牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

5月26日(日) 「渡辺善太全集6<聖書論> ⑥」 渡辺善太著

2013-05-26 11:53:14 | 日記

 著者は、聖書正典の発生的歴史的理解について書いている。

 本からの引用。「キリスト教会の正典としての聖書は、66冊の相互に相異なる書物をその内容とし、現にそこに一巻の書とせられている書物である。この書物に向かい、これを理解せんとするに当たり、いかなる人にも直接にそして最初に起こる問いは、その「現形」と「発生」とに対する問いである。、、、、聖書正典はその内容として66冊の相互に相異なる書物を含む一巻の書である、と言われたが、それはその66冊の個々の書物が、それぞれおのおのの発生的過程を持ち、更にそれらが聖書という一巻の書にまとめられたというその歴史的過程を持っていることを示している。このことは極めて当然なことであって、聖書正典もそれが人間の文字で、人間の言語で、人間の表現で書かれているものであり、人間の集団としての教会によって結集せられたものである以上、他の一切の文庫または双書の場合と同様、その個々の書物についてはその発生的過程を、その結集せられた形については、その歴史的過程を持っているはずである。」

 著者は旧約聖書と新約聖書の両方において発生的歴史的過程を記しているが、ここでは新約聖書について引用する。「使徒らおよびその補助者の書簡が諸教会で読まれたと共に、これらの福音書も上述のごとき関係によって教会で公読せられたのであった。これらの書物が教会で公読せられるようになったということがそこに新しく教会の公読を予想して一つの書物を記すということを発生せしめた。」


 続いて本からの引用。「第二世紀中葉になると、そこに新しい情勢が発生してきた。多くの地域に存在していた個々の教会に、徐々に連関ができてきて、そこに一つの有機的ともいうべき教会世界が形成せられてきた、そしてその世界においては秩序と慣習とが生まれてきた。ここに「正典」への信仰的積極的要請と実際的消極的必要とが意識せられるようになった。「信仰的積極的要請」とは、一言に言えば「新しき契約」に対する契約文書への要請であった。旧約聖書は教会において新しく再解釈せられ前述のごとく教会の「聖書」となり、「神の言葉」となったが、しかしその「再解釈」が理論的に徐々に考察せられるようになった。」

 著者は「実際的消極的必要」に関しては、ユダヤ人やグノーシス派やモンタヌス派の異端との戦いのために「正典」が必要となってきたと記している。そしてこのように書いている。「以上の信仰的積極的要請と実際的消極的必要とが、紀元二世紀中葉から、「使徒的」にして「公同的」なる「客観的」正典を、「新契約」に対する文書として形成せしめる機運を作ってきた。」


 この項目の結論部分からの引用。「以上聖書正典を発生的に見てきたが、その結論として我々は何を得たであろうか。ほとんどすべての正典結集史研究者の結論は一致していると言うことができる。その代表的な言葉としてグレゴリの言葉をあげることができる。「、、、、新約書中の書物の数というものはただ自然に生成したものである」とは、彼がその「新約書の正典と本文」の正典の部分における結論として記している言葉である。この意味において、第18世紀の合理主義神学者ゼムレルの「カノンとは、教会で朗読せられる為に定められた書物の目録である」という定義は、今日なお妥当性を持つという主張が成り立つ。」