著者は次にプロテスタント神学史に現われた聖書正典観(4つの類型)について概説し批判している。
1.正統主義神学の聖書正典観
彼らの正典観は、聖書正典中の諸書が、それぞれその記された時において、聖霊の直接的霊感によって記されたものであり、その意味においてそれぞれの著者は、聖霊またはキリストの「書記」であり、「手」であり、「筆」であるとされ、それぞれの著作における一切の人間的なるものの参与を否定する立場である。正しいように感じるが、これでは聖書を記したそれぞれの著者の人間性や個性、また文献性が失われてしまう。
2.自由主義神学の聖書正典観
彼らの聖書正典観は、聖書正典の自然的結集観に立ち、聖書正典を人間の集団としての、キリスト教会によって結集された、全く人為的歴史的に生み出されたものと見て、その背後に何ら神的なるもの(聖霊)の直接指導のあったことを認めない立場である。
3.中庸主義神学の聖書正典観
彼らの聖書正典観は、その名の通り、正統主義神学と自由主義神学の中間を取り、個人的信仰において正典中の一部分を自己の正典(神の言葉)として受け取るという立場である。すなわち、この立場は教会の正典結集という歴史的事実における聖霊の直接指導を否定しているのである。いわば個人主義的、主観的神学と言えよう。
4.弁証法神学の聖書正典観
彼らの聖書正典観は、「聖書が神言で<ある>のは、それが聖霊によって神言に<なる>のである」と主張する立場である。ということは、今現在、聖書は神言でない、とも言えるのである。これは未来型というか、やはりこれも個人的、主観的と言えるだろう。
まとめるとこのようになる。正統主義神学は「聖書は神言である」と一方的に神言性だけを主張し、自由主義神学は「聖書は人言である」と一方的に人言性だけを主張し、中庸主義神学は前者2つの中間を取り「聖書は神言を含む(聖書の一部分は神言であり、聖書の一部分は人言である)」とし、弁証法神学は「聖書は神言となる」と主張している。
私は、聖書66巻は霊感された神の言葉で100%あるが、同時に聖書を書いた著者(人間)たちの個性や人間性が失われない人間の言葉であることも信じている。これが私の聖書正典観である。聖書は神の言葉を含むとか聖書は神の言葉になるという考えには同意できない。これはイエス・キリストの両極性と似ている。イエス・キリストは100%神であり、100%人間である。イエス・キリストは神性を含むのではない、イエス・キリストは神なのである。イエス・キリストは神になるのではない、イエス・キリストは神なのである。