牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

5月23日(木) 「渡辺善太全集6<聖書論> ④」 渡辺善太著

2013-05-23 06:31:17 | 日記

 著者は宗教改革者の聖書正典観について述べた後、その後に現われてきたプロテスタント信条の聖書正典観について書いている。そして聖書正典論の基準を定めようとしている。

 本からの引用。「聖書の示しているそれ自身の姿を見、宗教改革者の聖書正典観を見、そしてプロテスタント信条に現われた聖書正典観を見て、ここに初めて聖書正典観に対する基準を得ることができる。今や我々はこの三点よりの結論を総合して、この基準のいかなるものであるべきかを見なければならない。、、、、以上の三点よりの結論として、聖書は文献にして正典であり、正典にして文献である、という命題を再び繰り返さなければならない。この結論は結論としてそのまま受け取らなければならないが、しかし、この結論はこのままではその含む意義が明らかにせられない。すなわちこの結論が含んでいる「文献」という語と、「正典」という語とは、全く相矛盾し、相反する内容を持つ語であって、同平面上のいて静かに「しかり」と受け取られ得ない背反的性格を持つ語である。「文献」とは、言うまでもなく人間の文字と、言語と、表現とを持って記された人間的文書の意義であって、それはその限りにおいて、他のすべての人間的古文書と何ら変わることなき性格を持つものである。しかるに「正典」とは、全く神的決定による神的基準として教会に与えられたもので、人間の造り得たものでもなく、人間がいかんともなし得ざる神的所与である。したがって文献であるということは正典であるということを否定し、正典であるということは文献であるということを否定し、そのいずれかであれば他ではあり得ない、という意味において、この両性格は同一次元においては共立し得ない性格である。しかるにそれ「にもかかわらず」この両性格が聖書において、一つの全体をなす一冊の書物の性格として共存するというのである。」

 「聖書の「文献性、正典性」の両極性を、緊張的に把握するとは、一言に言えば理解者は常に「聖書は文献である」という認識に常に立つと共に、「聖書は正典である」という認識に常に立ち、その二つの認識が常に否定し合う鋭さを持って、彼のうちにその二つの認識が相対時しなくてはならない。」

 この聖書の両極性は、ちょうどイエス・キリストの両極性と似ていると言える。すなわち一般的には受け取るのが難しい「イエスは100%人間であり、100%神である」というイエス・キリストの人間性と神性である。しかし、イエス・キリストという一人の人物においてこの両面が共存しているのである。


 この項目の最後でこのようにまとめている。「叙上の論述は、与えられたる聖書正典観に対する批判的基準を私たちに示している。すなわち正しき聖書正典観であらんがためには、第一に、聖書が一つの文献であるという認識がなければならないことで、第二に聖書が正典であるという認識がなければならないことで、第三に、第一との当然の関連として、聖書結集が人間の集団としてのキリスト教会による、一つの人間的歴史的行為の結果であるという認識がなければならないということで、第四に、第二との連関として、聖書結集が教会の人間的歴史的行為の結果であるにもかかわらず、その人間的行為のいっさいをこえて聖霊による神の指導がそこにあったという認識を持たなければならないことで、第五に、以上すべての点の帰結として、そこには文献性の認識と正典性の認識との相互否定が鋭く表されていなければならないことである。ことにこの第五の点は重要であって、この点が鋭く表現されているかいないかによって、先行するすべての条件が、満たされるか満たされないかが決定せられることになる。」