牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

5月25日(土) ビニールハウスを作る

2013-05-25 22:09:19 | 日記

 ゴールデンウィーク明けから農作業(トラクターで畑を耕したり、マルチを張ったり、種を蒔いたり、苗を定植したり)を毎日のようにしているが(日曜日は安息日なので最小限のことはするがほとんど仕事をしないで教会へ行き礼拝を捧げている)、昨日と今日はビニールハウスの骨組みを作った(残っている作業はほぼビニールをかけるだけ)。比較的上手にできて良かった。ひと安心である。納屋としてカボチャの保存に使うのがメインだが、せっかくなのでここで直売用のナスも栽培する予定である。
 

5月24日(金) 「渡辺善太全集6<聖書論> ⑤」 渡辺善太著

2013-05-24 06:05:52 | 日記

 著者は次にプロテスタント神学史に現われた聖書正典観(4つの類型)について概説し批判している。

 1.正統主義神学の聖書正典観
  
 彼らの正典観は、聖書正典中の諸書が、それぞれその記された時において、聖霊の直接的霊感によって記されたものであり、その意味においてそれぞれの著者は、聖霊またはキリストの「書記」であり、「手」であり、「筆」であるとされ、それぞれの著作における一切の人間的なるものの参与を否定する立場である。正しいように感じるが、これでは聖書を記したそれぞれの著者の人間性や個性、また文献性が失われてしまう。

 
 2.自由主義神学の聖書正典観
   
 彼らの聖書正典観は、聖書正典の自然的結集観に立ち、聖書正典を人間の集団としての、キリスト教会によって結集された、全く人為的歴史的に生み出されたものと見て、その背後に何ら神的なるもの(聖霊)の直接指導のあったことを認めない立場である。


 3.中庸主義神学の聖書正典観

   彼らの聖書正典観は、その名の通り、正統主義神学と自由主義神学の中間を取り、個人的信仰において正典中の一部分を自己の正典(神の言葉)として受け取るという立場である。すなわち、この立場は教会の正典結集という歴史的事実における聖霊の直接指導を否定しているのである。いわば個人主義的、主観的神学と言えよう。


 4.弁証法神学の聖書正典観

   彼らの聖書正典観は、「聖書が神言で<ある>のは、それが聖霊によって神言に<なる>のである」と主張する立場である。ということは、今現在、聖書は神言でない、とも言えるのである。これは未来型というか、やはりこれも個人的、主観的と言えるだろう。


 まとめるとこのようになる。正統主義神学は「聖書は神言である」と一方的に神言性だけを主張し、自由主義神学は「聖書は人言である」と一方的に人言性だけを主張し、中庸主義神学は前者2つの中間を取り「聖書は神言を含む(聖書の一部分は神言であり、聖書の一部分は人言である)」とし、弁証法神学は「聖書は神言となる」と主張している。

 私は、聖書66巻は霊感された神の言葉で100%あるが、同時に聖書を書いた著者(人間)たちの個性や人間性が失われない人間の言葉であることも信じている。これが私の聖書正典観である。聖書は神の言葉を含むとか聖書は神の言葉になるという考えには同意できない。これはイエス・キリストの両極性と似ている。イエス・キリストは100%神であり、100%人間である。イエス・キリストは神性を含むのではない、イエス・キリストは神なのである。イエス・キリストは神になるのではない、イエス・キリストは神なのである。
 

5月23日(木) 「渡辺善太全集6<聖書論> ④」 渡辺善太著

2013-05-23 06:31:17 | 日記

 著者は宗教改革者の聖書正典観について述べた後、その後に現われてきたプロテスタント信条の聖書正典観について書いている。そして聖書正典論の基準を定めようとしている。

 本からの引用。「聖書の示しているそれ自身の姿を見、宗教改革者の聖書正典観を見、そしてプロテスタント信条に現われた聖書正典観を見て、ここに初めて聖書正典観に対する基準を得ることができる。今や我々はこの三点よりの結論を総合して、この基準のいかなるものであるべきかを見なければならない。、、、、以上の三点よりの結論として、聖書は文献にして正典であり、正典にして文献である、という命題を再び繰り返さなければならない。この結論は結論としてそのまま受け取らなければならないが、しかし、この結論はこのままではその含む意義が明らかにせられない。すなわちこの結論が含んでいる「文献」という語と、「正典」という語とは、全く相矛盾し、相反する内容を持つ語であって、同平面上のいて静かに「しかり」と受け取られ得ない背反的性格を持つ語である。「文献」とは、言うまでもなく人間の文字と、言語と、表現とを持って記された人間的文書の意義であって、それはその限りにおいて、他のすべての人間的古文書と何ら変わることなき性格を持つものである。しかるに「正典」とは、全く神的決定による神的基準として教会に与えられたもので、人間の造り得たものでもなく、人間がいかんともなし得ざる神的所与である。したがって文献であるということは正典であるということを否定し、正典であるということは文献であるということを否定し、そのいずれかであれば他ではあり得ない、という意味において、この両性格は同一次元においては共立し得ない性格である。しかるにそれ「にもかかわらず」この両性格が聖書において、一つの全体をなす一冊の書物の性格として共存するというのである。」

 「聖書の「文献性、正典性」の両極性を、緊張的に把握するとは、一言に言えば理解者は常に「聖書は文献である」という認識に常に立つと共に、「聖書は正典である」という認識に常に立ち、その二つの認識が常に否定し合う鋭さを持って、彼のうちにその二つの認識が相対時しなくてはならない。」

 この聖書の両極性は、ちょうどイエス・キリストの両極性と似ていると言える。すなわち一般的には受け取るのが難しい「イエスは100%人間であり、100%神である」というイエス・キリストの人間性と神性である。しかし、イエス・キリストという一人の人物においてこの両面が共存しているのである。


 この項目の最後でこのようにまとめている。「叙上の論述は、与えられたる聖書正典観に対する批判的基準を私たちに示している。すなわち正しき聖書正典観であらんがためには、第一に、聖書が一つの文献であるという認識がなければならないことで、第二に聖書が正典であるという認識がなければならないことで、第三に、第一との当然の関連として、聖書結集が人間の集団としてのキリスト教会による、一つの人間的歴史的行為の結果であるという認識がなければならないということで、第四に、第二との連関として、聖書結集が教会の人間的歴史的行為の結果であるにもかかわらず、その人間的行為のいっさいをこえて聖霊による神の指導がそこにあったという認識を持たなければならないことで、第五に、以上すべての点の帰結として、そこには文献性の認識と正典性の認識との相互否定が鋭く表されていなければならないことである。ことにこの第五の点は重要であって、この点が鋭く表現されているかいないかによって、先行するすべての条件が、満たされるか満たされないかが決定せられることになる。」

5月22日(水) 「渡辺善太全集6<聖書論> ③」 渡辺善太著

2013-05-22 07:22:46 | 日記

 著者は聖書正典について宗教改革者たち(ルターとカルヴァン)の聖書正典観について述べている。

 本からの引用。「カルヴァンは聖書正典の定義について明白に記しているのみでなく、その権威の根拠について極めて明瞭にかつ力強く教えている。すなわち一言で言えば、聖書正典の権威は「聖霊の内的証示」においてのみその根拠を持つと主張している。彼のこの主張においては、今日いうところの歴史的証明と神学的証明とが明らかに区別せられている。彼は言う、そこには非常に大きい「迷誤」が一般に行き渡ってきた。すなわち聖書は教会によって正典として認容せられる限りにおいてのみ意義がある、という聖書に対する侮辱にしてかつ冒涜なる考え方がそれである。この考えによると、聖書が神からいでたものだと我々に信ぜしめるもの、それが安全にかつ毀損されずに我々の時代まで伝えられたと確証するもの、この書がその中に含むべき書物について、ある書物はこれに含まれるべく、ある書物は排除せらるべきものだと決定すべきもの、そのすべては教会である、とせられる。これこそ実に恐るべき、教会の名のもとに行なわれる無制限的専制である。かくのごとくすれば、永遠の生命に関する保証を人間の判断に置くことになり、良心は実に悲惨なる状態に置かれることになる。」

 「このルター、カルヴァンの聖書正典観において、私たちは明らかに「正典性」と「文献性」との区別とその不可分離なることとを学ばせられる。ルターにおける周知の表現たる「言葉と書」が示すこの両性の区別と不可分離なることとは、カルヴァンにおいて更に明瞭に表現せられた。前述の「理性の耐える限りにおいて、充分堅固に聖書に対する信仰が証明する事が出来ない訳ではない」という彼の言葉こそ、実に聖書のこの文献性の認識を示すものであり、文献性が与えうる限りの最大限のものを指示した言葉である。しかしそれにも関わらず、彼が聖書の内的証示を語っているのは、そこに正典性が明確に信奉せられているからであることは言うまでもない。この意味において私たちは宗教改革者の正典観として、「御言葉と聖書」の関係のみならず、「文献と正典」の結びつきを明らかに学ばせられるのである。」


 聖書は本であり文字で書かれているので、文献であるのは事実である。しかし信仰的な書物であるのも事実である。それが歴史的証明と神学的証明の区別と融合が必要な理由と言えよう。教会が選んだから「正典」になったのではない。神の言葉だから「正典」になったのだ。それを証明しているのは特別な聖霊の働きである。旧約の預言者が語った預言の言葉、神の子であるイエス・キリストが語った言葉、キリストに選ばれた弟子たちが書いた聖霊に導かれた言葉など、これらが霊感された言葉である。しかし、聖書にまとめる時に、様々な書が混在していた。そこで教会会議が開かれ、教会の指導者たちが聖霊の導きに従って「正典」を確認して聖書に入れ、「正典」でないものを聖書に入れなかった、ということだ。現在の聖書正典としての聖書66巻はすべて特別な聖霊の導きのもとに書かれたものである。今、我々が感じ言う聖霊の導きとはわけが違う。この点で特にペンテコステ派は気を付けなければならない。聖霊の導きという時、それは使徒たちと同じレベルでの聖霊の導きと理解してはいけない(同じ聖霊ではある)。もしそうであれば彼らの語る「預言」が聖書と同じレベルに引き上げられる可能性(危険性)がある。私は預言(予言ではない)を信じているが、決して聖書と同じレベルでの「預言」ではない。聖書には決定的で特別な聖霊の内的証示があるのである。これを抜きにして聖書正典論を語ることはできない。

5月21日(火) 「渡辺善太全集6(聖書論) ②」 渡辺善太著 

2013-05-21 06:22:31 | 日記

 本書の主題は「聖書論」である。この聖書論は3つに分けられている。聖書正典論、聖書解釈論、聖書神学論の3つである。さて今日から聖書正典論を読み始めた。正典(カノン)とは、一言で言えば、どの書が霊感を受けた神の言葉で、どの書が人間の言葉に過ぎないかを判断した結果、権威ある神の言葉として残り選ばれた書のことを言う。プロテスタント教会の聖書正典は66巻(旧約39巻、新約27巻)である。正典以外に外典(カトリック教会はこれを認めている面がある)や偽典がある。

 本からの引用。「聖書的基準的聖書正典観とは、聖書正典を自動的に決定せられたものでありながら、しかも他動的に決定せられたものであり、その文献性を正典性と緊張関係にあるものとして把握する立場をいう。他動的に決定せられたるものとするとは、正典決定がその結集史の示すごとく、キリスト教の自動的決定によるものであることはもちろんのこととするが、しかもそれは単なる外面的歴史的決定であって、内面的信仰的にはいっさいの人為的決定を超えて、聖霊ご自身がこれを導き、これを決定せしめたものである、ということの確認を意味する。」


 どの書が正典に入るかは教会会議で決められたと言えるので、その意味で自動的であるということであろう。しかし、その教会会議(出席していた教会教父たち)に聖霊ご自身が働き、人間たちではなく聖霊が正典を導いたという意味で他動的であるということであろう。私は著者の主張に賛成である。