牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

5月27日(月) 「渡辺善太全集6<聖書論> ⑦」 渡辺善太著

2013-05-27 20:34:28 | 日記

 著者は聖書正典の発生的歴史的理解に続いて場所的論理的理解について述べている。

 本からの引用。「聖書はそこに置かれている一巻の書物であり、一つのまとまったものとしての姿を持っている。この一巻の書物であり、一つのまとまったものとしての姿を持つ聖書について、我々は前章において、「この聖書はどうしてできたか」という問いに答えんとした。この問いはしかしこの一巻の書物としての聖書について問われるべき、すべての問いを尽くしてはいない。これに対して当然問われるべき次の問いは、「聖書はいかに組み立てられているか」という問いである。この二つの問いは厳密に区別せられなくてはならない。、、、、、「この聖書はどうしてできたか」という問いを問う者の全関心は、この書物内容となっている「材料」としての66冊と、それらが結集せられるまでの「過程」とに対する解明に向けられる。従ってこの問いはもっぱら「過去」的に考察せられ、かつ答えられるよう努められる。、、、「この聖書はどう組み立てられているか」という問いを問う者の全関心は、もっぱら一巻の書物としての「形態」とその「組成」とに対する解明に向けられる。従って、この問いは、もっぱら「現在」的に考察せられ、かつ答えられるべきである。、、、、、第一の問いは発生過程へのそれとして、それは当然発生的歴史的なる答えを予想したが、第二の問いは現形組成への問いとして、それは当然場所的論理的なる答えを予想するもので、両者は厳密にそして明瞭に区別せられる必要がある。」

 「聖書が結集せられて、そこにまとまった一巻の書物として存在する時、その「組成」または「成立」を問う場合、これに対して三つの組成的「要素」を持って答えが与えられる。その一は「結集せられたもの」で、その二は「結集したもの」である。前者は66冊の書物(旧新約聖書)で、後者はこれらを集めた「キリスト教会」たる結集者である。しかしこの二つだけでは「結集」という事実は説明せられない。そこには第三のものが既存していなければならない。書物が集められ・教会が集める・という場合、これが集められ、そしてこれを集める「場所」があるはずである。換言すれば結集という事実には、「何が」集められ、「誰が」集めるか、という問いのほかに「どこに」集められ・集めるか・という問いがあるはずである。「場所」が考えられずして、集められることもできなければ、もちろん集めることもできない。これが「組成」への問いに対する答えの第三の要素である。」

 著者はこの後、場所的論理的理解について様々な説明をしているが、分かりにくかった部分があった。また特に心に残る文章もなかったので、結論部分だけを引用する。「本章全体の論述において、一つのことが明らかになってきた。それは一巻の書としての聖書に対する十全なる理解としては、本章の組成的論理的理解を持ってしては、はなはだ不十分であるということである。すなわち聖書の場所的論理的理解は、必然的に聖書の全体的あるいは統体的理解に至らざる限り、それ自身を全うすることができないということである。すなわち聖書を場所と個物との関係において理解する理解は、これを全体と部分との関係において理解する理解に進む時、初めてそれ自身を全うするのである。場所とは一つの「匿名」的用語であり、統体とは一つの「記名」的用語である。場所を語る者は必然的に統体を語らなければならない。場所において語られつつ隠されていたことが、統体においてあらわに、その名を持って語られるのである。我々の次の課題はこの意味において、聖書正典を統体的神学的に理解するということである。