のさゆりとは違っていた。家族連れで観戦しに来るお客さんの前で見せる“楽しいプロレス”も好きだけど、勝ち負けに拘る純粋なプロレスもまた楽しい。闘争心が久しぶりに燃え上がったさゆりは活き活きとし、かつての絶頂期にも似た《スター》の輝きを放っていた。 

 さゆりは今回の試合に専念するため、これまで住んでいたアパートを引き払って譲治の家に“押しかけ女房”よろしく転がり込んだ。そのほうが行動が楽だし何よりも、彼ともっと一緒に居たいという「本音の部分」もあった。こうして大会のプロモーション活動と合間を縫って道場でのトレーニングというハードな日々を送るにつれ、今まで勤めていたアルバイト先へ時間が全く取れず、働きに出る事が難しくなった。さゆりは辞めるべきかどうか真剣に悩んだが、店長との話し合いで休業扱いにしてもらった上に、何と大会チケットを50枚ほどまとめて買ってくれたのだった。

「また試合が終ったら、店に顔を出してくださいね――なんて優しく言われちゃってさ、もう泣きそうになっちゃった」

 今日もへとへとになり、夜遅く譲治宅へと戻ったさゆりと譲治は、彼女が手早く作った夜食のうどんを食べ、“仕事”から解放された、という実感がようやく湧きあがり、それまで身体を縛り付けていた無意識下の緊張が解ける。薄らと湯気の立つ、熱い麺汁がゆっくりと喉から流し込まれると溜息と共に、冷え切っていた身体も暖まり心も何だか穏やかになった気になる。

「いい人だね、その店長。そういう人格者と親しくなっておくと、後々にピンチになったとき助けてくれるもんね……大事にしなよ」
「そうね。また仕事を再開出来るように、大会が無事に終わるまでは《プロレスラー》に専念しなきゃ」

 食器棚の壁面に張り付けてある、残り一枚となったカレンダーの、日に日に迫る大会開催日に記された赤い丸印を見て、さゆりはぽつりと呟いた。
 うどんを完食して空きっ腹が満たされた譲治は、眠気に襲われ頬杖をついたまま首をこくりこくりと上下させている。それを見たさゆりは譲治の肩を叩きベットへ行くように促すと、彼は目を擦り「うん、うん」と彼女に返事をしベッドまで辿り着くと、着ている服も脱がずにそのままうつ伏せになって倒れた。

「――今日も一日ご苦労様。そしてありがとうね」

 既にいびきをかいて眠る譲治の頬に、彼女は軽くキスをする。そして自身も服を脱ぎ淡いピンク色の寝間着に着替えると、起こさないよう静かに彼の傍へ潜り込んで眠りについた。譲治と同じく疲労困憊なさゆりも、あれこれと考え事をする間もなく瞬時に深い闇へと堕ちていく――
 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 

 暦の上では祝日である今日は、ビッグマッチが決まる以前からスケジュールの入っていたイベント《商店街プロレス》が、多くの商店が軒を連ねるアーケードの中にリングを設置して行われていた。水澤との試合を数日後に控えているこの時期に、さゆりに試合をさせるのはどうか? との声もあったが、練習と宣伝活動だけでは当日、思った通りに身体が動くかどうか心配だったし、何よりも相手は自分と闘う前に各地を廻り、何試合も行ってコンディションを整えているはずだ。さゆりは久しぶりの野外での試合やリングの感触に胸を躍らせる。

 試合は譲治とサユリーナこと神園さゆりがコンビを組み、“謎の黒覆面”HEY-ZONE・愛果ゆうとが対決するミックスド・タッグマッチがマッチアップされ、リング上では男性レスラーふたりが序盤早々激しいバトルを繰り広げていた。
 口無し目無しの黒いマスクと、グレー&ブラックのワンショルダータイプのロングタイツという、昭和のレスラーを思わせるコスチュームのHEY-ZONEが巨躯を活かした連続ショルダータックルやパンチ・キックといった反則ギリギリの攻撃をする一方、袖の部分に切込みの入った紫のタンクトップに、マスクと同じ赤色で揃えたパンタロンという出で立ちの譲治は、真正面に飛んでのフライングラリアットやクロスボディなど空中殺法に勝機を見い出そうとする。

「ぬぉぉぉぉ!」

 HEY-ZONEの放つカウンターのクローズラインをかわし素早くバックを取った譲治が、抱え込み式のバックドロップで相手の頭をマットに叩きつけると、ふらふらになりながら自軍のコーナーへ戻り、サードロープに足を掛け待機していたパートナーのさゆりへとタッチした。一方のHEY-ZONEもミックスドマッチの「掟」として相棒の愛果に交代する。近年では性別の垣根が取り払われ男性×女性の対戦も珍しくなくなったミックスドマッチだが、昔気質のHEY-ZONEはこういった基本的なルールだけは厳守する。
 大一番を間近に控え、最近では彼女の姿を見ない日が無いくらい各メディアに出ずっぱりなサユリーナと《こだまプロレス》いちのアイドルレスラー・愛果が対峙すると、リング周辺のギャラリーから一際大きな歓声が沸き起こった。ふたりは熱いエルボーバット合戦に始まり、手首の取り合いやドロップキックの相打ちなど互いに一歩も引かず見物客を大いに熱狂させる。絶好調のサユリーナはもちろんだが、地道に努力を重ねてきた愛果の成長は著しく、少し前まではその容姿だけで観客たちの興味を引いていた彼女が、あの時以降精神的にも逞しくなり、そのファイトぶりにも注目が集まるようになった。愛果自身も「水澤効果」によりプロレスラーとしての自我に目覚めたのだ。

「HEYさん、お願いします!」

 何度も愛果の猛攻を凌ぎ、スタミナを大幅に削られ棒立ち状態のサユリーナに、彼女はフィニッシュを決めようとパートナーのHEY-ZONEへ、進入する譲治の足止めを指示すると素早くコーナーポストを駆け上がり、身体を捻って眼下のサユリーナへと体当たりした。ダイビング・クロスボディが見事に決まり、レフェリーがフォールカウントを取るが惜しくも三つ目がカウントされる前に、HEY-ZONEのガードを振り切った譲治によって阻止されてしまう。拳でマットを叩き悔しがる愛果。
 今度はサユリーナが反撃する番だ。愛果の腕を掴みロープへ投げ飛ばし戻って来た所へ、両足を綺麗に揃えバネの利いたドロップキックを胸板へ叩き込みダウンさせると、彼女の身体をうつ伏せにさせ脚で右腕を固め、残った左腕を自分の腕でしっかりと固定し力一杯弓形に反らせた。腕や肩はもちろん上半身も捻られ伸ばされ、しかも反対の腕も固定されていて、逃げる事が出来ない愛果は足をばたばたさせて激痛に喘ぐ。HEY-ZONEが慌ててカットに入るが、そうはさせまいと譲治は顎部狙いのトラースキックで彼の出足を挫いた。サユリーナの変形羽根折り固め《フェアリーズ・ボウ(妖精の弓)》が完全に極まり、愛果はもはやタップするしかなかった。レフェリーが彼女にギブアップの意志を確認し、20分近くも行われた激戦は譲治&サユリーナの勝利で幕を閉じたのだった。

「ねぇ愛果ちゃん、本当に大丈夫? 息できる?」

 さゆりが心配そうな表情で、愛果のピンクのニットセーターの上から脇腹を撫でる。コールドスプレーと湿布の匂いに覆われる彼女は少し顔をしかめたが「平気です」と言って笑顔をみせた。
 《商店街プロレス》終了後、四人は打ち上げとばかりに譲治なじみの焼き肉店で食事をしていた。座敷席もある個人経営の店で、店の壁にはこの店に食事に来た有名人のサイン色紙と並んで、譲治の勇姿が映る大きなポスターも貼られている。

「うんうん、よく頑張ったまなちゃん! じゃあ一緒に飲むか」

 早くも飲んでいい気分になっている、HEY-ZONEこと平蔵はビールをグラスに注ぎ愛果の前に差し出すが、慌ててさゆりがそれを奪い取った。

「ちょっと平さん……彼女、まだ未成年だから!」

 平蔵に注意したさゆりが、手にしたビールを喉を鳴らしてぐっと飲み干すと、その「男前」な飲みっぷりに男性陣一同がおおーっ! と歓声を上げる。

「――でも愛果ちゃん、今日の試合凄く良かった。俺たちが宣伝活動で飛び回ってしばらく見ないうちに成長してるね」

 ぱちぱちと脂が焼けて、いい頃合いとなった肉を口に頬張りながら、譲治が今日の愛果の試合ぶりを褒めた。彼曰く技と技との繋ぎがスムーズになっていて、以前は次の行動に移るまでの間の長さが気になっていたが、今日の試合では彼女が次に何をするかちゃんと理解していて、止まっている時間が短くなっているのだという。

「そう、わたしも思った! ちゃんと胸を突き出して攻撃を受けるし、技の仕掛けも段違いに速くなってるの。いっぱい練習してるんだね、愛果ちゃん」

プロレスの先輩たちから今日の試合を褒められ、照れ臭さと嬉しさで愛果は少し顔を赤らめた。しかし慢心はせず、現時点での評価として真摯に受け止める。

「さゆりさんと一緒に水澤さんの試合を間近で見て……やっぱりプロレスは素晴らしいんだな、この素晴らしさを伝えるにはもっと自分が頑張らなきゃ、って。今まで対戦相手任せの部分が大きかったですが、自分でも試合を引っ張っていかなきゃと思い時間がある日は道場で、さゆりさんから教わった事を何度も復習してました」

 愛果の優等生じみた回答だが、それを嫌味を感じる事なく聞けるのは彼女の人柄や真面目にプロレスに打込む姿勢を、ここにいる皆が知っているからだ。約十か月前に愛果が初めて《こだまプロレス》に来た時からずっと、練習や実践を通じてプロレスのイロハを指導してきたさゆりは、彼女の力強く頼もしい言葉を聞いて何か達成感みたいなものを感じた。

「あとは愛果ちゃんが自分の身体に合ったスタイルを見つけ、鍛錬して、“愛果ゆう”のプロレスを創り上げなさい。なーにキャリアが長ければいいってもんじゃないわよ。自分の持っているもの全てを使って、結果的に相手を倒せればそれに越した事はないわ――これで仮に、わたしがいつ退団しても大丈夫ね」

 “退団”という単語を聞いた途端、涙目となる譲治を見てさゆりたちは大笑いした。

「ダメですよさゆりさん! 代表が泣きそうになってるじゃないですか~」
「代表をちゃんとなぐさめてやってよ、さゆりちゃん」

 皆に囃し立てられたさゆりが、叱られてしょげた子供のように身を小さくさせて、ひとり寂しく焼肉を頬張る譲治の側へやってくると、自分の胸に彼を引き寄せてやさしく頭を撫でて安心させようとする。その奇妙な光景がまた、普段の譲治からあまりにもかけ離れて過ぎていて皆の笑いを誘うのであった。

『――来週は強い寒波がこの地方を覆い、場所によっては雪が降るかもしれません……』
 カーラジオから聞こえてくる天気予報に、帰路に就くため車を走らせていた譲治は少し顔を曇らせた。もしかしたら降雪の予報が大会当日と重なるかもしれない、いくら側にバス停もあり比較的立地条件の良い場所に建っている試合会場とはいえ、ここは冬に入れば降雪する割合の高い場所柄。そうなれば当然客足も鈍り最悪チケット代の払い戻しも考えなければならない。
 打ち上げ後酔いが回り、助手席で居眠りをしていたさゆりが目覚めた。

「――あれ? 寝てた。ごめんね譲治くん」
「いいって。もうちょっとで家に着くから」

 彼女は大きく欠伸をし、固まっていた身体の筋を伸ばす。窓の外を見れば家の窓からは既に灯が消え、等間隔で並ぶ街灯のオレンジ色の明かりだけが黒く塗り潰されたこの世界を照らしていた。

「――飲み会での話の続きだけど、わたしがもし《こだまプロレス》を退団する事になったら、譲治くん……泣いちゃうかな?」

 唐突かつ子供じみたさゆりの質問に、譲治は思わずぷっと吹き出してしまう。少し間を開けた後譲治が口を開いた。

「泣かないよ。だってさゆりさんが決めた事だもん、何があっても応援し続ける。何処に行っても」
「嘘、譲治くん痩せ我慢して見栄張っているだけ。本当は胸が張り裂けそうな位辛く悲しいはず――わたし分かるもん」

 譲治の胸の鼓動が大きく波を打つ――図星だったからだ。言葉で表わさなくても、態度や顔色ひとつで胸の内が相手に分かってしまう、自分の単純さを譲治は恨んだ。
 黙り込む彼の側へ、さゆりがシートから上半身を乗り出し耳元で小さく囁く。

 わたしもあなたと離れたくない。

 譲治の目からぽろりと一滴、涙の粒が零れ落ちた。ストレートなこの言葉だけでさゆりの、自分に対する想いが痛いほど伝わってくる。彼はわざと汗を拭うふりをして腕で目を擦った。そんな照れ隠しなど全てお見通しなさゆりだったが、何も言わず窓の外に映るモノクロームな世界を、微かな車の振動に身を委ね眺めた。

     

 そして大会当日――
 前日には今年初めてこの地方にも雪が降り、冬の寒さも一段と厳しくなったにも係わらず、コンサートや大相撲の地方巡業でも使用されている半円型の屋根をした、中規模クラスの公営体育館前には長蛇の列が並び、今回興行をプロモートする《こだまプロレス》所属の若手選手たちは来場客たちの誘導に追われていた。
 ゴー☆ジャス譲治がぶち上げた、メジャー団体・太平洋女子プロレスとの一騎打ちが各メディアで発表されるや新規ファンはもちろんの事、神園さゆりが活躍していた頃に観ていたオールドファンからの問い合わせも殺到し、全国にいる現在そして過去の女子プロレスファンたちからこの“世紀の一戦”に注目が集まった。そして《こだまプロレス》選手たちによる、連日にわたる各方面へのチケットの懸命な手売りやプロモーター・譲治と大会の主役のひとりであるさゆりとの、テレビやラジオなどの公共電波を使用しての宣伝活動が功を奏したのか、プレイガイドなどの委託販売分を含め用意したチケットはほぼ完売する事が出来た。この客足だと若干数用意した当日券もすぐに売り切れるだろう。入口から本館ロビーに至るまで、ぎっしり埋まっている観客たち全てが客席に辿り着くまでには、もう少し時間が掛かりそうだ――

 ――凄いっ! こんなに入ってるなんて……信じられない

 関係者以外立ち入り禁止の通路の隅でさゆりは、リングサイドやホール席、それに二階席に至るまで続々と観客が埋まっていく光景に感動していた。太平洋女子に所属していた少女時代は、多ければ多いほど自分の雑務が増えて鬱陶しく思っていた客の入り具合だが、一度プロレスを辞め社会人も経験し自分が興行に関わるようになった時にやっと、客が多い事の有難味が身に染みて理解できるようになった。

「これが俺たちのビジネス――ってやつさ。有り難いね、さゆりさん」

 後ろから声がしたので振り返ると、まだマスクも被っていないジャージ姿の譲治がさゆりの真後ろに立っている。彼の声もどこか感動に打ち震えていた。信じられないくらいの客の入り具合を目の当たりにして、今日までの苦労や努力が頭をよぎり柄にもなくセンチメンタルな気分になっていたのだった。

「頑張ったもんね……わたしたち」
「ああ。自分の試合が組まれている・いないに係わらず、みんなよくやってくれたよ」

 譲治は身を預けるように、さゆりの肩へ両腕を回し抱きしめた。彼の温もりを背中に感じ、さゆりの内に抱えていた心身的な重圧がすーっと消えて無くなっていく。

「そうね。後はわたしが最後――お客さんに納得してもらえるような試合を観せるだけ。でしょ?」 
「うん――勝っても負けても」

 “負けても”という言葉が気に入らなかったのか、さゆりは肩に乗った譲治の手の甲を軽くつねって威嚇する。大袈裟に手を降って痛がる仕草をする譲治を見て彼女は笑った。ちょうどそこへ体育館の中を駆け回り、譲治を探していた愛果が通りかかった。

「何してるんです、おふたりさん! そりゃ二人きりでいられる時間が少ないかも知れませんが――ってそうじゃなくて、テレビ局の方が代表を探しておられますよ? 一緒に来てください!」

 来場客の誘導で忙殺されテンパってしまい、言っている事も支離死滅になりかけている愛果に、譲治は手を合わせ「ごめん」と謝まると、彼女の誘導で通路の奥へと慌ただしく消えていく。ひとり残されたさゆりは一瞬寂しそうな表情をみせたが、すぐに気持ちを入れ替えて来たるべき大一番に備え、自分の両腿をぴしゃりと叩き気合を注入すると選手控室へと戻っていった
 体育館の中ではリングアナウンサーによる会場での禁止事項等のインフォメーションが放送され始め、否が応にも観客たちの期待は高まっていく。

 始まりを告げる鐘(ゴング)が打ち鳴らされる中、館内照明が急に消え一面が暗闇に包まれた次の瞬間、観客席の中央部に設置されたリングへど派手なBGMと照明による演出が飾りつけられ、体育館の中は我々が生活する日常から遠く離れ、此より争いし者たちが約6メートル四方の舞台(リング)へと集い、互いの優劣を決する異空間へと変貌する――無事定刻通りに《太平洋女子vsこだまガールズ 全面対抗戦》の火蓋は切って落とされた。

 試合は全部で6試合組まれており、前半4試合は太平洋女子の選手同士、またはこだまプロレスの選手同士の試合を交互に披露した。それぞれの団体を贔屓にしているコアなファンたちは実際に生で観る、太平洋女子の若くキュートな選手たちによる感情剥き出しな白熱した攻防や、こだまプロレスの安定したコミカルかつストロングな男女混合マッチに徐々に引き込まれていき、観戦前は罵り合っていた両ファンも文句のひとつも頭に浮かばないぐらいに、双方の団体による提供試合を楽しんでいた。

「みんな、決・め・る・ぞぉ!」

 コーナーポストに昇ったゴー☆ジャス譲治が、人差し指を周りの観客たちに向けるとそれに呼応するように館内に大歓声が響き渡る。好反応に大変満足した彼は真上に飛び上がると、真下でダウンする対戦相手へ目掛けて身体を預けるように肘をボディへと突き刺した。譲治の全体重が乗っかったダイビング・エルボードロップを喰らった対戦相手は悶絶しそのまま果ててしまい、自分の耳元で敗北へのスリーカウントを聞く事となった――ゴー☆ジャス譲治のめったに決まらない必殺技がずばりと決まり、特に地元・こだまプロレスのファンは、レア度が高いこの光景に大興奮するのであった。

 ――あとは任せたよ、おふたりさん!

 通路側にいる観客たちとハイタッチをして、勝利を共に祝い退場する譲治は、太平洋女子の若手選手たちがマットの掃除やリング調整をする姿を横目で見ながら、休憩明けに行われる大一番《太女 vs こだまガールズ全面対抗戦》に出場する愛果ゆうと神園さゆりへ思いを巡らせる。

 15分間の休憩の後に始まった《太平洋女子 vs こだまガールズ全面対抗戦》の第一ラウンドである“同世代アイドル対決”と銘打たれた、《最も危険な果実》愛果ゆう(こだまガールズレスリング)と《ラブキャッチャー》来生綾女(きすぎ あやめ / 太平洋女子)の試合は壮絶を極めた「潰しあい」となった。
 現在も大学とプロレスとの二重生活を送っている愛果とは違い、高校を中退しプロレス界入りした来生は彼女よりも実戦経験が多く、年齢的には《同世代》とはいえ修羅場を潜ってきた数が全く違う。ゴングが鳴り試合が開始されるや来生は、《太平洋女子育ち》という誇りとプライドを相手の身体に叩き込まんばかりに、大舞台に場馴れしておらず浮き足立ってしまった愛果に対し一方的に殴る蹴る、もしくは寝技でガンガンと攻めたてる。対戦相手の力量も何も考えない我儘な攻撃に、出鼻を挫かれた格好となった愛果は反撃の糸口も掴めず、ただ悲鳴を上げ相手の為すがままになっているだけだった。愛果への、こだまプロレスファンからの応援よりもさらに多い、大多数の太女ファンからは来生への声援と共に、彼女を小馬鹿にしたような野次までが飛ぶ始末だ。
 愛果はロープを背にし、レフェリーからのブレークの指示で来生が離れていくのをみると、深く深呼吸して気持ちを落ち着かせる。飛んでくるの自分への野次を耳にした彼女は、今までに味わった事の無いアウェイ(敵地)感に背筋がぞくぞくと震え、絶望や恐怖よりも次第に己の気持ちが高揚していくのを感じていた。

 ――太平洋女子の誇りとプライド? そんなもん関係ねぇよ。こっちだって太女の元エース神園さゆりから指導を受けているんだ。お遊戯でプロレスやってるんじゃねぇ!そっちがその気ならやってやるよ!

 覚悟を決め目の色の変わった愛果は、試合が再開されるや来生の胸板へ鋭い肘打ちを叩き込んだ。己の怒りや苛立ちを凝縮させ爆発させた彼女のエルボーバットの乱れ打ちは相手を怯ませるのに十分だった。打撃と打撃との間隔が短く来生は全く手が出せずにいたが、何も出来ないフラストレーションが頂点に達した瞬間、起死回生の張り手が破裂音と共に愛果の顔を抉る。
 しかし彼女は全く動じない。
 それどころか来生の髪の毛を乱暴に掴み、フルスイングの頭突きを何度も何度も喰らわせ、相手の意識と闘争心を徐々に削っていく。端へ端へと追い込まれコーナーを背に、来生がぺたりとマットに尻餅を付いた時レフェリーは、愛果にブレークの指示を出した――今度は愛果が嗤う番だ。


天気のいい日はプロレスでも――【第4回】

2018年01月30日 | Novel

 自分の挑発にまんまと乗ってきた、さゆりの姿を見て水澤はほくそ笑んだ。相手を同じ壇上に立たせただけでもひとまず成功と言えよう。だがそれでもまださゆりの“意志”は固く、次の段階へ進むには難しそうだった。

「わたしはね、一度プロレスを引退して自分の故郷であるこの街に戻ってきた「只のおばさん」なの。こんな年増女に、眩いばかりのオーラを放つ若い貴女の“引き立て役”が務まると思って?……止めておきなさい。貴女の輝かしいキャリアに傷が付くだけだから」

 先程とは違い、静かな口調で諭すように語りかけるさゆり。しかし無礼千万な水澤の“口撃”は更に続いた。

「年増女ねぇ。その事については否定はしないけど、じゃあどうしてその「只のおばさん」がこんな現役バリバリの私よりもカメラのフラッシュを浴びているのか? それは今なお、アンタがスターの輝きを放っている他無いじゃない!」
「水澤。《スター》っていうのはね、本人の持っている能力もそうだけど、それ以上に周囲の人間の思惑と世に出るタイミング、それに運が奇跡的に合致した時に生まれるものだと思うの。わたしは貴女ほど身体能力は高くない、だけどスター選手としてたり得たのはその“方程式”が上手い事作用したからよ。時代がわたしを求めていた――ただそれだけの事」

 さゆりがそう言った直後、突然水澤はマットを片足を振り上げ、ばぁん!と白いキャンバスを力一杯に踏みつけ不快感を表した。顔には焦りの色が浮かんでいて後にこの日取材に来た記者の話によれば、リング上であれほど感情を露わにした水澤はこれまで見た事が無かったという。これが只の試合後のマイクアピールなどではなく、言葉を武器としたおんな同士による真剣勝負(シュート)だった事が窺い知れよう。

「 時代? タイミング? そんなもの糞喰らえよ。私はもっと今以上の存在になりたいっ! そのためにはどうしてもアンタ――《神園さゆり》という最高の相手が必要なんだ」
「貴女……言っている事が無茶苦茶ね。太平洋女子OGで未だに現役を続けている《スター選手》は他にもいるでしょ? 《天空闘姫》樋野すばる先輩や《アジアの重鎮》ガムラン獅子尾(ししお)、《トリックスター》喜屋武恭子(きゃん きょうこ)とかね。彼女らには対戦要望したの?」

 空中戦と変幻自在のスープレックスが売りだった樋野、巨体から繰り出すパワー殺法で対戦相手を圧殺してきた獅子尾、そして天性の明るさで幅広い層から人気のあった喜屋武……太平洋女子の《黄金時代》を彩ったスター選手たちの名前がさゆりの口から飛び出ると、直接は彼女らの全盛期を目撃していないが、ネット上に転がっている試合動画や回顧録などで見聞きし、“知識”としてその名を知る、若い観客たちから大きなどよめきが湧きあがった。だが彼女たち《レジェンド》の名を聞いても水澤の反応は薄いものだった。

「……興味が無いね。一度も表舞台から姿も消さず“昔の名前”にしがみ付き、のうのうと現役生活を送っている先輩方には失礼だけど、以前ほどの輝きが感じられない。仮に闘って勝ったところで「峠の過ぎた選手に勝利した」だけで自分の価値が上がるわけじゃない――幸いアンタは、選手として一番いい時期にこの業界から姿を消し、誰に知られる事も無く何年も音信不通だった。そしてつい最近……細々ながらも現役を再開させている事が全国の茶の間に知れ渡った。見た目も体型も、そして技の切れも当時に近いあの頃のままの神園さゆりが。私はそんなアンタと是非一戦交えて……勝ちたいんだ、よろしくお願いします!」

 最後はきっと素の自分なのだろう、きわめて真摯に深々と頭を下げる水澤。こんな自分にここまで礼を尽くしてくれている――彼女の想いが、痛いほどさゆりの胸に突き刺さる。女子プロレスの一線級から離れて幾年月、こんなに闘志が熱く滾るのはいつ以来だろうか? さゆりの心の中は、水澤と持てる力を駆使して闘いたい気持ちと、いち地方の兼業レスラーのまま力尽きるまでプロレス人生を過ごすかとで大きく揺れ動いていた。眉間にしわを寄せさゆりは大きく悩む。

「――ただし、水澤との対戦はあなたがうちに入団しないと出来ませんよ? 前にも言いましたが当団体へ入団の暁には、それ相当の権限をあなたに与えましょう。どうです? 神園さん」

 せっかくいい流れになって来た所で、“助け舟”を出すべく気の逸った緒方がリングインし、援護射撃をするのだが観客たちからは本気のブーイングが自然発生する。《夢の一戦》に向けて、両者の間で繰り広げられていた熱い討論を社長・緒方が《企業の論理》を持ち出した事により、完全に水を差す格好となってしまった。
 リングの上では怒る水澤と緒方が激しく言い争い、そのリングの中へは不快感を露わにした観客たちから物が次々と投げ込まれる――完全に修羅場と化した試合会場を、鎮静化するにはかなりの時間を要すと思われた。

 ――わたしがここで「イエス」と言わなければこの混乱は収拾しない、しょうがないか……

 物と怒号が飛び交う客席の中、ついに覚悟を決めたさゆりはマイクを口に近付け、話し始めようとしたその時――雑音混じりの、聞き覚えのある声が耳に飛び込んだ。

「ちょっと待ったぁぁぁ!」

 会場の一番奥から、選挙活動で使うような大きなワイヤレスメガホンを肩に掛け、付属のマイクでがなり立てながら一人の大男が威風堂々と歩いてくる

「ゴー☆ジャス譲治だ!」
「ゴー☆ジャス! ゴー☆ジャス!!」

 観客の一人がおなじみの赤い覆面を被った彼に気が付くと、今度は《ホームタウン・ヒーロー》ゴー☆ジャス譲治に対し会場の、彼を知る全ての人たちから盛大なコールが贈られた。

「ご、ゴー☆ジャスだぁ? どうやってここに入った?!」

 驚きと怒りで、顔を真っ赤にした緒方が叫ぶ。

「心配なさんな。ちゃんとチケット買って入場してるよ! しかも前売りでな。そんでもっていろいろグッズも買わせてもらったし、いい客だろ俺って!」

 そう言うとリングにいる水澤をはじめ、可愛い娘揃いの太平洋女子の選手たちのポートレートを高々と掲げ見せびらかした。団体社長兼プロレスラーであると同時に、筋金入りの女子プロレスマニアでもある譲治の面目躍如だ。
 彼がリングにほど近い、さゆりの居るリングサイドの招待席までやってきた。さゆりは久々に間近で見る譲治の勇姿に、団体の主として、また男性として頼もしさを感じ胸がきゅんとときめいた。何を話しかけて良いものかと戸惑っていると、何と譲治の方から声を掛けてきたではないか。

「……待たせてごめん、さゆりさん」

 声を聞いただけで鼻の奥がつんとし、涙が出そうになるのを必死で堪え、彼の脇腹を肘で小突く。

「もう、公の前では《サユリーナ》でしょ」

 お互いが顔を見合わせ笑いあうふたりに、緒方のイライラは最高潮に達していた。気が付けばゴー☆ジャスと《こだまプロレス》に会場を乗っ取られた格好となり、支配欲が強い緒方にとって非常に許し難い状況だ。

「まだ分かんねぇかな? アンタの一言が全てを台無しにしてしまったんだよ、このハゲっ!……かといってサユリーナはウチにとっても大事な看板選手。茜ちゃんがどーこー言っても「はい、そうですか」といって簡単に移籍させる事なんて出来ない」

 「茜ちゃん」と軽々しく下の名で呼ばれ、ビックリする水澤へ譲治の話はまだ続く。

「だけど水澤茜とサユリーナの新旧スターの対決、みんな観たくないか? なぁ観たいだろ! そして闘ってみたいだろ? 茜ちゃんもサユリーナも!」

 ノイズ混じりで不明瞭なワイヤレスメガホンから発信される、譲治の熱い魂の叫びは、確実に観客たちの心を捉えていた。会場の至る所で「観たい!」と彼女らの一騎打ちを要望する声が上がり出し、それはいつしか「水澤」「サユリーナ」コールへと形を変え、声を枯らさんばかりの大声でそれぞれがリング上の、そしてリングサイドのふたりに浴びせかけた。

「そこでだ。おい、緒方! 次の巡業で太平洋女子、ここの隣りの街へ興行に来るだろ? あんたの所の営業に確認したぞ」
「あ、あぁ」
「その興行権、興行主(プロモーター)さんから無理を言って譲ってもらった。もちろん多少の金額も払ったがな。そこで《こだまプロレス》プレゼンツとして、水澤茜 vs サユリーナ……いや、神園さゆりの夢の一騎討ちを行う事にした! どーだ、参ったかこのヤロー!!」

 この朗報に観客たちは、会場が壊れんばかりの大絶叫で歓喜した。水澤もさゆりも少々強引だが、問題の着地点を見出だせた事にほっとし、笑顔が自然と浮かぶ。だが面白くないのは緒方だ。自分の知らない所で話が進められ、あと一歩と迫った「神園さゆり引抜き計画」も、ゴー☆ジャスの登場でおじゃんとなってしまったからだ。

「なぁに、何も心配しなさんな。あんたの所の懐は何も痛まないから、緒方社長。会場費用から移動費に宿泊費、選手のギャランティまでぜーんぶウチが支払ってやるんだ。文句ないだろ?」

 得意気に笑うゴー☆ジャス。だが素人目に見ても莫大な金額が発生する事は、容易に想像できる。果たしていち地方の零細企業である《こだまプロレス》に支払う能力があるのか? さゆりは心配で堪らず譲治の耳元で囁いた。

「ちょっと! 威勢のいい事言っちゃってるけどお金、本当にちゃんとあるの?」

 それに対し譲治は指で丸を作り、大丈夫とアピールするだけだった――実際の所、水澤茜ほか参加選手のギャランティに関しては太平洋女子のフロントに、かつて大学時代に譲治と《神園さゆりファンクラブ》を一緒に運営していた仲間がいて、その彼に掛け合い何とか最低ラインの金額に抑える事が出来た事。会場費や宿泊・移動に関する諸経費に関しては《こだまプロレス》に企業広告を出している協賛企業数社へ譲治自らが出向き、何度も頭を下げ協力してもらいどうにか調達する事が出来たのだという。逆にこの興行が成功しなければ《こだまプロレス》は解散、譲治も多額の借金を背負わなければならず、正に社命を賭けた大博打だ。

「と、言うわけだ。それじゃあ一月後また逢おう諸君!……帰ろうサユリーナ、愛果ちゃんっ!」

 ゴー☆ジャス譲治は得意満面の笑みで、観客からの「頑張って!」の声援に手を振って応えるさゆりと愛果を引き連れて、出入口に続く通路をファンたちの「こだまプロレス」コールを背に悠々と会場を引き上げていく。 しかし突然の譲治の乱入によって更にヒートアップした会場の大騒乱は、彼らが去った後も暫くは収まりそうになかった――

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
 エアコンの送風音が狭い車内に鳴り響く中、ふたりは無表情のままただ黙ってシートに身を委ね、灯りの消えた暗く寂しい道を走り過ぎていく。五分前に愛果を自宅前で降ろしそれからしばらく経つが、彼らの口からはひと言も発せられていなかった。
 時折咳払いや溜息が漏れるものの、会話の無いひどく重苦しい車内の雰囲気――だが見覚えのある家々の配置が譲治の目に飛び込んできた。もうすぐさゆりの住んでいるアパートに着く。彼女を無事送り届ければ、まるで心理戦でもしているかのような変な重圧から解放される、はずだった。
 アパートの手前で譲治は、エンジンを切り車を停める。

「着いたよさゆりさん。じゃあ今日はこれで」

 助手席に座っているさゆりに家に到着した事を告げるが、シートベルトも外さず顔を下に向けたまま彼女は動かない。譲治は恐る恐る肩を揺すってみたものの、それでも降りる気配は全く無く、彼は困惑の表情を浮かべる。

「ったく冗談がキツイなぁ、さゆりさんは。本気にしちゃいますよ俺――」

 冗談で言ったつもりの譲治の一言が、さゆりの心にスイッチを入れた。彼の肩を掴み、泣きそうな顔で頭を振って拒否反応を示したのだ。欲しい物が手に入らず駄々をこねている少女のような彼女の表情に、必死に保ってきた譲治の理性は崩壊寸前となる。

「いや……まだ一緒に居たい。連れてってよ、譲治くんの所へ」

 譲治がまだプロレスラーになる以前から応援し、憧れ、尊敬してきた女性から潤んだ瞳で「一緒に居たい」と懇願される。これを男性として断る理由があるだろうか? 譲治は自分の肩に乗ったさゆりの手に、自分の大きく厚い掌で包み込むとエンジンをかけ、車を自宅の方へ向けて発進させる――備え付けの時計のデジタル表示を見れば既に午後十一時をとうに越えていた。

 典型的な男の子の部屋――自宅に到着し、真っ先に譲治の部屋に通されたさゆりは、男性経験はそれなりにあったが「最後の砦」というべき部屋(プライベートルーム)まで入った回数はさほど多くはない。だが雑然と置いてある衣服や無駄に飾り立てられたガラクタなど、目に飛び込む情報で直感的にそう思ったのだ。譲治はさゆりの歩く先頭で、床に散らばっている服を片付けながら空間を作っていく。
 未だ緊張が解けず固くなっていたさゆりだったが、家中に充満する譲治の匂いで安心したのか、次第に表情も和らぎ落ち着きを取り戻していく。彼女は側にあった譲治の本棚を適当に漁っていると恥ずかしくも懐かしい物が出てきた――十代最後の年に海外で撮影した最初の写真集だ。本を手に取り厚い表紙を開けると、白い表紙裏に記された自分のサインが目に入った。許可なしで勝手に自分の“宝物”を見ているさゆりを発見した譲治は、慌てて彼女の傍に飛び込んでくる。

「な、な、何勝手に俺の本見てんスか、さゆりさんっ!」

 尋常でない彼の慌てっぷりに、さゆりはとうとう笑い出した。

「いいじゃないっ!――でも懐かしいな。初めてサイパンかどこかの海外に連れて行ってもらって、しかもビキニ着せられて似合わない悩殺ポーズ取ってさ。いやぁ笑顔がぎこちないっ!」

 ベッドの縁に腰を掛け膝に写真集を置いて、ページを一枚一枚捲りながら譲治に、当時の思い出話を聞かせるさゆり。それを聞いた譲治は、この本を試合会場のグッズ売り場でサインの順番待ちを緊張しながら待っていた事を話すと、さゆりはまた笑った。

「あの時のファン層は、わたしと同じくらいか年齢高めのおじさまが多かったから、こういう写真集は需要があったのよねぇ……緒方も非常に乗り気でさ、どんどん写真の内容が過激になっていくのよ――という事は「あれ」も家にあるのかしら?」

 「あれ」と言われた瞬間、譲治は急におろおろと挙動不審となった。まるで突然部屋に踏み込まれた母親に、隠していた成人雑誌を捜索されるような苦々しい気分だ。至って正常な反応をする譲治に満足したさゆりは再び立ち上がり、本棚を漁り出した。目的の品は数秒も掛からないうちに発見され白日の下に晒されてしまう。黒い表紙でアダルトチックな雰囲気の写真集――彼女が現役時代最後に出した写真集だ。タイトル文字の隙間からちらりと、彼女の裸が見える表紙のレイアウトからも分かる通り、大胆にも全編フルヌードに挑戦した意欲作であった。掲載されている写真の多くは、人気が最高潮に達し「ひとりの女」として一番脂の乗った状態であった、さゆりの乳房や尻、そして薄らとアンダーヘアの茂る下腹部まで全て曝け出していて、ファンはもちろん、普段女子プロレスなんて観ない一般層までもがこの写真集を買い求め、一部書店では品切れ状態になったほどだった。噂によるとさゆりの写真集で得た多額の印税で、太平洋女子は新たに移動用バスを一台購入したとも言われている。

「ねぇ、これ見て何回わたしを「オカズ」にした?」

 思いがけない質問に、譲治がぷっと吹きだした。

「な、何言ってるんスか? そんな事言えるわけ――」

 途中まで言いかけた譲治だったが、突然身体のバランスを崩しベッドの上に倒れ込んだ。仰ぎ見る視線の先にはさゆりの顔が――そう、彼女がわざと譲治をベッドに押し倒したのだ。これはどういう事なのか? 頭の中が混乱して思考が定まらない。

「こ・た・え・て?」

 悪戯っぽく微笑むさゆりの、吸い込まれそうなほどに黒く澄んだ瞳に見つめられ、催眠術にかかったように譲治の口が勝手に動き出す。

「5回、いや10回かな……もう勘弁してくださいよ」

 吐く息が頬に触れるほどに接近する彼女。戸惑う譲治に対しさゆりは強引に顔を重ね彼の唇に吸い付いた。舌は歯や歯茎を刺激しながら口内へと侵入、彼女の舌と譲治の舌とが絡み合い己の奥底に眠っていた官能が、舌先から脳に伝達される衝撃で覚醒する――譲治の思考は完全に停止した。
 永遠とも思える長い時間、互い同士貪りあっていた唇が離れ、つーっと一本唾液の糸がふたりの間を繋ぐ。室内照明に照らされ輝くそれは、まさに“蜘蛛の糸”のように映った。
 やがてふたりは、体内で燃え上がる欲情を解放させるかの如く、理性と共にそれを押え込んでいた衣服や下着を毟り取るように脱ぎ捨てた。夢にまで見たさゆりのあられもない一糸纏わぬ姿に譲治は言葉を失う。あれほど夢にまで見た彼女の真っ裸がいま目の前に存在する――これ以上の驚きがこの先あるだろうか? そう考えただけで緊張と興奮で身体が震えだす。
 そんな譲治の心の内を見透かしたさゆりは、自ら譲治の分厚い胸に腕を巻き付け身体を密着させた。人肌の温かみやリズム良く刻まれる心音、そして彼女の体臭が強張った彼の身と心を次第に解していく。「安心した?」と言葉でなく、表情で尋ねるさゆりに対し譲治は返事の代わりに口で唇を塞ぐと、そのままふたりはベッドの土台を軋ませて倒れ――夜が明けるまで互いの身体を貪り合ったのだった。

 朝――
 ぶかぶかでサイズの合っていない部屋着用のロングTシャツを被り、下はショーツのままのさゆりがすぐ隣のキッチンで朝食の支度をしている――なんて光景が未だに譲治は信じられない。自分はまだ夢の中にいるのではないか? とベタな確認方法だが彼は自分の頬を思いっきり抓ってみる事にする……痛い。当然夢などではなかった。

「何してんのよ? 朝ごはん冷めちゃうわよ」

 そんなバカをやっている最中、さゆりが膳に乗せて味噌汁や焼いたアジの開き、それに出汁巻など朝食のおかずを運んできた。電気炊飯器から炊きたてのご飯が、大振りの茶碗によそられると譲治は慌てて姿勢を正し、着席したさゆりと共に「いただきます」と手を合わせ食事を開始した。まずは湯気の立った暖かい味噌汁から口にする。

 ――う、うめぇ!

 味噌汁は油揚げとワカメだけのシンプルな具であるが、何処にあったのか家主の譲治でさえ、その存在を忘れていた粉末の鰹出汁で仕立てられた味噌汁は、自分で時々思い出して作ったものより何倍も美味しかった。譲治の表情だけで、自分の作った料理の良し悪しを判断できたさゆりは「美味しい?」と感想を尋ねる事も無く、彼の幸せそうな顔を見てとても満足気だ。
 料理は女性が作るもの――と言う気はないが、さすがにさゆりの料理はどれも譲治を満足させてくれた。どれだけ今まで自分が適当に食事を作ってきたか痛感した。食材自体の旨みプラスそれを活かす調理方法、それに食してくれる人への愛情……とても彼女には敵わない。
 黙々と食事を進める譲治にさゆりが尋ねる。

「――これから、大変だね?」
「ああ。試合が行われる一月後まで、いろいろと雑務で追われる事になるなぁ」

 譲治は少し暗い顔をしたまま、味噌汁をずずっと啜った。とにかく融資してくれた方々にお金を返す為には、限られた時間の中でチケットを売って売って売りさばき、試合会場を満員にしなければならない。それにはこの《水澤茜vs神園さゆり》を昨夜試合会場にいた観客たち、メディアを通じてこの試合を知る事になる女子プロレスファンの他、普段はプロレスを見ない、または過去にプロレスを見ていた一般層にも知ってもらい、会場に足を運んでもらう以外他はない。

「わたしも手伝うよ、譲治くん」
「いや、さゆりさんは茜ちゃんとの試合に向けて集中してもらわないと……」

 さゆりは譲治に協力を申し出るが、意固地になって拒む彼に対し「目の前にある現実を見ろ」とばかりに叱咤する。

「何遠慮してるの? ウチの団体が存続できるか無くなるかという一大事に、ただ練習だけして平気な顔していられるわけないでしょ! それに《ゴー☆ジャス譲治》という安定のブランドネームに加えて、全国区のアイドルレスラーだったわたしが一緒に付いて廻ればチケットもすぐに完売よ……きっと」
「本当にすみませんっ!俺の勝手なわがままのせいで」

 テーブルに顔を擦りつけるほど深く頭を下げ、涙声で感謝する譲治の姿に母性本能がきゅんと疼いた。いくら人前やカメラの前では強がっていても、自分の前だけでは弱い部分も全て見せてくれる――それがさゆりには嬉しくてたまらない。

「わたしの事を想っての行動でしょ? 責任の半分はわたしにあるんだし手伝うのが筋じゃない。それにあのまま会場の雰囲気に引き摺られて、緒方の所へ移籍した方がよかったかしら?」

 移籍と聞いて譲治は思わず、何度も首を横に振って拒否の意示を表わす。さゆりはお椀を口に付け「でしょ?」と言わんばかりの視線を彼に送り、残りの味噌汁を平らげた。

 顔を洗い着替え終えたふたりは、車に乗り込み《こだまプロレス》道場へと向かう。スポーツ紙や情報サイトでは既に発表されている《太女 vs こだま全面対抗戦》の件について、所属選手全員に自らの口で話しておかなければならないと思い、皆に召集をかけたのだ。
 道場に近付くにつれ、ネガティブな思考が譲治の頭の中に次々と湧いては消え、覆面で隠れて見えないが不安な面持ちでハンドルを握っていた。助手席のさゆりは彼の腿に掌を乗せて、不安でたまらない譲治の気持ちを落ち着かせると「大丈夫」と目配せをする――さゆりの後押しのおかげで、彼は自信を取り戻しつつあった。人前で《ゴー☆ジャス譲治》として振る舞えるだけの自信を。

 
 ――変だな? 集合時間はとうに過ぎているのに誰もいない。
 室内照明も灯っていない道場の中は薄暗く、普段であればこの時間でも選手の誰かがやって来ては練習に励んでいるはずなのに、どこを見渡しても人の気配が無い。
 この異常事態に、譲治とさゆりは顔を見合わせて不思議がった。
 道場の中で聞こえるのは、寂しく響く自分の靴音だけ。視線をあちこちに動かし誰かいないか捜してみるが見当たらない。

「ねぇ、集合時間を打ち間違えたんじゃない? 譲治くんたまにポカするから」
「なっ……! さゆりさんより俺の方が電子機器の扱い、上手いと思いますけどねぇ」

 告知の不備について互いが言い争う内に、エスカレートしたさゆりが譲治の口に手を入れ思いっきり頬肉を抓った。プロレスにおいてもれっきとした反則技であるこの攻撃に、あまりの痛さで彼の目から涙が滲む。

「どの口が言う、どの口が?」
「痛ててっ!く、口の中に指突っ込まないでくださいよ!」

 ……くすくすくす

 どこからか堪えるような笑い声が聞こえた。やはりこの中に誰かいる。ふたりはじっと目を凝らし、声が聞こえた方角に目をやった。練習器具の物陰に身を隠しこちらを見ている人物の姿が――それは昨晩一緒に会場にいた、団体最年少女子レスラーの愛果ゆうだった。

「おふたりさん、いつからそんなイチャイチャし出したんですかぁ?」 

 意地悪く笑う愛果に、ふたりはどろもどろになって言い訳を探すが、混乱した頭から無理矢理捻り出す言い訳はどれも決め手が無く、疑念はますます深まるばかりだ。

「ほら、ゴー☆ジャス代表もさゆりさんの腰に手なんて回しちゃって――もう、付き合っているのバレバレですよ? みんなにも」
「みんな……にも?」

 愛果がぱちんと指を鳴らすと室内の電気が灯され、それまで笑いを必死に堪えて隠れていた《こだまプロレス》所属の男子&女子レスラーたちが一斉に現れ、祝福の拍手や冷やかしの指笛をふたりに浴びせる。周りが自分たちを祝って「くれている」のは理解できるのだが、次から次へと湧いてくる疑問に笑う事も怒る事も出来ないふたり。

「ようやく引っ付いたか、おふたりさん」
「前の秋祭の時で決着(けり)が着くと思ったのにな、全く遅ぇよ代表」
「今度はいつふたりが結婚するか賭けよっか、みんな?」

 外野に散々好き放題言われ、ようやく怒りに火の付いた譲治は大きな声で怒鳴り散らした――はにかんだ笑顔で。
「お前ら! そんな事する暇があったらとっとと練習しやがれ、コノヤロー!」

 腕を振り上げて、笑いながら逃げる選手たちを追いかけ回す子供のような譲治に、さゆりはひとつ咳払いをして彼に「本来の目的」を遂行するよう促すと、ぴたりと足を止め真剣な表情で、自分の周りへ輪のように集まる選手たちに話しだした。

「みんなもスポーツ新聞やネットで目にしたと思うが、来たる一か月後にウチのサユリーナと太平洋女子の新世代エースの水澤茜との試合をメインとする《太女 vs こだまガールズ全面対抗戦》を、我が《こだまプロレス》の主催で行う事にした」

 道場内は譲治の発言に静まり返る。物事が突飛すぎて想像が追い付かないのだ。しかし対抗戦を行う事には誰も異を唱えない。

「図々しくもあちらさんは、我が団体の女子部の柱である彼女をヘッドハンティングするため接触し、挙句の果てにマスコミや観客を使って彼女を取り囲んで移籍を迫り、イエスと言わざるを得ない状況を作るに至った。これは非常に許し難い事態である」

 会場で一部始終を目の当たりにしていた愛果が、両方の拳を握り彼の話に頷く。

「みんなにはギリギリまで秘密にしていて申し訳ない。どうしても俺ひとりでサユリーナ……さゆりさんを守ってやりたかったんだ」
「――ホント水臭ぇよ、代表」

 坊主頭の巨漢レスラー――団体最年長である“HEY-ZONE”こと里中平蔵がぶっきら棒な口調で、譲治の話に割り込んできた。人生に於いても、またプロレスラーとしても大先輩の平蔵に譲治は深々と頭を下げ謝った。

「平蔵さん、本当にすみません」
「チケット――売るんだろ? 俺たちが頑張ってあるだけ捌いてきてやっからよ、代表とさゆりちゃんは興行の成功の為、時間ある限り宣伝活動してこいよ。頼んだぜおふたりさん!」

 選手たちからは、平蔵の意見に賛同する声が次々とあがった。《こだまプロレス》を守る事、そしてさゆりが代表となってメジャー団体のエースと闘う、この興行を成功に導くために皆一丸となって「闘う」事を決めたのだ。彼らの心意気に譲治は感激で胸が張り裂けそうだった。こんなヘタレなリーダーでも黙って付いてきてくれる所属選手たちには感謝してもしきれない。
 譲治の隣りでは、彼の着ている濃紺のジャケットの裾を掴み感涙するさゆりの姿があった。既に譲治のパートナーとしての「貫録」を漂わせて。

 ――わたし、やっぱりここに残ってよかった。 

 それは自分の判断が、決して間違っていなかった事を確信した瞬間であった。


天気のいい日はプロレスでも――【第3回】

2018年01月30日 | Novel

 ――はぁ、もうつまんない。

 スマートフォンを耳に当てるのも面倒になり、シーツに置いてスピーカー機能にして会話を続けたが、いつ終わるとも知れない緒方の話にさゆりは辟易としていた。何でそんなに話す事があるの? というくらい、彼が口にする話題はいろいろな方面に広がっていて、話の内容が核心に迫って来たかと思うと別の所へ飛んでいったり、またはその逆だったりして聞く者の気持ちを惑わせる。気の短い相手だったら怒って途中で電話を切ってしまうか、言い分をさっさと聞き入れて話を終わらせようとするかどちらかだろう。
 緒方の話の八割は近況報告で、自分の団体の経営状況や現在推している自選手の紹介など、旧知の仲である彼女が話相手だからかいい事や悪い事、包み隠さず全てさゆりに聞かせた。団体経営という激務からくるストレスを彼女に吐き出す事で解消するかのように。
 いきなりシビアな問題を突きつけられるのか? と最初、強く警戒していたさゆりは終始、こんな調子での電話に正直拍子抜けしてしまった。

「ニュースで観たけどさ、さゆりちゃんあんまり体型変わってないよね? よかったよかった」
「そりゃあ……まぁ、適度にトレーニングはしてますもんで」

 そうなのだ。フルタイムのプロレスラーとしての活動はとうに停止しているが、ほぼ月イチでリングに上がっているさゆりは、現役時代とはその内容も所要時間も比較にならないが、それでも怪我をしない身体作りのためのトレーニングは欠かしていない。

「以前ウチにいた《天空闘姫(てんくうとうき)》樋野(ひの)すばるみたいに倍近く肥えちゃったら、もう見る影ないからね」

 その全盛期には、モデルを思わせるような顔立ちの良さとスレンダーな身体で、長い黒髪をなびかせながら空中殺法と、各種スープレックスで男性ファンたちを魅了していた、さゆりにとっては直近の先輩である樋野の話題に、自分でも「その通り」だとは思っていてもさすがに声を出して笑えない。

「――それで結局わたしに何の用なんです? 太平洋女子時代の話を久々に出来て楽しかったけど、まさかそれだけじゃないでしょうね……緒方さん?」

 とうとう痺れを切らしたさゆりは核心に迫った。

「大方の内容はゴー☆ジャスくんから聞いた通り、いまウチは大変なスター不足に悩んでいるんだ。今いるエース級の選手たちが全く駄目というわけじゃないが、太女ファン以外のプロレスファンたちにもその名が届いているか?と言えば首を傾げざるを得ない。もっと団体という枠を突き抜けて、業界全体にその名を轟かせるような選手が欲しいんだよ」

 彼が口にする救世主(スター)願望は、どこの団体経営者も一度は思うはずだ。仮にひとりでもそんな存在がいれば、自分の所はもちろん、この業界全体に注目が集まりそれによって市場は活気付き懐具合も潤うだろう。だが実際は《プロレス》という特殊な競技の中において、現在《女子プロレス》は更に狭いファン層からしか相手にされていない。そんなミニマムな市場の中で、大小様々な団体が数少ない観客たちを奪い合っているのが現状である。だからこそ――この閉塞的な状況を打破できるようなスター選手を緒方は誕生させ、老舗・太平洋女子プロレス此処に有り! という事を知らしめたいのだ。

「スター不足って……随分贅沢な悩みね。今太女でメインを張っている水澤茜(みずさわ あかね)ちゃんじゃ不満なの? あの娘、結構いいセンスしてると思うけど」

 さゆりは現在太平洋女子でトップの座に君臨する、《マーメイド・スプラッシュ》と呼ばれ男女問わず人気のある水澤の名を口にした。まるでティーンズ向けファッション誌に登場するモデルのようなビジュアルや、他の所属選手と比べ頭ひとつ抜けたテクニックは、全盛期のさゆりや過去に太女マットを彩ったスターたちと比べても何の遜色もない、まさに《スター》と呼ばれるに相応しい逸材である。
 だがそんな彼女でも、緒方にはまだ「何か足りない」と感じているようだ。

「僕が“一番いい時代”に“凄い選手”たちと共に過ごしたからかも知れないけれど、スケール感っていうのかな? 輝き方が足らないように思うんだ。カリスマ性、人間力、運動能力、舞台映え……それが何だか分からないけど、とにかく僕にはそう感じる」
「それで――わたしにどうして欲しいのよ? 」
「その“スターの原石”である茜を、プロレス界に“電撃復帰”した元スター・神園さゆりが、対戦なりタッグを組むなどして、彼女を本物のスターへレベルアップさせるために手を貸して欲しいんだ。もちろんそれなりの待遇はする」

 ついに本題に入ったか――さゆりは身を固くする。だけど歳も重ねて今の社会人としての生活もある現在、近隣会場へのスポット参戦ならともかく、おいそれとプロレスだけをするために中央へ戻る事なんて簡単には出来ない。彼女はその旨を緒方に伝えたが、グッドアイデアと信じている彼はなかなか引き下がらない 

「とにかく一度会場に来てくれないか? 近々だと……今月中頃に君の住む街にある市民ホールで興行がある。だから絶対に来てくれ、歓迎するよ」

 そういうと長かった緒方との電話はやっと幕を引いた。静かになったスマートフォンを見て気が抜けたさゆりは、ふわりと脱力しそのままベッドへ横になった。

 ――変な感じ……物事が急に動き出して現実感がまるで無いわ。今までの生活が壊されそうで何だか怖い。

 強く目を瞑って、強引に眠りに付こうとするさゆり。全てが夢なのだと自分自身に思い込ませるように。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「あれっ、今日は譲治くん来てないの?」

 天井の照明に照らされそのボディを鈍く輝かせる、ウェイトトレーニング用マシンに腰を掛け、上半身を捻ってストレッチをしている《こだまガールズレスリング》での“教え子”愛果ゆうにさゆりは尋ねた。彼女は今日、仕事が休日でまる一日空いているので、トレーニングをするために朝から道場へ顔を出していたのだった。

「はい、朝からまだ一度も顔を見てませんが」
「何やってんだか……まったく弛んでるわね」

 怒っているような口調でひとり文句を垂れた後、さゆりは備え付けのシートに座りマシンのハンドルを握ると力を込めて上下に動かした。外気の寒さに触れ縮んでいた筋肉と血管がみるみるうちに拡張していき、ボディラインがはっきりと出るノースリーブ型フィットネスウェアの胸元や顔からじわりと汗が滲みだした。呼吸をリズミカルに出し吐きし、鍛えたい部分を重点的に負荷を掛け徹底的に身体を虐め抜いていく。

「サユリーナさん。代表、昨夜も夜遅くまで商工会のおエライ様と会食していて、最近お疲れ気味なんすよ」

 トレーニングに励むさゆりたちの前を、シャワー室で汗を流し終えさっぱりした顔で通りすぎようとしていた、同僚の男性レスラーが彼女の存在に気付き譲治の近況を知らせた。いつもなら必ず道場に居て、顔を合わせればバカな事を言い合う「居て当たり前」な存在である譲治の姿が無いという、得も言われぬ寂しさといったらない。

「そう……また何かでっかい事企んでいるのかしらね。身体壊さなきゃいいけど」

 そう呟くと、さゆりは再びマシンとの格闘を再開しはじめた。一定の拍子を刻んでいく器具の可動音に意識を没頭させ、まるで雑念を追い払うかの如く一心不乱にトレーニングに励んでいく。彼女の隣りで同じマシンを用い練習をする愛果は、そんなさゆりの姿に何処か痛々しさを感じるのであった。

 数種類のマシンを使用した本日のトレーニングも終了し、道場を後にし目抜き通りにくり出したふたりは、さゆり行き付けのカフェでティータイムを楽しんでいた。道路沿いに面する、開放感のある大きな窓の側の席に座った彼女らは、暖かいダージリンティーと甘ったるい香りのするシフォンケーキを交互に口へ運びつつ、多種多様な内容の会話に花を咲かせる。時には真剣な眼差しを向け、または周りに憚らず大爆笑したりと、彼女たちは一秒たりとも同じ表情には留まらない。

「そうかぁ、大学生もいろいろ大変だね。わたしなんて頭が全然良くなかったから、高校中退してプロレスの道に入っちゃったけど」

 愛果が楽しそうに話すキャンパスライフに、さゆりは自ら途中で高校生活を辞めてしまった事をちょっぴり後悔する。愛果は愛果でさゆりの話す過去のプロレスラー生活に興味があり、彼女に対しいろいろと質問をぶつけてみた。新人時代の合宿所生活や地方巡業、そして他のスター選手の裏話など――さゆりは隠す事もぼかす事もせず、自分が直接体験、見聞きした事を笑いも交えて愛果に聞かせるのだった。

「……まぁ、それなりに大変な事もあったけど、そんな“時代”があったからこそ今の《神園さゆり》があるって自信を持って言えるの」

 愛果の瞳はきらきらと輝いていた。これまでにも何度かさゆりから同様の話は聞いているが、自分の知らない、華やかな彼女の現役時代の思い出話は、いつ聞いても愛果の想像力を刺激させ――未来への夢をかき立てる。

「愛果ちゃんは――プロレスラー志望だったっけ?」
「はい。今もここで月に一~二回上がらせてもらったり、大学のプロレスサークルで試合をしてますけど、やっぱり将来はフルタイムで活動したいです」

 一点の曇りも躊躇もなく、自分が抱いている将来の夢を嬉しそうに語る彼女を見ていると、さゆりは若者だけの特権である「根拠のない自信」を羨ましく思うと同時に、ここでのプロレス活動で何かひとつ成果を残せたのではないか、という気分にさせてくれる。

「それじゃあ……さ、今度ここに来る太平洋女子の大会、一緒にいかない?」
「さゆりさんチケット持ってるんですか? 是非お供させてください!」

 思わずテーブルに手を突き、身を乗り出す愛果。いくら緒方が「人気低迷」だの何だのと言っても、やはり地方においては太女のブランドの威力は絶大である。

「偶然知り合いから招待席のチケットをいただいたの。でもよかった……愛果ちゃんが喜んでくれて」
「当然ですよ、何てったって生で水澤茜の試合が観られるんですよ? 雑誌や動画でなく実際に目の前で!」

 ――ほぉ、やっぱり水澤の人気って凄いじゃない。

 元選手やマスコミからの評価でなく、実際にファンの意見を直接聞いたさゆりは、やはり水澤茜は自分や、同時期を生きた選手たちに続く、《スター》と呼ぶに相応しい逸材である事を認識するのだった。

「昔の選手からの質問だけど、水澤のどこに魅力を感じるの?」
「そうですねぇ……ビジュアルや空中殺法ももちろん魅力ですけど、どんな相手でも一歩も引かない度胸の強さや、エースとして団体を引っ張っているリーダーシップでしょうか」

 なるほど、と感心しながら愛果の語る水澤評を、黙って聞くさゆり。実際には雑誌の記事や人伝てで彼女の噂を聞くだけで、見た事も会った事も無い。彼女の話を聞いている内にだんだんと水澤に興味が沸いてきた。

「もし……もしもの話よ? わたしと水澤とが闘う事になったら、愛果ちゃんどう思う?」

 一瞬びっくりした表情になる愛果だが、すぐに冷静さを取り戻し顎の下に指を当て、少しの間熟考する。

「うーん、“知り合い”が闘う事については素直に嬉しいと思いますけど、女子プロレスファンの目で見れば……新旧スター同士の対決は一度きりで十分かな? 仮にその試合でインパクトを残すようだったら、次もその次も見たくなるかも知れないですが」

 純粋なファン目線からの意見に、さゆりは黙って耳を傾ける。やはり《名前》があれども体力的に旬の過ぎたおばさんに、太平洋女子の現エース様のライバル役には無理があろうというものだ。その辺は自分も、緒方から話を聞いた当初からの意見と同様である。一番身近なファンからの意見――それが大多数の意見だと仮定しても、自分と水澤との「世代間ライバル抗争」があまりにも失敗に近い事が分かり切っているのに何故、緒方は自分を必要とするのか? やはり当日会場で直接確かめなければならないようだ。

 店を出たその後に「大会当日に現地集合」と愛果に告げ、ふたりは最寄のバス停で別れると、さゆりは自宅までの道程を徒歩で帰る事に決め、軽やかな足取りでぶらぶらと散策しながら繁華街を歩く。今日は天気も良く、朝晩と比べれば幾分過ごしやすい気温ではあるが、それでも街を歩く人たちの服装は暖かいものへと変わっているし、コンビニエンスストアやドラックストアに設置されているチラシは、クリスマスケーキやおせち料理の予約を謳い、季節の移ろいを視覚的に実感させた。さゆりは街に立つアルバイト学生から、金融業者の広告が入ったポケットティッシュを受け取っている最中、信号待ちしている沢山ある車の中に見覚えのある顔を発見する。

 ――あれ……譲治くん?

 目の部分が大きく開いた商談用マスクを被り、落ち着いた色のスーツに身を包んだ譲治が、何か考え事をしているのか両腕をハンドルに、そのまた上に顎を乗せてぼおっとしていた。車内の彼の姿から察するに少々お疲れ気味の様子だ。信号が赤から青へと移り変わったがしばらく気も付かず、停車させたままの譲治へ後続車からクラクションを鳴らされて、はっと我に返り慌てて発進させる彼の姿を見ていると、さゆりはかれこれ数日間も自分と顔を合わせない譲治への苛立ちと、オーバーワークによる健康面の心配で、何だか胸が締め付けられるような思いになるのだった。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 真っ白い塗装がまぶしく輝く、近代的な風合の市民センターの中では本日興行を行う太平洋女子プロレスの若手選手らが、自分たちが試合をするリングやグッズ販売をする売店などの会場設営に追われていた。そんな慌ただしい最中にさゆりと愛果は、緒方の厚意で設営途中の会場へ入れてもらっていた。特に見る物全てが新鮮な愛果は終始興奮し放しで、グレーのスーツを着たさゆりに対し逐一質問をし苦笑させた。

「――紹介するよ。これがうちを代表する選手、水澤だ」

 緒方に連れられ団体支給のジャージ姿で現われた、現在の太女のトップエベンター・水澤茜はやはり他の人間とはレベルが違う。会場ですれ違う幾多の選手たちからはないオーラというものがびんびんと感じられる――さゆりは水澤を目の当たりにしてそう思った。
 緒方の隣で水澤は、ぶっきらぼうな表情で視線を下から上へと動かし、さゆりをじっくり観察するとふん、と鼻で笑いつまらなそうに感想を述べた。

「へぇ……随分と普通なんスね、神園さゆりさんって。以前にウチん所のスター選手だったと聞いていたから、凄く期待してたんスけどね。ちょっとがっかり」

 横柄な口の利き方に困惑する緒方を余所に、自分はメジャー団体・太平洋女子プロレスのトップを取っている、という自信の表れなのか、さゆりに対し先輩を先輩とも思わぬ見下したような態度を取る水澤。これにはさゆり当人よりも“愛弟子”である愛果が反応した。

「ちょっと! 失礼じゃないですか、大先輩に向かってその口の利き方はないじゃないですか?!」
「ん? 誰よあなたは。のこのことくっ付いてきただけの“お味噌”は黙っててよ」

 女子プロレスラーの卵だとは事前に、緒方からは簡単に聞かされていたが、正直彼女の事など1ミリも知らない水澤は、「お前なんて眼中にない」とばかりに鬱陶しそうに愛果を邪険に扱った。顔色がみるみる変わっていく彼女を見てこのままではまずいと判断したさゆりは、怒り心頭で今にも殴りかからんばかりの愛果の首根っこを掴み、無理矢理自分の後ろに下げるといいから落ち着けと叱った。緒方は緒方でこのちょっとした“衝突”で、さゆりとの“交渉”が破談になるのではないかと気が気でならない。

「水澤、お前いい加減に――」

 そう言いかけた途中、水澤は緒方の顔を手で遮って気を逸らした。喉元まで出掛かった彼女への注意を遮られた緒方は、その傍若無人さに空いた口が塞がらない。

「わかってますよ、社長。それじゃあ私はこれで――」

 水澤は憮然とした表情のまま、ほんの一瞬さゆりに一瞥をくれた後、くるりと踵を返し早足で控室の方へ戻っていく。最後まで礼節を弁ない横暴な態度でさゆりに接した、彼女の我儘さに怒り心頭の愛果とは対照的に、当の本人はそんな彼女を「面白い奴」とばかりに不敵な笑みを浮かべていた。

「――まぁ仮にもトップを張ってるんだし、あれくらい我が強くなけりゃやっていけないわよね」

 すっかり白けきったこの場の空気を一変させようと、さゆりはわざと大きな声でこう言って笑った――もちろんここにいない、水澤にもしっかり届くように。

 腹の底まで振動が伝わってくる音響効果に目映いばかりの華やかな照明。高性能・最新鋭の舞台装置に彩られ、まるでコンサート会場と間違わんばかりの会場の雰囲気にさゆりは、資本の豊富なメジャー団体とそうでないローカル団体との圧倒的な差を、自分の眼や耳そして肌で直接感じた。野外オープンでの興行の多い《こだまプロレス》は全年齢を対象とし、分かりやすいキャラクター作りやレスリングの内容で、誰がいつ観ても楽しむ事が出来るドサ廻りの大衆演劇的な感じだが、今観ている太平洋女子プロレスはさゆりの活躍していた時代から、経営陣が世代交代したのか“娯楽”という日本語よりも、“エンターテインメント”というカタカナ語がピタリとはまるくらい洗練されており、周りの観客たちも自分よりも高年齢の客は招待客以外はあまり見られず、むしろ愛果くらいのハイティーンから三十代前後までの若い層で占められていた。
 それよりも、さゆりが気になっているのが記者の多さだ。単なる地方巡業のひとつであるにもかかわらず、専門誌をはじめスポーツ紙やWebメディアなど、知っている名前から初めて目にする会社まで様々な場所からこの地に集まっていたのだ。

 ――緒方の奴、わたしが、水澤の挑発から逃げられないように取り囲んだわね。

 外堀を埋めていくような緒方の狡猾な手口に、さゆりは思わず渋い顔を見せる――既に全て手配済み、というわけだ。昔から自分の「商品価値」には全く無頓着だったさゆりであるが、この大袈裟に思える程のお膳立てには、さすがに自分が元・人気アイドルレスラー……約十五年前の人気絶頂時、ブロマイドやビデオなど関連グッズの売り上げが他のどのレスラーよりも多く、またテレビのバラエティ番組に何度も顔を出し一般層にもその名が知れた《奇蹟の女子プロレスラー》神園さゆりである事を自覚せずにはいられなかった。

「――本日のメインエベント、三十分一本勝負を行います。青コーナーよりビアンカ・レヴィン選手の入場ですっ!」

 モデル然とした容姿の、美人リングアナウンサーがリングの中央でコールすると、入場ゲートに設置された炭酸ガス噴射装置が作動し、勢いよく白いガスが吐き出される中、青い光を浴びてモヒカン気味の金髪を振り乱し、鍛え上げられた筋肉の装甲に固められた《装鋼麗女》《北欧の核弾頭》ビアンカ・レヴィンが雄叫びを上げて登場する。彼女は持ち前のパワー殺法でいろいろな団体や国を渡り歩き、その活動はプロレスだけに留まらず、度々総合格闘技のリングにまで上がる強者である。
 ビアンカがリングに上がり、ぐるぐると周りを旋回し観客を威嚇している最中、急に会場の照明が落とされ漆黒の闇に包まれる。そしてピンスポットが移動しリングアナウンサーに当てられ――観客たちが待ちに待った《マーメイド・スプラッシュ》水澤茜がコールされた。
 彼女の熱く燃える情熱を表現するかのような赤色のスポットライトが、ファンたちの声援に応えながら入場通路を歩いている水澤を追っていく様は、まるで活火山の溶岩のように見えた。スピーカーで大増幅された、入場曲の激しいビートを己の体内に共鳴させ彼女のテンションは会場の興奮と比例するようにますます上がっていく。
 これが太平洋女子プロレスの、新世代メインエベンターなのか――彼女の内から湧き上がるカリスマ性と舞台装置の効果が相まって、持っている以上の輝きを放つ水澤の姿に、さゆりは思わず立ち上がりつい見惚れてしまっていた。そして同時にこうも思った。
 すっかり緒方に騙された、スター不足なんて全くのデタラメだったんだ――と。
 水澤がリングサイドを周回しリングインする直前、フェンスを間に挟んだ僅か数メートルの距離でさゆりと一瞬目が合った。視線を感じ我に返ったさゆりは、口を一文字に固く結び背筋を伸ばして彼女を見つめると、にやりと口角を上げて笑っただけでそれ以上の展開は無く、再びリングサイドの観客たちとハイタッチを行いながら、闘いの舞台へと歩みを進めた。
 両者へのコールも終わり、レフェリーによるボディチェックも済んだ後、理性という鎖で縛られていた闘争心を解き放つように、試合開始のゴングが鳴らされた。
 まずはビアンカが、トップギアで水澤にめがけて一直線に突進する。槍のようなタックルを放ち彼女を一瞬宙に浮かせるとそのままマットへと叩き付けた。決して気を抜いていたわけではないが、それ以上にビアンカのスピードは速く水澤は対応が遅れてしまったのだ。頭を強く打ち付け苦悶の表情を浮かべる。
 フィニッシュへの序章的な技で使用されるスピアーを、試合開始早々に繰り出したビアンカは明らかに早期決着を狙っていた。彼女は日本での巡業の直後に米国で開催される、総合格闘技のビッグイベントに出場するために数か月も前から、格闘技仕様のファイトスタイルへとチェンジすべく猛特訓を積んでいた。それ故にプロレスでなく、相手の攻撃になるべく付き合わず「倒して殴る」総合格闘技に近いファイトとなり一気に試合の緊張感が高まった。
 ダウンした水澤の身体へ馬乗りになり、ビアンカはグローブのような大きな掌を左右の腕から彼女の顔を狙って振り下ろす。パンチではなく掌打なので反則のカウントは取られないが、それでもヒットすれば頭部への衝撃は相当なもので、水澤は前腕を前に出しガードするのが精一杯でビアンカの攻撃に成すがままとなっていた。リング上の惨劇に、ファンの女の子たちの悲鳴が客席から飛んだ。
 このまま圧倒的なパワーの前に水澤は屈してしまうのか……? さゆりはじっと目を凝らし試合の成り行きを見守った。奴の非プロレス的な動きに何も対応出来ず、ただ負けてしまうのであれば「それだけの選手」だったとファンは思うだろうし、逆に負けたとしても何かひとつ、相手に爪痕のひとつでも残す事が出来たら彼女の商品価値は今より更に上がるはずだ。

 ――さぁ、ここが正念場よ水澤。

 悲鳴と声援が混じり合う、会場の喧騒にこのさゆりの呟きは、隣りにいる愛果はもちろん、他の誰にも気付かれる事なくかき消されてしまう。
 何度となく重量級の掌打を放つものの、懸命なガードによって頭部への攻撃がままならないビアンカは次第に焦りだした。そして攻撃の精度も落ち始めたその時、水澤は不意に放った掌打のひとつをキャッチすると、自分の脚を彼女の首に絡め一気に締め上げる――三角締めの体勢に入った。普段は派手な空中殺法ばかりが目について少々水澤の事を舐めていたビアンカだったが、総合格闘技の素養もある事に驚きパニックを起こし暴れ出した。だが動けば動くほど彼女の脚や自分の腕が、首を締め付け意識はどんどん薄くなっていく。
 この危機的状況に抗うため、そして自分自身に活を入れるため奥歯を強く噛み締めビアンカが叫ぶ。

「ウガァァァッ!」

 見えないエンジンをフル稼働させて身体中にエネルギーを送り込み、何と水澤をぶら下げたまま持ち上げ立ちあがったビアンカ。この信じられない光景に会場中にどよめきが走った。ウザったい水澤を自分の身体から引き剥がすべく、《装鋼麗女》は彼女を掴み高く持ち上げマットに叩き付けようとするが、身体が最高地点まで達したその瞬間、水澤は自ら技を解きくるりと後方回転して着地すると、間髪入れずに顎狙いのドロップキックを敢行した。下から突き上げるような彼女の飛び蹴りは見事顎にヒットし、ビアンカの巨躯が音を立ててマットに沈んだ。

「よっしゃ、いくぞぉーっ!」

 水澤は喉が張り裂けんばかりの大声で、会場の隅々まで自分の優位性をアピールするとまだ足元のおぼつかない、《装鋼麗女》の髪を掴んで無理矢理立たせフルスイングで彼女の頬を張った。どこにこの細い身体に力が宿っているのか、頬を張られたビアンカの顔は圧力で歪み大きく首を反らせる。
 この一発で目の覚めた北欧の女巨人は拳を握り、反則のパンチを右へ左へと繰り出すがすっかり覚醒してしまった天才・水澤茜の敵ではなかった。面白いように彼女の打撃は全てスルーされ逆に掌打のコンビネーションを喰らう羽目になってしまう。水澤はビアンカの腕を掴むと対角線上のコーナーマットに目掛け、彼女の身体をハンマー投げのように振り飛ばすと、がしゃん! という金属音が聞こえたかと思うと背中をコーナーマットに強打したビアンカはゆっくりと腰を下ろしていき、顔を痛みで歪めマットへ仰向けに寝そべった。
 この場にいる、全ての人たちの視線は鉄柱に昇る水澤を追っていた。これから何が起きるのか、さゆり以外の観客たちは既に分かっているが、それでも皆期待せずにはいられない。最頂点まで登り終えた彼女は不安定な足場にも拘わらず、バランスを保ったまま直立し目下の標的を確認すると指で拳銃の形を作り、自分のこめかみに当て発砲する仕草を見せた後、背を後ろに向け宙へ舞った。身体を伸ばした状態で二回転捻りして落下する水澤は、目測を誤る事無く正確にビアンカの身体へ胸から着地をした。エドガー・アラン・ポーの小説の名を拝借した、後方伸身二回宙返り二回ひねりの高難度の必殺技《メエルシュトレエム》がずばりと決まった瞬間、頂点まで登りつめた観客ひとりひとりの興奮が遂に爆発し、大歓声となって会場全体が激しく揺れたような感覚に陥った。
 レフェリーはすかさずマットを三度叩き、水澤のピンフォール勝ちを高らかと宣言した――試合時間は10分にも満たなかったが、それでも序盤の総合格闘技のような緊張感のある攻防や、誰もが待ち望んでいた必殺技の《メエルシュトレエム》が見れた事で気にもならなかった。コーナーポストに昇り、全身を使って勝利の歓びアピールする水澤に皆、賞賛の拍手を惜しみなく贈り続けた。

「すごい!凄いですよね、やっぱり水澤茜は」

 目は潤み顔を紅潮させて、興奮した様子でさゆりに話しかける愛果。開場前に起きた水澤との悶着などすっかり忘れ、いち女子プロレスファンに戻っている彼女にさゆりは只々苦笑するしかなかった。水澤茜の実力を目の当たりにしたさゆりは、彼女こそが新世代のスター候補であるという確信を得たと同時に、何故旬の過ぎた自分がそんな彼女の“ライバル候補”として太女からピックアップされたのか? という疑問が頭の中で渦巻いていた。
 リング下からマイクロフォンが、スタッフによって水澤に手渡された――さゆりの胸の鼓動が急に速度を上げ始める。いよいよここからが“本番”だ。

「愛果ちゃん――」
「はい?」

 ふいに自分の名を呼ばれた愛果はさゆりの方を向くが、彼女はリング上を見据えたまま動かない。

「これから――何が起きても、決して慌てないでね?」

 静かにそう言い放ったさゆりに愛果は、どういう意味なのか理解できず、イエスもノーも返せないまま彼女の姿を見つめる他は出来なかった。

「――ご来場の皆様。本日はお忙しい中太平洋女子プロレスに足を運んでくださいまして、まことにありがとうございました。こうして皆様の声援のおかげで勝利する事が出来たわけでありますが、まだ自分には足りない要素がある事がわかりました。それは――この団体以外、女子プロレスファン以外の人々にも自分の名を広く知らしめる事が出来る“知名度(ポピュラリティ)”です!」

 観客たちからはおおーっと、重低音のどよめきが起こる。

「本日対戦したビアンカは、地上波のテレビでも放映されている、総合格闘技の試合に度々出場していて「プロレス」という枠を超えてその名前が知られていますが、私がいくら数千人規模の会場を一杯に出来ても、結局その場にいる数千人しか私の凄さが伝わらないのが悔しいのです。だから今回、この会場に私の名を更に高めてくれるであろう人物をお招きしました――往年のアイドルレスラー……《フェアリー・ファイター》神園さゆり、出てこいっ!」

 水澤が名を叫んだ瞬間、さゆりの座っているリングサイド席にスポットライトが照射され、彼女の姿は白い光に包まれる。同時に各マスコミが派遣したカメラマンから一斉にフラッシュが焚かれ、それはまるで青白い花火のように見えた。
 思いがけない突然の“ビッグネーム”の登場に、《こだまプロレス》でその名を知っている地元民や、近隣の土地からこの会場に駆け付けた女子プロレスファンたちは、大きな歓声と拍手で歓迎の意志を表わす。
 一体何が起こったのか、まったく思考が追い付かず目を白黒とさせる愛果をよそに、さゆりは手渡されたマイクを持ち静かに立ち上がり――リング上の水澤に向かい叫んだ。

「それが……それがわたしをここに呼んだ理由なのか? 水澤ぁ!!」


天気のいい日はプロレスでも――【第2回】

2018年01月30日 | Novel

 何の前触れもなく登場したミニサイズのHEY-ZONEに、会場は一瞬どよめいた。ケーブルテレビの告知CMでも見物客が手にしているチラシにも、巨漢のマスクマンとして紹介されているのでいきなりのサイズダウンに皆驚くばかりだ。

「誰だよ、お前は?!」

 コーナー上のゴー☆ジャス譲治が激しい口調で、リング下の謎のマスクマンに質問をする。もちろん正体は分かっている――先程まで本人とテントの中で打ち合わせもしている。だが、それでも観衆の見ている前だと反射的に正体を尋ねてしまうのはプロレスラーとしての悲しい性、「伝統芸」といってもいい。

「うるせぇ! 誰だっていいんだよ。それよりお前、ぶっ倒れる覚悟は出来てるか?」

 ミニHEY-ZONEが譲治へ自らが手にしているマイクを使い、わざと声色を変えた喋り方で応戦する。口元には穴が無く薄いメッシュ地で覆われているので、マスクのデザインと相まって喋る姿は一層不気味に感じる。短いマイクアピールを終えた途端謎のマスクマンは、オリエンタルな柄が刺繍された、当人とはサイズ違いなロングガウンをなびかせて、いきなりリングに向かって一直線に駆け出した。
 うろたえる譲治をよそに滑り込むようにリングイン、彼のタイツを掴みコーナーポストから無理矢理引き摺り落とすと、胸や腹へストンピングを何十発も叩き入れ一時的に戦闘不能にする。あまりに素早い行動と辛辣な攻撃に、見物客たちはブーイングを飛ばすタイミングを失い放心状態となっていた。
 コーナーでぐったりする譲治に一瞥もくれず、ミニHEY-ZONEは両手を大きく広げリングの中央でぐるりと回りギャラリーの視線を引くと、おもむろにマスクに手を掛けその“正体”を自ら明らかにした――サユリーナだ。前の試合で激しい闘いを繰り広げていた小さな女子選手……それも悪党(ヒール)仕様での再登場に、皆薄々は中身に気付いていても驚きの声が沸き起こる。
 サユリーナは羽織っていたロングガウンを脱ぎ去ると、今度はそれを譲治の頭の上から被せて視界と呼吸を一時的に奪い取り、スタミナを消耗させようとボディーを狙ってパンチの連打を浴びせる。《ホームタウン・ヒーロー》の劣勢に、状況を理解したギャラリーからはやっとブーイングが飛ぶようになり、それと同時に年少のファンからは「がんばれ!」と応援の声もあげられ始めた。

「うふふ、皆が譲治くんの応援をし始めたよ。“男”ならこれに応えられなきゃ、ね?」

 攻撃を加えながらサユリーナ――というよりも素顔のさゆりが、ふたりだけにしか聞こえないような小さな声で話しかけながら、固く握った拳を一発、また一発と彼のボディーに叩き込む度に実に嬉しそうな顔をする。本人にはその自覚はないが譲治に対して奥底に隠れていたSっ気が発動したようである。
 譲治はじっと耐える。ギャラリーの声援が最高潮になるまで我慢して、反撃のタイミングを窺っているのだ。ロングガウンを頭から被せられ閉塞感で息苦しくなる中、薄らと聴こえるリングの上に飛び交う自身への声援をエネルギーへと変えていく。
 今だ!――ギャラリーからの要求と、己の気力が満タンになった事を感じ取った譲治は、一気にガウンを振り払った。そしてサユリーナの腹部にキックを入れ身体を屈ませると、間髪入れず背中に重いハンマーパンチを打ち下ろし彼女をマットに這いつくばらせた。《ホームタウン・ヒーロー》の大復活に、空気が割れんばかりの大歓声が彼らのいるリングの上を被う。
 腕に力を込め地団駄を踏んで、リングの周りの見物客たちに向けて己の「怒り」を表現した後、サユリーナの髪を摘んで引っ張り起こす。大きく口を開け「信じられない」という表情の彼女に向け、譲治は胸元へ鋭いチョップを水平に打ち込む。ぱぁん!という大きな破裂音と共に、ヒットした部分がみるみる内に真っ赤に染まりとても痛々しく見えた。続けて譲治は二発三発と立て続けにチョップを打ち、攻撃の圧力によってサユリーナの身体はリングの隅へと徐々に追いやられていく。
 何故避けないのか?――プロレス観戦の初心者はそう思っただろう。しかもサユリーナはれっきとした女性で、攻撃を避けたとしても誰も非難の目は向けないはずだ。だがサユリーナ=さゆりは「まだ試合は始まったばかりで、今は逃げるタイミングではない」と客観的に試合の流れをみていた。何倍も体重のある男性レスラーの攻撃を、患部がみみず腫れになろうとも歯を食いしばって受け切る自分の姿をみて、見物客が容赦ない譲治の攻撃力とサユリーナの耐久力の凄さを感じてもらえればそれでいい、という考えである。
 だが、あまり長く続いてもいくら“悪党”とはいえ、女性への過度な攻撃は時として反感を買う恐れもある。いつどこで止めるのか? 譲治のプロとしての力量が問われる場面だ。そしてサユリーナの背中にリングを囲うロープが触れた瞬間、彼はぱっと手を離し攻撃をストップさせた――ロープブレークだ。攻撃が止んだ途端サユリーナは、サードロープへ腰を掛けてぐったりとした。コスチュームのトップスに覆われていない部分にある患部は、真っ赤に腫れて所々皮が捲れている箇所もある。直に触れると飛び上がりそうに痛いはずだが、試合中はアドレナリンが過剰に放出されているのでさほどでもない。

「よっしゃぁ、いくぞ!」

 ギャラリーから大発生する“ゴー☆ジャス”コールに、拳を固めた右腕を突き上げて応える譲治。だが不意にサユリーナに背を向けたその時、攻撃を受け続けてグロッキー状態ながらも、一瞬のチャンスを窺っていた彼女の鋭いドロップキックが彼の大きな背中に突き刺さった。完全に気を抜いていた譲治は勢いよく吹き飛ばされて顔からマットに倒れ込む。身長差やウエイト差があり、かつ筋肉量の異なる男性相手では、普段通りのファイトをしていたら勝負にならない。なるべく相手とは組み合わず、ヒット・アンド・アウェイ方式で隙を見ては打撃を加えてスタミナを削っていき、丸め込み技でフォール勝ちを狙うしかない。
 怒りの形相で立ち上がった譲治は再び水平チョップを喰らわさんと大きく腕を振るが、今度はサユリーナも攻撃を受けずに全て避けていく。彼女は小回りの利くミニマムな身体を駆使して、縦横無尽に動き回りゴー☆ジャス譲治の判断力と平常心を奪っていった。真正面に現れたサユリーナを迎撃すべくミドルキックを放つも、射程範囲を掻い潜りスライディングして背後に回った彼女は、腰に自分の肘を叩き入れると両膝を彼の背中に当て、顎を掴み上体を反らせそのまま体重を掛け後方に倒れた――バッククラッカーが決まり譲治の背骨が悲鳴をあげる。身体を貫くような痛みに、背中を押えたままで動けない彼に、容赦なく蹴り続けるサユリーナへはギャラリーから、敵意のこもったブーイングが浴びせられるが全く怯むことなく、むしろ涼しい顔をして珍しい悪役を楽しんでいた。善玉(ベビーフェイス)としての彼女しか知らない地元《こだまプロレス》ファンたちは、はじめて見せる妖艶な悪の魅力に思わずどきっとした。リングを周回しながら、ギャラリーに睨みを利かせ煽っていくサユリーナ。
 彼女は倒れている譲治のマスクを掴み強引に起こすが、途中で目覚めた彼は顔にかかる不愉快なサユリーナの手を払いのけるとフルスイングで張り手を見舞った。破裂音とともにサユリーナの顔が大きく歪む。

「痛ってーな!」

 負けじとサユリーナも張り返す。力が劣るこちらは二発。こうなればお互い意地の張り合いだ――両者は数えきれないほどの張り手を喰らったが一向に引く気配がない。頬は痺れ張り手の圧力で内の肉が歯に当たって切れた頃、耐え切れなくなった譲治は渾身の力で放つサユリーナの攻撃をかわし空振りさせると、背後を取って後方へ反り投げた。投げっ放しジャーマンスープレックスによりマットへ後頭部を打ち付けたサユリーナは、それまでのダメージの蓄積によりすぐに立ち上がれずにいた。今度は譲治がお返しにと強引に立たせる番だ。足はふらつき背筋もまっすぐ伸びていない、それでも「まだやれる」と噛みつかんばかりの視線で睨み、真っ向勝負を諦めていない。
 譲治が腕を掴んでサユリーナをロープへ飛ばす。そして戻って来たところを狙いショルダースルーで彼女を宙高く舞い上げて再びマットに叩き付ける――と計画していたが予想に反し、サユリーナは空中に舞った後に背中からではなく両足で見事着地し、驚いて一時的に硬直してしまった譲治にフライング・ニールキックを胸板へ叩き込んだ。でかい音を立ててマットへ倒れる彼をサユリーナは、頭を持って引き起こし逆に譲治をロープへ振る。硬いロープをしならせ自分の元へ帰って来た所へサユリーナは身体に組み付くと、反動と勢いを利してノーザンライト・スープレックスの体勢で自分より重い譲治を見事投げ切った。
 レフェリーのフォールカウントが開始される。しかし2カウント目を数える前に譲治は必死の形相で体勢を崩して事無きを得た。全くの無傷なのだろうか?――いや、高い軌道を描いて頭からマットへ落とされ、首から肩にかけて痺れが走りダメージがかなり身体を蝕んでいるようだ。首筋を押さえふらふらと立ち上がるが、そこにはもうサユリーナの姿はなかった。何処だ? と目を必死で動かし彼女を探す譲治。

「おっしゃ、いくぞぉー!」

 彼女はコーナーポストの上にいた。
 両手を挙げて手を鳴らして見物客たちに手拍子を要求すると、彼らも手を大きく打ち鳴らしてこれに応える。軽快な手拍子の中、サユリーナの中で技を仕掛けるタイミングが決まった瞬間、両手を翼のように大きく広げてコーナー上から飛び出し、目下のゴー☆ジャス譲治目掛けて約3メートルの高さから体当たりをした。このまま全体重を預け押し潰し、フォール勝ちを決めたいサユリーナだったが簡単に事は運ばなかった。衝撃が予想よりも強過ぎた為、体当たりを受け止めた譲治の身体が反転し逆に彼女の上に覆い被さってしまった。
 サユリーナの唇に何かが触れた――勢い余って身体が一回転した際に偶然にも、譲治の唇と接触したのだった。目の前いっぱいに映る彼の顔……マスク越しだが嬉しそうな表情が丸分かりだ。

(ちょっと……当たってるって!)

 困惑した表情で、周りに聞こえないような小さな声で譲治に注意するが、「え? うん」と生返事を繰り返すだけで離れる気配が感じられない。サユリーナはとうとう業を煮やし、大声で怒鳴った瞬間彼はぱっと顔を離した。普段よりも何倍も大きく見える譲治の姿に、鼓動は一段と激しくなり視界も霞み、見慣れた彼の顔もぼやけて見える。
 普段は目にする事の無い、真下から覗き見る譲治の姿に“対戦相手”ではなく、つい“男性”を感じてしまったサユリーナは口を開けたままで、「いい加減にしてっ!」から先の文句が言えず戸惑っていた。そんな彼女の迷いを察知した譲治は、まだ勝利していないのに何故か満足気な表情だ。

(いやぁ~、偶然とはいえラッキーだなぁ。ごっつぁんですっ!)

 譲治が、嬉しさに溢れた弾むような調子で彼女に感謝の意を口にする。だが今は大事な試合中、ましては多くの人々が自分たちの行動を目の当たりにしている事――実際は何が起きているのか誰も分からないが――が気になりサユリーナは恥ずかしくて仕方がなかった。このままだと埒があかない、と考えた彼女はこの試合を終了させるべく強硬手段に出る事にした。

「いつまでくっ付いてるんだよ、このスケベ!」

 サユリーナは周りにも聞こえるような大声で、譲治を恫喝すると思いっきり張り手をぶちかました。ふたりのコミカルなやり取りにどっと見物客から笑いが発生する最中、ダメ押しとばかりに彼の急所に膝を入れて悶絶させ、そのまま首と脚を抱え体を入れ替えてガッチリと固めるとフォールの体勢に入った。

「……ツー、スリィッ!」

 譲治が下腹部に拡がる鈍い痛みに襲われる中、無情にもレフェリーのカウントが三つ入り結局、急所打ちからの丸め込みでこの《異色対決》は女子選手であるサユリーナの勝利となった。さゆり本人としてはもう少し、しっかりと勝負を見せてから勝つなり負けるなりしたかったのだが、アクシデントが影響して試合に再び集中できず、強引な幕引きを図った事を悔んでいた。それでもギャラリーが皆笑って楽しんでいる様子なので万事OKだ。

「ってぇな……おいレフェリー、反則じゃねェのかよ!」

 レフェリーに詰め寄り抗議する譲治。だが判定が覆るはずもなくマットを両手で何度も叩き悔しがる彼を余所に、既にリングを降りたサユリーナはリングサイドにある本部席でマイクを奪うと一方的にまくし立てる。

「やかましい、この変態っ! 女の敵っ!! 金輪際あんたとは絶対闘わねぇからな……馬鹿っ!!!」

 そう言うとマイクを譲治目掛けて投げつけ、ぷりぷりと怒って彼女は控室へと消えていった。 リング上で患部を押さえ、情けなく腰を折って突っ立っている《ホームタウン・ヒーロー》の成れの果てとは対照的で、“勝者”サユリーナに対するギャラリーからの熱い歓声はいつまでも止む事は無かった――

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――  

 一週間後――
 神園さゆりはもうひとつの“職場”である、コンビニエンスストアでの仕事に精を出していた。試合後数日は対戦相手の、ゴー☆ジャス譲治による厳しい攻めによって腫れてしまった顔を人前に晒したくない為、顔の下半分が隠れる程の大きなマスクを付けて仕事をしていたが、幾分か腫れも引いたので今日からはマスク無しで行動している。
 珍しく来店客がほんの二・三人しかいないまばらな店内で、久しぶりに顔を合わせた同僚の女子高生から意外な言葉を頂いた。

「さゆりさんがプロレスしてる所、テレビで観ましたよ~」
「えっ、やってたの?……ローカルニュース枠で流れてたんだ、へぇ~知らなかった」

 彼女がいかにも今どきの子な風貌にも拘わらず、家でニュース番組を観ている事も驚きだが、自分も出場した《こだまプロレス》の大会がテレビ撮りされていた事を、今の今まで知らなかったさゆりはびっくりして、棚へ商品を補充していた手も思わず止まってしまった。

「わたし、プロレスの事はよく分かんないけど、これだけは自身持って言えます――さゆりさん、マジカッコいいです!」

 自分がバリバリの現役選手だった頃、数多の女性ファンから言われていた「格好いい」の一言を年齢を重ねた今になって、若い同僚の口から久しぶりに聞いた彼女は、嬉しいやら恥ずかしいやらで照れまくった。

「えっ、あんたって秋祭の時にゴー☆ジャスと闘っていた人なの?」
「凄ぇ! 握手してください」

 女子高生の言葉をきっかけに、店内にいるお客からも次々と声を掛けられ始め、店内業務もそこそこにさゆりは彼らへの対応に追われるはめとなった。降って湧いたような歓迎ぶりに彼女は戸惑いながらも笑顔で応対する。もうかれこれ三年ぐらい前から地元《こだまプロレス》へ出場しているさゆりだが、ここまでの反応の良さは一度も無かった。普段めったに自ら「女子プロレスラー」と名乗らないので大会が終わった直後でも、レジ打ちをしている彼女と前日リングで闘っていた彼女とが同一人物である事に気付くものは少ないが、この地域のコマーシャルに何本も出演し、ローカル情報番組にもちょくちょく顔を出す有名人・ゴー☆ジャス譲治とシングルで対戦した事、それに限られた範囲ではあるが地上波のテレビで彼女の闘っている様子が流れた、という事が非常に大きい。

「ちょっとさゆりちゃん、裏に入って在庫確認お願いできるかな?」

 次々と握手やサインを求めてくる来店客に当惑する彼女に、「助け船」を出すべく店長は中へ引っ込むように指示をだすと、その言葉に甘えてさゆりは店長と女子高生に手を合わせ、「ごめんね」と言って店の奥へと消えていった。

「はぁ、久しぶりにスター選手の気分だわ……時間と環境ってホント残酷よね」

 狭い商品倉庫の中でさゆりは、置かれていたビールケースの上に腰を掛けひと息ついた。まだアイドル的人気を誇っていた十代後半から二十代前半の頃は、多くの男性ファンを相手に何の疑問も苦労も無くファンサービスをしていたが、所属団体を辞め故郷であるこの街に戻ってきてからは、両親や親族、それに会社関係での付き合い以外で人と接触する機会はゼロに等しく、ましてや見知らぬ人間から声を掛けられるなんて絶対に無い。自分がかつて《奉られていた存在》だった事は、いい思い出として懐かしむ事はあっても、現在の自分が《普通の人》になってしまった事を残念だと思った事はない。それはプロレス界から自らの意思でいちどは身を引いている、という思いがあるからだ。これが現役に未練たらたらで辞めていたらこの境地には達しなかっただろう。
 少し休んだ後、仕事に取り掛かろうと立ち上がった時、制服のポケットに入っているスマートフォンが騒がしいアラームと共に揺れだした。さゆりはパールカラーのケースに保護されている端末機をおもむろに取り出し、液晶画面を確認すると入ってきたのは電話ではなくLINEのメッセージだった。送り主は譲治だ。

【お疲れ様です。仕事が終わったらいちど事務所へ寄ってください、待ってます】

 ――時期的に次の大会の打ち合わせかな?

 短絡的にそう考えたさゆりは「了解」と手短に文字を入力して送信すると、気持ちを切り替え収納棚の商品を数え始めた。まだ定時までは十分時間がある、仕事が終わるまでは普通のパート従業員でプロレスラーというもうひとつの顔を表に晒すのはその後でいい――

 仕事を終えたその足でさゆりは道場へと向かう。秋祭のあと朝晩はめっきり冷え込んで寒くなり、着る服も生地が厚くなり量も一枚増えた。彼女は頬をかすめる風の冷たさや、自分の吐く息が白くなっているのをみて、季節の移り変わりの速さを直に実感する。
 道場へ到着すると灯油の香りがさゆりの鼻孔に触れた。日増しに寒くなっていく道場内に耐え切れず今年もとうとうストーブを出した模様である。彼女は練習をしている選手たちに軽く挨拶をし、建物の奥にある事務所へと向かう。

「代表、入りますね」

 ドアを軽くノックし中へ入ると、次大会のスケジュールがびっしり書き込まれたホワイトボードを背後にし、ラップトップパソコンに向かい表計算ソフトと格闘中の譲治がいた。さゆりの声を聞いた彼は、キーボードを打つ手を一旦止めて返事をする。

「おーさゆりさん、お疲れ様」

 さゆりは手にしている膨れた白いレジ袋を彼のデスクの上に置き、自分も傍にあった事務椅子に腰を掛けた。譲治はさっそく袋を開け、中に入っていたおにぎりと清涼飲料水を取り出すと、すぐさま封を切りそれらを口に運んだ。さゆりは事務所へ寄る用事がある時はこうして、自分の店で出た賞味期限切れ間近の食品を独り身の譲治へ持っていくのだ。

「ん、うめぇ。いつもありがとうございます……でもたまにはさゆりさんの暖かい手料理、食べたいなぁ」
「何バカな事言ってんのよ。それで用事って何なの?」

 自ら和やかな空気を断ち切って、さゆりは彼に本日の用件を尋ねた。そのままだと何だか「大事な」話がはぐらかされそうな気がしたからだ。

「そうそう、実は……」
「ちゃんと口の中、空にしてから喋りなさい」
「厳しいなぁ」

 500ml入りペットボトルの飲み物を一気に口に流す。

「ふぅ。実はさ、今日さゆりさん宛てに電話があったんだ」
「誰から?」

 何を躊躇っているのか、どこか会話の歯切れが悪い譲治。次の言葉を待つ時間がさゆりにはじれったく感じて堪らなかった。そんな煮え切らない態度の譲治に怒りをぶつける。

「はっきりして! 冗談だったら怒るよ?」
「……緒方さん。さゆりさんが以前いた団体ところの広報部長だった人。今社長やってるんだって」

 緒方宏行(おがたひろゆき)――日本に数多とある女子プロレス団体の中でも、歴史の長さや人材レスラーの豊富さ、それに興行数においてもトップクラスにある《太平洋女子プロレスリング》の現社長である。かつて神園さゆりが所属していた時期には、団体や選手たちのパブリシティーを行う広報部長として辣腕を振るい、業界全体において「キレ者」と評される数少ない人物であった。

「緒方さんがわたしに何の用なの?」
「それは……」

 譲治は数時間前に電話口で聞いた、緒方からの話を説明し始めた――かつて太平洋女子で人気を誇っていたスター選手たちが、年齢や気力低下などを理由に次々と団体を去ってしまい、現在では彼女らと比較して知名度が数段落ちる年齢の若い選手ばかりで、固定客が見込まれる小会場での興行はまずまずだが、ホールやアリーナといった大会場ではここ最近苦戦を強いられているのだという。そこで若手の“強化”を図るため名の知られた外部の選手を“敵(エネミー)”として定期参戦、場合によっては所属選手となってもらおうという良く言えば招聘、悪く言えば引き抜きであった。
 だが、そんな話を聞かされても「何で?」とさゆりは不思議がるだけだった。第一ウチにはそんな《全国区》な選手なんていないじゃない、と全く思い当たる節が無い。疑問符を頭の上にいっぱい浮かび上がらせている彼女へ、譲治は指を突きつけた。

「さゆりさん、全く自分の価値に気付いてないっ! あなた十数年前までは押しも押されぬ太平洋女子のアイドルレスラーだったでしょうが」
「そうだけど……でも十数年前だよ? 何で今頃になって声掛けてくんのよ?」
「……観たんだって、俺とさゆりさんが闘っている秋祭のテレビ映像を」
「ウソっ?! あれローカルニュースじゃなかったの」 

 まさかの話に驚くさゆり。同僚の女子高生からはローカルニュースだと聞いていたのに、実際は《各地の秋の話題》として全国放送の枠で放映されたらしい。

「それで緒方さん、あれを観て久しぶりに会いたくなったから連絡下さい、ってさ。さゆりさんにとっていい話であるといいね」

 譲治は電話の件を伝え終えると、仕事を再開すべくディスプレイへ目を向けるものの、さゆりにパソコンの蓋を閉じられてしまい作業が出来ない。首を上げて彼女の顔を見るとその目は笑っていなかった。

「わざわざご報告感謝します、代表……でもそれって、わたしへの電話で事が済みますよね? 一体何がしたいわけ? 譲治くん」

 譲治は何も言わない。さゆりの迫力に気圧されてしまい口が開けないのだ。

「どうしていいか分からないから、わたしに判断を仰ぎたいっていうんでしょ? でもあなたはいつだってそう、“さゆりさんがやりたいようにやればいいよ”って言って済ませちゃう。でも本当にそれでいいの? もしかしたらわたし、出て行っちゃうかもよ? わたしを……神園さゆりの事を本当に大事に思っているならあいつに向かって“ふざけるな、俺の女に手を出すんじゃねぇ”って啖呵切ってよ!」

 ふたりの間に漂う、非常に気まずい空気。
 ずっと内に秘めていた、譲治への不満がつい口から出てしまったさゆりは、我に返ると急に恐ろしくなり、がたがたと身体の震えが止まらない。まともに彼の顔が見られなくなった彼女が取ったお互いにとって最善の方法――それは事務所から出ていく事だった。

「……一度電話する。どうなるか分からないけどこれだけは言っておくね。わたしは大好きな人がいるこの街を、小さいけど夢溢れるこの団体を愛している。此処から離れるなんて絶対考えられない」

 そう言い残すと、さゆりは静かにドアを閉じ去っていった。
 事務所にひとり残された譲治はもう、自分の仕事の事などどうでもよくなってしまい、空になったペットボトルを感情に任せて壁に投げつけた。ぶつかって床に落下したボトルは軽い音をたてて転がるが、譲治はそれを拾いもせず事務椅子に身体を預けたまま、目だけを動かしそれを追いかけていた。

 ――ったく、どうして俺はこんな肝心な時に、さゆりさんに何ひとつ言い返せないんだろう? 「俺の元に居てくれ」、「此処から出ていかないでくれ」……こんな当たり前で簡単な言葉なのにな。情けねぇぜ、ゴー☆ジャス譲治。

 部屋の中では、ファンヒーターの送風音だけがむなしく鳴り響いていた。

 染みひとつない、真っ白なシーツが被せられたベッドの上にスマートフォンを置いたまま、寝間着姿のさゆりは何十分もにらめっこをしていた。時折座る体勢を変えて気分転換を図ってみるが何の効果も得られない。譲治には「一度電話する」と見栄を切って事務所を出ていったものの、いざ自宅に戻り部屋でひとりになるとなかなか踏ん切りが付かない。

 ――どうしよう、無視してこのまま逃げちゃおうか? いや、どうせまた譲治くんの所に電話かかって来るんだろうし、一回緒方さんと話さなきゃダメか。

 ベッドの上へ大の字になり背中から倒れると、置いてあったスマートフォンが弾んで宙に浮き、床に落下する間一髪の所でさゆりは慌てて受け止めた。

「……」

待ち受け画面に映る《こだまプロレス》メンバーとの集合写真をしばらく眺めた後、気持ちの整理が付いたさゆりは、遂に覚悟を決めた。端末の《電話帳》に消去せず残してあった太平洋女子の番号をクリックすると、驚くほど僅かのコール数で目的の相手が電話口に出てきた。

「――久しぶりですね、神園さん」

 古巣・太平洋女子の現社長である緒方だ。最初の現役時代には、マネジメントなどいろいろと骨を折ってくれた恩人である。

「まさか、この歳になって太平洋女子様からお呼びが掛かるなんて、思ってもみなかったわよ」

 さゆりは皮肉って言ったつもりだったが、残念ながらそうは捉えていなかった緒方は「またまたご冗談を」と笑うだけだった――


天気のいい日はプロレスでも――【第1回】

2018年01月30日 | Novel

 気持ちがよい程に青かった空が、徐々にその明度を落とし、等間隔に設置されている街灯に明かりが点り始める午後六時前、店の裏にあるごみ置場に両手一杯の、容量ぎりぎりで膨れ上がった半透明のごみ袋を置き終えた神園(かみぞの)さゆりは、このコンビニエンスストアでの勤務時間が終了する為、帰る準備に取り掛かる。ちょうど店のバックヤードに学校の制服姿のまま入ってきた、この後のローテーションに入る女子高校生がさゆりに声を掛ける。

「さゆりさん、お疲れ様で~す」
「ありがとう……ってどうしたのよ、制服のままで?」
「いや、こないだのテストで赤点取っちゃって……補習で残されてたんですよぉ」

 ばつの悪そうな彼女の表情。だが声のトーンから察するに、悪い点数を取った事についてはあまり堪えていない様子だ。

「電話かLINEを送ってくれれば、そのまま仕事を続けたのに」
「いえ、さゆりさんに迷惑は掛けられませんから。真面目なんです、こう見えてわたし」

 胸をばんと叩き「任せておいて」と云わんばかりのどや顔を決める女子高校生。《真面目》という言葉がゲシュタルト崩壊した瞬間である。

「はは、君が頑張りやさんなのは分かったから、急いで着替えて店に出てくれないか?」

 そこへ商品の在庫確認を終えたばかりの、黒ぶちメガネを掛けた40歳代後半の恰幅の良い男性――このコンビニエンスストアの店長が彼女たちの前に顔を出した。バイトの女子高校生は彼の顔を見るや「ヤバい!」と云わんばかりの表情で、慌てて奥のロッカー室へ消えていった。
 さゆりは彼女が消えたロッカー室の方向を見てにこりと微笑むと、呆れ顔の店長に声を掛けた。

「店長……私これで失礼します」

 軽く会釈をするさゆりに店長は、彼自身の人柄が滲み出るような笑顔でこれに応える。

「お疲れさん――これからトレーニングかい? 頑張るねぇ」
「ええ、大会も近いですし。それでその日は仕事を休む事になりますが……申し訳ないです」
「本音を言うと残念だけどね。それでも――さゆりさんの闘っている姿、店で接客している時の何十倍も魅力的で好きだな、僕は」
「違った形の《接客業》ですよ、この仕事と何も変わりませんって。でも――嬉しいです」

 さゆりは不意打ち気味に彼から「魅力的」と言われ、湯気が上りそうな程に顔を真っ赤にして照れ、その恥ずかしさから顔を上げられず俯いたまま店を後にする。既にレジ打ちを開始した同僚の女子高校生は、そんな「少女」のようなさゆりの姿を横目で見て笑うのであった。

 既に辺りは暗闇に包まれ、点在する住宅の柔らかいオレンジ色の灯りと、街灯の青白い光だけがさゆりが歩く道を照らしていた。パート先のコンビニエンスストアを出てから数分、彼女は中小規模の工場や資材倉庫が立ち並ぶ一角にある目的地――《こだまプロレス》道場に到着した。
 団体が旗揚げして既に十年、「地域の活性化」をスローガンに掲げるローカルプロモーションが色々な土地で誕生したが、資金難や選手不足など様々な理由でその多くは消滅を余儀なくされたが、幸いにもこの団体は地元民に愛され、そして彼らの熱いバックアップもあってどうにか潰れずにここまでやって来ることができた。神園さゆりはそんな「日本一熱い」ローカルプロレス団体に所属する女子選手である。
 出入口のドアを開け中に入ると、既に玉のような汗をかいて数名の選手が練習を始めていた。スクワットや腕立てなど基礎体力練習をしている者もいれば、数種類の《金属の塊》を使いウェイトトレーニングに励んでいる者もいた。彼ら選手の年齢層は下は二十代から上は五十代とばらばらで、皆|《こだまプロレス》の選手とは別に他の職業で働いている云わば「セミ」プロレスラーたちなのだ。とはいってもよくありがちな「素人によるプロレスごっこ」等ではなく、学生時代に「学生プロレス」でリングに上がり、その興奮が忘れられず社会人になった後にここで練習して「非常勤プロレスラー」となった者や、いちど他団体でデビューしたものの、体力的限界や家庭の都合等何らかの事情でリタイアしたが「もう一度リングに上がりたい」と、地元にあるこの小さな団体でプロレス活動をする「元」プロレスラーなど「本気」の輩が集まっている正真正銘の「プロレス団体」なのだ。

「ほらぁ、もっとしっかり受身取って!でないと怪我しちゃうよ!」

 リング上で実戦形式の激しいスパーリングをする選手のひとりに、少し離れた場所から注意をする赤い覆面の男。黒いタンクトップから突き出る丸太のような日焼けした太い腕、まるでドラム缶を思わせるようなその体躯は、どこからどう見ても「プロレスラー」そのものだ。

「お疲れ様です、譲治代表っ!」

 さゆりが赤覆面に大きな声で挨拶をする。くるりと首を彼女のいる後方へ向け、存在を確認すると彼は身体を百八十度回転させ、145センチとレスラーとしては小柄なさゆりと向き合った。それまで若手選手への指導でぴりぴりとした空気が彼の周りに漂っていたが、彼女を見た瞬間からそれが薄れ、リラックスした温和な空気へと変化した。心なしかマスクの下からのぞく口元も緩んでいるように見える。

「おぉ、サユリーナ!やっと来ましたか。お仕事の後で大変でしょうが頑張ってください!」
「そんな……ウチのトップレスラー兼団体代表の《ゴー☆ジャス譲治》さまに煽てられるなんて私――悪いもの食べました?」
「いえいえ。だってずっと先輩じゃないですか、この業界の」
「ふ~ん。そうやって年寄り扱いするんだぁ? ひとつしか歳は違わないのに」

 正直彼の発言に対し気分など害してはいないが、ちょっとからかいたくなった彼女はわざと凄みを利かせて下から睨みつけてみた。すると譲治は尻餅をつき大きな身体を縮ませて「本気」で怖がった。そんなふたりのやりとりに、道場のあちこちからそれまで張り詰めていた緊張感が解け明るい笑い声が発生した。
 神園さゆりは譲治の言うように、元は本職の女子プロレスラーであった。また彼女もここにいる選手たち同様、何らかの理由があってフルタイムのプロレス活動が困難となり、いちど業界からリタイヤした身であった。しかし生活環境が変わり身辺も落ち着き始めた頃、もういちどリングで受身を取りたいと思い始めた時期に、地域振興の一環としてプロレス活動を行っていた《ホームタウン・ヒーロー》ことゴー☆ジャス譲治から直々に誘われて《こだまプロレス》に参加し今では、選手数こそ少ないが団体の女子部である《こだまガールズレスリング》のエース兼コーチでもある。さゆり自身、かつて所属していた大規模の女子団体でフルタイムの選手生活をしていた時よりも、もっとプロレスが好きになり今の兼業レスラー生活にやりがいを感じていたのであった。
 さゆりは黄色の柄無しTシャツに黒色のジャージ下という動きやすい格好に着替え終わると、さっそくストレッチを開始した。身体中の筋肉という筋肉を丹念に伸ばし解きほどき、時間を掛け徐々に全身を弛緩させていく。こうする事で余分な力が身体に加わらず最小限に怪我を防ぐ事が出来るのだ。こうして自分の身体と対話でもするように、調子を確認しながら三十分近くじっくりと、柔軟運動に費やしたさゆりの全身からは大粒の汗が吹き出し、着ているTシャツは水を被ったようにずぶ濡れとなって、生地がぺたりと素肌に貼り付き下着の地色が薄ら透けて浮き出てしまっていた。近くで練習していた男子選手――特に女性経験に乏しい若い選手たちは彼女の艶姿を無視する事も出来ず、そんな事も気にせず真剣になって練習に励んでいるさゆりに、どう声を掛けて良いものか戸惑っている所へ、譲治は黙って自分の持っていた大きなバスタオルをさゆりの肩へ被せる。白い柔らかなバスタオルに包まれ彼女の下着も――シャツが密着して露わになったボディラインも、一瞬にして隠れ見えなくなる。
 突然の事でいまいち状況の呑み込めないさゆりに、当の譲治が耳元で小さな声で説明する。

「……見えてますよ、下着が! これじゃあ童貞クンには目の毒ですので急いで着替えて来てくださいっ!」

 彼から言われて、ようやく自分の状況と周りからの視線を理解したさゆりは、顔を真っ赤に染めて俯いた。だが極端に恥ずかしがるとまた《童貞男子》に刺激を与えかねないと判断した彼女は、ぎゅっとバスタオルの裾を掴み下着が見えないように隠すと、何事も無かったかのように更衣室へと姿を消した。
 しばらくして、別のシャツに着替え終えたさゆりはリングに上がると、本日練習に参加している――今度の週末に行われる試合に出場する女子選手三名を集め、青いキャンバスの上で自らが率先して受身の練習を開始した。前回りや後方への受身など比較的簡単なものから始まり、倒立しての受身やロープの一段目に上り高い位置からの受身へと次第にその難易度高めていく。他の三人もさゆりと同じく兼業レスラーであるが、彼女が要求する様々な動きに音を上げる事も無く、皆さゆりの指示に付いていく。練習に参加している女子選手の中でも一番若い――十九歳の大学生は半年前には後ろに倒れるのが怖くて半べそを掻いていたものだったが、さゆりの熱心な指導の甲斐もあって今ではこのレベルなら難なくこなせるし、他のみんなも同様で「学業や仕事の片手間にやるプロレスなんて……」と《パートタイム・レスラー》否定派の観客から馬鹿にされない程度の試合を行う事が出来るまでに成長した。
 その後、さゆりは三人を相手にスパーリングを交互に行い、各選手の動きをじっくりとチェックする。ロックアップからはじまりヘッドロックからの首投げや袈裟固めに移行するのをヘッドシザースで防ぐという序盤の攻防、ロープを使用した素早いハイスパートの攻防などいろいろなシチュエーションを想定しての基本の“型”を練習する。少しでもおかしな動作があるとすかさず注意を出して、各選手の動きがスムーズになるまで何度もやり直しをさせ理想形に近付けていく。一対一のスパーリングでもかなりの時間を費やすのだが、三人分の指導とあって熱のこもった指導は、道場の使用終了時間ぎりぎりまで続けられた。週末に開催が迫る、市が催す祭事で行われる大会において、下手くそな試合を見せたくない、《こだまガールズレスリング》エースである神園さゆりの「元プロ」としての責任感である。

 夜十時を過ぎ、帰宅の途につく《こだまプロレス》の選手たち。次の日が休日や祝日であれば何名かは街の飲み屋に繰りだし、酒を片手にプロレス談義に花を咲かせるが、残念ながら平日であるため皆一目散に道場を後にし自宅へと向かう。

「……ご飯まで奢って貰って悪いわね、譲治代表」
「当然の事ですよ。それと此処では《代表》なんて呼ぶのは止めてください、軽~く《ジョージくん》でいいですから――いつものように」

 道場から車で走って約10分の場所にある、さゆりの住むアパートの前で車を停車させ、ふたりは話をしていた。道場では覆面を被っていた譲治だったが今は素顔で、イケメン……は言い過ぎだがそれなりに整った面構えをしていて、今でこそ冷蔵庫のような体格をしているが中高生の頃は、同じクラスの女子から結構好かれたであろうと想像に難しくない、中々の元・二枚目ぶりだ。

「バカじゃないの? あーあ、譲治くんがそんな事言うからへんな汗かいちゃったじゃない」

 さゆりは恥ずかしくなって、彼の剥き出しの腕をバシバシと叩き照れ隠しをする。既にアラサーの彼女であるがその様子は何処か《少女》をイメージさせて、譲治は骨まで到達せんばかりの衝撃にも笑顔で耐え、彼女の仕草に胸をときめかせた。

「でも……いつもありがとう。すごく感謝している、譲治くんの事。現役の時はいちファンとして応援してくれて、今は第二のプロレス人生をサポートしてくれてホント感謝してる」
「何言ってるんですか。あなた――《神園さゆり》という存在がいたからこそ、ここまで頑張ってこれたんですよ。プロレスラーになる、という目標も《地元密着のプロレス団体》を作るという夢も。「もうひとりの俺」であるゴー☆ジャス譲治は、あなたの存在なしでは決して生まれ得なかったです」

 酒の席で幾度となく聞いた譲治の話。だが車内という薄暗く狭い空間にふたりきり、という特殊なシチュエーションは、その意味合いが普段とは異なって聞こえてしまう。これは譲治からの「告白」なのかも、と勝手に解釈したさゆりは急に怖くなり慌ててドアを開け車の外に逃げ出してしまう。
 突然の事で状況が理解できない譲治。めっきり冷たくなった外の空気に触れ、落ち着きを取り戻したさゆりは手を合わせて彼に謝った。

「ご、ごめん。別に譲治くんの事が嫌いとかそういうのじゃないの――わたしは団体のいち選手で譲治くんは団体の代表で……そんな関係になるのっておかしくない、ねぇ?」

 さゆりの支離死滅な言い訳に、譲治は「まいったな」という表情をして頭を掻きながら笑った。彼にも全く下心が無いわけではないが、この状況に乗じて彼女に男女の関係を迫ろうなどという考えはこれっぽっちも無かった。面白すぎる彼女の行動は譲治を笑わせてくれるがその一方で、憧れの女性から自分自身が「男」として見られていない事が分かって少し寂しくもあった。

「それでは今度の日曜日の試合、一緒に頑張りましょう! くれぐれも怪我だけには十分に注意してくださいね。ではおやすみなさい」

 そう言って譲治が車を走らせて去った後、さゆりはしばらくの間自分の部屋にも入らず、錆びた金属製の階段に腰を下ろし、全身を包む微かな冷気の中ぼんやりと星空を眺め、昂っていた感情をクールダウン――実際はすでに落ち着きを取り戻してはいたが、譲治に対して取った自身の行動を反省していた。
 どうしてあの時、逃げ出してしまったのだろう? あの余計なひと言が、もしかして彼の心を傷付けてしまったのではないか? そして――いつも自分に対し、誠心誠意に尽くしてくれる譲治の事を、本当の所わたしはどう想っているのだろう……?
 何度思考を巡らせても、明確な答えには辿り着かない。

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 数分歩いただけでも汗ばむほどの陽気となった日曜日の午後――市役所にある広い駐車場の中では模擬店のテントとならんで《こだまプロレス》のリングが設営されており、現在リングの上では女子選手四名によるタッグマッチが行われていた。今や熱心なファン以外はテレビでも目にする事の無くなった《女子プロレス》の試合に、初めて目にする若者やかつて絶大な人気を誇っていた頃を記憶する中高年の見物客たちは、《サユリーナ》のリングネームで出場する神園さゆり他三人が繰り広げる熱い闘いに引き込まれ、知らず知らずのうちに声援を送っていた。

「お前ら、よぉく見とけよ!」

 ショートカットの茶髪で丸い体型の、「往年の女子プロレスラー」を思わせるビジュアルの悪党レスラー・ヴァルキリー小松がリング中央で、彼女とは正反対でアイドル的容姿の女子大生レスラー・愛果(まなか)ゆうの長い髪を掴みギャラリーに大声でアピールすると、そのままリングの端の方まで放り投げた。女子プロレス特有の技であるヘアーホイップに見物客は驚きの声をあげる。小松と相方のディーゼル久保田の悪党チームによる、愛果ひとりに対する執拗な攻撃はかなりの時間にわたって続き、そのビジュアルの良さで彼女を応援している客たちのフラストレーションは募るばかりだ。
 自分のコーナーで何をする事も出来ず、黙って相棒がやられている姿を見せられて苛々しているサユリーナを余所に悪党チームは、巧妙にレフェリーの死角を付いて仕掛ける反則攻撃や、パンチやキックなどのラフ殺法で体力を削っていきフォール勝ちを狙うが、見た目に反して根性のある愛果は足元がおぼつかなくなりながらも、ツーカウント以上は絶対に許さない。この彼女の底知れぬ根性に当初諦めムードだった客も肩を上げる度にヒートアップし、一部の集団からしか出ていなかった声援も「女子プロレス初観戦」と思わしき人たちの口からも溢れ始め、気が付けば多種多様の声援がリング周辺を覆い尽くすようになっていた。
 小松が勝負を決めるべく放ったクローズラインを、愛果は寸前でしゃがんで回避するとこれまでのお返しとばかりに、突き上げるようなドロップキックを小松の顎にめがけて撃ち込んだ。強烈なキックの衝撃で吹き飛ばされた彼女は、「ばんっ!」と軽快な音を立てて背中からリングの上に落ちる。

「愛果ちゃんっ、頑張って!」

 サユリーナが自軍のコーナーから必死に手を伸ばして交代を迫る。
 ダメージの蓄積で疲労困憊な愛果は膝をつきながらも必死に前進し、ありったけの力を振り絞りさゆりにタッチする事に成功した。この瞬間ギャラリーから大きな歓声が湧きあがり、この試合一番の盛り上がりを見せた。立ち上がって体勢を整えようとしていた小松に向かって再びドロップキック一閃、慌てて助けに入る久保田にはボディスラムで迎撃するという、今まで溜めた鬱憤を全て吐き出すかのようなサユリーナの攻撃に見物客は拍手喝采で喜んだ。スポーツライクな格闘技色の強いプロレスがマニアの間で好まれようとも、やはり勧善懲悪・起承転結のはっきりした従来のプロレスの方が分かりやすいし、どんな客層年齢層も安心して試合に没頭できるというのが良い。小難しい理屈は一切いらない、リングの上で繰り広げられる肉体のスペクタクルに人々は魅了されていく。 
肉と骨が鈍重な音を立ててぶつかり合う。小松とサユリーナは互いのプライドを賭けエルボーを一心不乱に叩き込む。肘や上腕が首筋を、胸板を抉る度に痛みによって自然と呻き声が溢れ出るが、それでも彼女らは絶対に攻撃を止めようとはしない。そう、どちらかがマットに這いつくばるまでこの「意地の張り合い」は続くのだ。恵まれた体格でこのまま「エルボー合戦」を押し切るかと思われていた小松だったが、小さな身体からは想像できない圧力とスピードで、息を整える暇を与えず打撃を叩き込むサユリーナが遂に打ち勝ち、患部を赤黒く変色させた小松は自軍のコーナー付近で力尽きダウンした。
 小松から勝負を託された久保田は、脱兎のごとくロープから飛び出しサユリーナにパンチの連打を浴びせ攻撃の勢いを断ち切る。そして首根っこを脇に挟むとそのままDDTで顔面をマットにめり込ませた。せっかく廻ってきた勝機をこのまま逃してなるものか、と久保田は続けて無理矢理サユリーナを立たせると、腰に手を回し軽量の彼女の身体を一気に持ち上げ、自身の必殺技(フィニッシャー)であるパワーボムの体勢に入った。これが決まればスリーカウント間違いなしの大技だ。だがサユリーナはこの瞬間を待っていた。上半身が頂点まであがったと同時に彼女は久保田の頭を脚で挟むと、背筋で自分の身体を真下へ大きく反らし、股の間を潜るようにして相手を投げ飛ばした。逆転技のヘッドシザース・ホイップだ。
 サユリーナはちらりとコーナーの方を見た。待機している愛果がロープを強く握りしめ、まるで挑むような視線で自分を見つめている。最後は自分がフィニッシュを決めたい――と、そう言っているかのように。サユリーナは彼女に対し覚悟はあるのか? と言葉ではなく視線で問うてみると、愛果は力強く首を縦に振った。その自信に満ちた目力にサユリーナは、相棒に勝負を託す覚悟を決めるとマットの上でダウンする久保田をヘッドロックをしたまま強引に起こし自分のコーナーまで引っ張っていき愛果にタッチをすると、相棒の必殺技をお膳立てするために今度は、羽交い絞め(フルネルソン)で相手を固定しリング中央付近まで下がる――準備は整った。

「いくぞぉ!」

 試合権利のある愛果は、コーナーポストの最上段でスタンバイしていた。そして下していた膝をゆっくり伸ばし直立すると、何の躊躇も無く両手を広げて大きく飛び上がった。久保田も、サユリーナも、そしてギャラリーの誰もが|《こだまガールズレスリング》のアイドル・愛果ゆうの、黒髪をなびかせて空中に舞うフォトジェニックな姿に目を奪われる。
 どすっ! と長身の久保田に愛果の身体が覆い被さると、彼女の体重プラス落下する際の重力で生じた衝撃に耐え切れず、マットに向かって水平に倒れてダウンした――フライング・ボディアタックが決まりそのままフォールカウントが始まる。レフェリーがふたつカウントをマットへ叩き入れ三つ目に突入しようとした時、フォール負けを阻止せんが為に小松が鬼の形相でリング内へ突入してきた。愛果の邪魔はさせない! とサユリーナは小松に向かって突進すると、綺麗な回転のフライング・ニールキックで迎撃し彼女をリングの外へ排除する事に成功する。そして最後のカウントが数えられた瞬間――サユリーナ&愛果ゆう組の勝利が決定した。レフェリーからふたりの手が挙げられると、ギャラリーからは祝福の歓声と拍手が絶え間なく送られ、これが自身初勝利となった愛果は感激のあまり汗と涙で顔を濡らして泣いていた。傍で彼女の様子を見ていたサユリーナも、かつて《若手》と呼ばれていた時代の自分とオーバーラップさせ、思わず感慨に浸るのであった。
 会場全体がハッピーな雰囲気に包まれたまま、こうして女子プロレスの試合は幕を閉じた。この後は《こだまプロレスリング》団体エースのゴー☆ジャス譲治が登場するメインエベントが待っている。だが「興行は生もの」とよく言われているように、いつも物事が平穏無事に進むわけではなかった――予期せぬトラブルが発生したのだ。

「へ、平蔵さんっ! 大丈夫ですか?!」

 選手控室用の大テントの中では、メイン出場予定である謎の黒覆面・HEY-ZONE(ヘイ ゾーン)こと里中平蔵(さとなか へいぞう)が、180センチ以上もある大きな身体を折り曲げてブルーシートの上でうずくまっていた。顔はひどく青褪めており、突然の“ベテラン選手”へのアクシデントに、若手選手たちはどうしていいのか分からず、ただ声を掛けるのが精一杯だった。

「どうしたんです?……只事じゃないみたいですね」

 試合を終え、幕一枚挟んだ向こうの女子控室で休んでいたさゆりが緊急事態を聞きつけやって来た。試合時間も近いというのに覆面はおろか、リングコスチュームにも着替えていない平蔵の姿に疑問を感じた彼女は、事態が楽観視出来ない事を直に感じた。

「ああ、昨晩何処かの飲食店で食べた晩飯が原因で――夜中からずっと腹痛と嘔吐が続いていて。水も一滴も飲めなくてもうフラフラだ……」

 さゆりに状況を説明し終えた平蔵は、再び激痛に襲われて苦悶の表情を浮かべて身を縮ませた――彼の入った飲食店では当時来店した、客の多くが食中毒で運ばれていた事が後で新聞の報道によって分かった。
 連絡を受けた秋祭のスタッフが病院に電話を入れたので、数分後には救急車が到着して平蔵を搬送してくれる事になったが、問題は誰が譲治の相手を務めるのか? という事だった。現在ここに残っているのはデビューして僅か一~二年の《実戦経験》に乏しい選手たちばかりで、彼とまともに闘って「いい勝負」ができる技術(テクニック)と根性(ハート)の持ち主は残念ながらいなかった。いや、キャリアの長い譲治の事だから「試合」として成立させる事は可能かもしれないが、客目線でみれば彼が対戦相手を「一方的に攻めている」か「手加減している」様にしか見えない危険性もあり、マニアはともかくとして普通の観客が見て楽しめるものではないだろう。

「……代表」

 不安の表情がマスク越しからも見て取れる譲治に、さゆりが話しかける。普段からは想像もできない程に緊張していた彼は、返事をする事なく彼女の方へ顔を向けた。

「どうしたんです、さゆりさん? そんな思いつめた顔をして」
「わたし……代表と闘います」
「まぁ、サユリーナのエッチ♡」
「な、何言ってるのよ! この変態っ!!」

 さゆりとの冗談交じりの会話に、徐々に緊張もほぐれてきた譲治。考えてみればファン時代から数えて彼とさゆりとは長い付き合いで、プロレスのキャリアも彼女の方が上。これ以上はない《対戦相手》である。

「じゃあ、わたしが譲治くんに合わせるから……」
「いえいえ、ここは私めがサユリーナに。何せ先輩ですからこの業界の」
「……試合中覚えてろよ」

 遂に試合時間がやって来た。銀色のマントにお飾りのチャンピオンベルトという、いかにもヒーロー然としたコスチュームを身に着けたゴー☆ジャス譲治が、勢いよくテントから飛び出たかと思うと一目散にリングに向かって駆けていく。もちろん差し出されたお客さんの手に向かってハイタッチをするのは忘れない。それが《地域密着型ヒーロー》である彼自身の信念だからだ。ロープを飛び越えリングインし、颯爽とコーナーに昇り見栄を切るとギャラリーから大きな歓声が沸き起こる。長年故郷である地元で頑張ってきた成果、地元民との信頼関係の賜物である。リングアナウンサーからコールを受ける彼の勇姿を見て、さゆりは急いでコスチューム――出場予定だったHEY-ZONEのマスクと彼のガウンを纏い、マイクを片手にゆっくりとテントから出てリングへ続く通路へと歩きだした。