牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

5月22日(水) 「渡辺善太全集6<聖書論> ③」 渡辺善太著

2013-05-22 07:22:46 | 日記

 著者は聖書正典について宗教改革者たち(ルターとカルヴァン)の聖書正典観について述べている。

 本からの引用。「カルヴァンは聖書正典の定義について明白に記しているのみでなく、その権威の根拠について極めて明瞭にかつ力強く教えている。すなわち一言で言えば、聖書正典の権威は「聖霊の内的証示」においてのみその根拠を持つと主張している。彼のこの主張においては、今日いうところの歴史的証明と神学的証明とが明らかに区別せられている。彼は言う、そこには非常に大きい「迷誤」が一般に行き渡ってきた。すなわち聖書は教会によって正典として認容せられる限りにおいてのみ意義がある、という聖書に対する侮辱にしてかつ冒涜なる考え方がそれである。この考えによると、聖書が神からいでたものだと我々に信ぜしめるもの、それが安全にかつ毀損されずに我々の時代まで伝えられたと確証するもの、この書がその中に含むべき書物について、ある書物はこれに含まれるべく、ある書物は排除せらるべきものだと決定すべきもの、そのすべては教会である、とせられる。これこそ実に恐るべき、教会の名のもとに行なわれる無制限的専制である。かくのごとくすれば、永遠の生命に関する保証を人間の判断に置くことになり、良心は実に悲惨なる状態に置かれることになる。」

 「このルター、カルヴァンの聖書正典観において、私たちは明らかに「正典性」と「文献性」との区別とその不可分離なることとを学ばせられる。ルターにおける周知の表現たる「言葉と書」が示すこの両性の区別と不可分離なることとは、カルヴァンにおいて更に明瞭に表現せられた。前述の「理性の耐える限りにおいて、充分堅固に聖書に対する信仰が証明する事が出来ない訳ではない」という彼の言葉こそ、実に聖書のこの文献性の認識を示すものであり、文献性が与えうる限りの最大限のものを指示した言葉である。しかしそれにも関わらず、彼が聖書の内的証示を語っているのは、そこに正典性が明確に信奉せられているからであることは言うまでもない。この意味において私たちは宗教改革者の正典観として、「御言葉と聖書」の関係のみならず、「文献と正典」の結びつきを明らかに学ばせられるのである。」


 聖書は本であり文字で書かれているので、文献であるのは事実である。しかし信仰的な書物であるのも事実である。それが歴史的証明と神学的証明の区別と融合が必要な理由と言えよう。教会が選んだから「正典」になったのではない。神の言葉だから「正典」になったのだ。それを証明しているのは特別な聖霊の働きである。旧約の預言者が語った預言の言葉、神の子であるイエス・キリストが語った言葉、キリストに選ばれた弟子たちが書いた聖霊に導かれた言葉など、これらが霊感された言葉である。しかし、聖書にまとめる時に、様々な書が混在していた。そこで教会会議が開かれ、教会の指導者たちが聖霊の導きに従って「正典」を確認して聖書に入れ、「正典」でないものを聖書に入れなかった、ということだ。現在の聖書正典としての聖書66巻はすべて特別な聖霊の導きのもとに書かれたものである。今、我々が感じ言う聖霊の導きとはわけが違う。この点で特にペンテコステ派は気を付けなければならない。聖霊の導きという時、それは使徒たちと同じレベルでの聖霊の導きと理解してはいけない(同じ聖霊ではある)。もしそうであれば彼らの語る「預言」が聖書と同じレベルに引き上げられる可能性(危険性)がある。私は預言(予言ではない)を信じているが、決して聖書と同じレベルでの「預言」ではない。聖書には決定的で特別な聖霊の内的証示があるのである。これを抜きにして聖書正典論を語ることはできない。