牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

5月9日(木) 「プロテスタント教会の礼拝 その伝統と展開⑦」 J・F・ホワイト著

2013-05-09 06:32:48 | 日記

 ゴールデンウィーク明けから天気が良くなり農作業をしている。7日に契約先用に播種(苗作り)をビニールハウス内でし、昨日は直売用に定植(苗を畑に植える)をしてトンネルをかけた。トンネルがけが想像以上に大変だった。今日も定植作業が続く。


 さて第八章は「クェーカーの礼拝」である。本からの引用。「中世的伝統からの最も極端な断絶を示すものが、17世紀に始まるもう一つの礼拝伝統である「友会」(キリスト友会/フレンド派)、すなわち一般的には「クェーカー」として知られている集団の礼拝伝統である。」

 まず著者はクェーカーの源泉について書いている。「クェーカーの礼拝伝統はジョージ・フォックスが「内なる光」を体験した1646年に始まる。、、、、クェーカーの礼拝の中心にあった考え方は、「内なる光」はすべての人にとって接近可能なものであり、礼拝の目的とは静かな沈黙の中で神を待つことであるという理解であった。、、、、クェーカーの信仰行為の核心にあるのは、神は個々人の声を通して共同体に語りかけるという意識を土台とした強固な集団的神秘主義である。、、、それと同時に、礼拝する人々に直接に働きかける聖霊が聖書の諸文書を書かせた聖霊でもあるのは明らかであったから、クェーカーは聖書に対しても深い敬虔の念を抱いていた。」

 「ピューリタンやアングリカンが共有していた強力なカルヴァン主義的な諸要素に関して、クェーカーは多くの点でそれらを論駁した。クェーカーの議論によれば、聖霊によって神に直接近づくとすれば、それは聖霊に聖書以上の高い権威を認めることを意味するのであり、そこでは聖書は「二次的なもの」にすぎないのである。、、、、さらにまた友会は、カルヴァン派が認めていたような、人間にはサクラメントという外見的な形式による可視的なしるしが必要であるという理解を退けた。、、、、こうした物質と霊との分離は万人向けの主張ではなく、クェーカーの信仰行為においてはじめて意義あるものとなる理念であった。、、、、当然のことではあるが、古典的なクェーカーの礼拝において、説教は何の位置も占めていなかった。」

 聖霊を強調することはとても大切だと思う。礼拝は儀式ではなく「内なる光(いのち)」が重要であるという考えである。私はその考えそのものには賛成である。今まで見てきた教派の礼拝は聖書を強調するが聖霊を軽んじる傾向にあるので。しかし、聖霊と聖書のバランスが必要である。聖霊を強調しすぎて、聖書(説教)を軽んじていくのは、非常に危険である。今も一部の聖霊運動(礼拝)はそのような誤りに陥っていると思う。またサクラメント(聖餐と洗礼)を軽んじるのも問題だ。物質的なものをすべて良くないとすると、最後には異端の方向へ行くようになってしまうであろう。