牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

5月4日(土) 「プロテスタント教会の礼拝 その伝統と展開」 J・F・ホワイト著

2013-05-04 07:23:42 | 日記

 第三章は、「ルター派の礼拝」である。マルティン・ルターによって始まったプロテスタント教会。当然と言えば当然だが、彼によってプロテスタント教会の礼拝の基礎が築かれた。ルターは中世とカトリックの礼拝(ミサ)に抗議(プロテスト)したのである。

 本からの引用。「洗礼を通して、万人が祭司となり、教会と社会において祭司の役割を引き受けることになるのである。こうしたことの結果として、礼拝には非常に大きな変化がもたらされた。信徒はもはや単に受け身の参加者として礼拝に出るのではなく、ルターの見解における教会と救いの道筋に関わる本質的な構成要素として祭司の役割を果たすために礼拝に参加することになった。このことを実現するためには、礼拝に参加しやすい新しい方法を通じて人々が積極的に行為することによって、信徒が礼拝における祭司の働きを果たし得るようにする必要があった。音楽はそれによってすべての人々が祭司としての職務を担うことを可能にする方法の一つであり、ルター派の礼拝は本質的に音楽的な礼拝となっていった。自国語の使用は会衆が共に祈ることを可能にし、またすべての信徒が一体となって聞き、語ることを可能にした。ルターは、「キリスト者の共同体は神の言葉の説き明かしや祈ることなしに共に集ってはならない」とはっきりと述べている。」

 「ルターは可視的な形式や組織を全く必要としない「言葉と行ないで福音を告白する」ような最も熱意あふれる信仰行為に満ちたキリスト者のために、「真の福音主義的な礼拝順序」といったものを夢見ていた。」

 ルターは、このような観点から洗礼や聖餐も改革していった。しかし、ルターがそれにもまして改革したのは説教であった。礼拝の中心に神の言葉である聖書の説教を中心に据えたのである。


 さて次に著者はルター派の礼拝の発展について書いている。四つの期間に分けている(互いに重なり合っている時期がある)。本文からの抜粋である。

 1.ルター派正統主義(1550年~1700年)
   この時代はルターの死後に続く時代である。ルター派の改革が広まるにつれて、会衆が使用するための基準と形式を整えた新しい礼拝順序が作られるようになっていった。

 2.敬虔主義(1650年~1800年)
   この時代は、正統主義的な型にはまった教会生活を解放し、人格的なぬくもりを持った信仰の中により、深い本質を見出そうとする試みが行われた時代であった。すなわち小グループに力が注がれた。

 3.啓蒙主義(1700年~1800年)
  啓蒙主義の時代はルター派の礼拝に大きな変化をもたらした。、、、道徳というものが啓蒙主義における特徴的な説教主題となり、宗教は基本的に人間社会の改善のための道具と見なされるようになった。礼拝は超自然的な出来事を期待するものではなく、そのすべてがほとんど道徳教育の手段のようなものとなったのである。、、、、啓蒙主義は礼拝における第二革命というべきものであり、おそらくそれはルターの働きが中世の礼拝を独自の形で「再サクラメント化」することに果たしたのに匹敵するほどの重要な役割を、礼拝の「非サクラメント化」において果たしたのであった。

 4.復古主義(1800年~1950年)
  啓蒙主義が過去のルター主義との徹底的な断絶を生み出したとすれば、1800年からの時期は復古主義が大きな働きを成し遂げた時代でったといえよう。


 著者は最後にルター派礼拝の現在の特徴について述べている。
 本からの引用。「20世紀半ばから、世界のあらゆる地域においてルター派の礼拝に大きな変化が生じた。そうした変化は本質的にルター主義を超えた新しいエキュメニカルな時代への移行を意味するものであった。、、、、アメリカにおけるルター派の礼拝の根本的な変化は、おそらく何にもまして信徒そのものの変化にあったように思われる。ルター派の諸教会はかつての民族的文化的な独自性を失っていった。、、、、概して言えば、新しい礼拝書は、ルター派の礼拝の復古という方向から、他のプロテスタントの諸教派においてますます一般的になりつつある多くの事柄、すなわち共通聖書日課の採用や聖餐のより頻繁な実践を受容する方向へ移行しようとしているように思われる。」



 先月ルター派の教会の礼拝に出席した。日本では始めての参加だったと思う。今までは日曜日は自分が牧会していた教会で説教をしていたので、当然他の教会の礼拝に出席することはほとんどなかった。でも今は開拓準備で自分が属している教会がないので、いろいろな教会の礼拝に出席し勉強している。すなわち、あるべき礼拝の形を模索している。今までは小樽の教会の礼拝に出席していたが、これからは札幌にも足をのばしたいと思っている。

 私が出席したルター派の礼拝であるが、確かに礼拝式分に則って、礼拝が進んでいった。良い点は、会衆が今何をやっているのかが明確に分かる点にあると思う。これは優れている方法だと感じた。私たちの教会はどちらかというと自由な形式でやっていたので(もちろんある程度の形はある)、教えられる点があった。ただこれも気をつけないと儀式的になってしまうおそれがある。礼拝プログラムをこなすことにせいいっぱいになり、プログラムをこなすことで満足してしまう危険である。そうすると本当に大事なものを失ってしまうであろう。
 私はこのルター派の教会で一番違和感を感じたのは、礼拝が非常にカトリック的であったということである。カトリックの礼拝を抗議(プロテスト)したはずのルター派が儀式を重んじ、説教がそれほどには強調されていないように感じた。ルターは天国でこのルター派の礼拝をどのように見ているだろうか。ルターの宗教改革からもうすぐ500年が経とうとしているのでこのような変化は当たり前なのかもしれないが。