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私はシャルリ

2015-01-19 14:05:14 | 国際・政治
>フランスの風刺週刊誌襲撃などの一連のテロ事件を受け、同国では370万人もが参加するデモが展開され、各国首脳50人あまりが参加した。エルサレム、ウィーン、ワシントンなど世界各国でテロに抗議する集会などが開かれた。折しもゴールデン・グローブ賞がロスで開かれ、ハリウッドスターが結集したが、特別功労賞を受賞したジョージ・クルー二は「私はシャルリ」と記されたバッジを胸につけ、「今日は特別な日だ」と述べ、パリでおこなわれたデモについて「彼らは抗議のためではなく、恐怖に屈しないという考えを支持するため行進した」と語った。(引用終り)

一方では歓喜し、他方では号泣しているありさまは、世の中の常である。それは、個人により考えの違いから起こることである。あちらを立てれば、こちらが立たず。困ったものである。もの言えば、唇寒し 秋の風。だが、個人的な考えの違いを種にして、相手にテロを仕掛けることはあってはならないことである。そうでなければ、個人的な考えの違いを育成し、それを表明することが妨げられるからである。意見を述べ、議論をしなければ、矛盾は淘汰できない。我々は、過去の闇の中に生きている。遠慮はいらない。言論の自由をまもれ。これは個人主義の真髄である。

わが国でも、長崎の本島市長は、昭和63年市議会での答弁で「天皇の戦争責任はあると私は思います」(議事録)と発言し、平成2年右翼に銃撃され重傷を負った。この時、我が国の指導者たちは、この事件を何と考えたか。 '雉も鳴かずば打たれまい' と風習に従って考えたか、それとも '我々は、決してテロの屈してはいけない' と考えたか。我が国はメンタリティにおいて、欧米とは一線を画す。欧米に友なし。アジアに友なし。我が国は哀しからずや、空の青、海の青にも染まず漂う。

我が国は、国際テロリストに対して、これまでに対決姿勢をとって来なかった。自分にテロを仕掛けられた時にさえ、悪に対しても、我が国は無害であるとの言い訳に専念している。テロをこの地上から根絶する信念と努力が見られない。悪に対しても、対決姿勢を示すことなく、相手に和を求める。守護神を持つことなく説教を垂れる人のようである。その説教も空念仏に終わるか。意思のあるところに、方法はある。だから我が国は、テロ撲滅の意思と方策す必要がある。いよいよ国際社会に仲間入りするか。

日本人には世界観が無い。だから、構想はグローバルにも、ユニバーサルにもならない。
自分の住みたい世の中は、自分またはその関係者さえよければといったものになる。小人の考えることか。
だから、我々は、国際社会に出ることが難しい。世界の人を救うために、この国から船出することがない。







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