牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

5月8日(水) 「プロテスタント教会の礼拝 その伝統と展開⑥」 J・F・ホワイト著

2013-05-08 06:13:49 | 日記

 第七章は、「分離派とピューリタンの礼拝」。

 本からの引用。「私たちはすでに第五章で自由教会の礼拝伝統の一つである再洗礼派について論じた。本章ではもう一つの自由教会の伝統に目を向けたいと思う。すなわち、分離派とピューリタンの伝統である。、、、、分離派とピューリタンの伝統の霊的源泉は改革派の伝統に由来するものであるが、実際にその伝統が成立したのはアングリカンという文脈のもとにおいてであった。この意味で、私たちがこの章で取り上げようとする礼拝伝統は、これまでに取り上げてきた最初の四つの伝統(ルター派、改革派、再洗礼派、アングリカン)とは異なり、今や中世後期の礼拝の遺産から更にもう一歩距離を置いた伝統に属するものであるといえよう。、、、、再洗礼派と異なり。この伝統は中世の源泉からの第二段階の展開を示すものであり、また次章で扱うクェーカーは中世の伝統との関係において第三段階の展開を示しているのである。、、、、ある意味において、分離派とピューリタンの伝統とは「超カルヴァン型の伝統」であるということができる。」

 「 「ピューリタン」という名称で知られるこの比較的大きな集団こそ、アングリカンが礼拝改革を完成するために示した一貫した課題を展開させ、また推進させてきた存在であった。、、、、中性から受け継がれてきた信仰行為の中でピューリタンの性格に最も適合するものとして残ったのが、悔い改めの強調であった。、、、、真にピューリタン的な力が向けられたのは説教であった。説教は聖書的であると共に現実問題に妥当することが期待されていた。聖書テキストは「苦痛に思われるほど」(緻密に)吟味され、その後、しばしば生き生きとした言葉で、生活に適用する形で語り伝えられた。 」

 私はピューリタンとの関わりはなくなじみが薄いのだが、良いイメージを持っている。

 「20世紀に入ると、分離派とピューリタンの礼拝伝統を定義し、その性格を特定することはますます難しくなってきた。なぜならこれらの伝統が外部からの多様な圧力に、すなわち19世紀のフロンティア派の成功、「再カトリック化」されたアングリカンの主張、第二ヴァティカン公会議後のローマ・カトリック教会の理念の魅力などにさらされるということが起こったからである。また、それと同時に、様々な教会合同の経験によって組合教会の伝統と他教派の礼拝伝統との結びつきが生じたこともその一因となった。」