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適菜収氏・小林秀雄 1/2

2018-11-20 01:58:43 | 国際・政治


>適菜収氏は、小林秀雄は歴史を「生身の人間のいるところ」と捉え、後から歴史を裁断する人間の傲慢さに憤ったという。>『小林秀雄の警告 近代はなぜ暴走したのか?』から小林が歴史を見る目とは何かをご紹介しよう。
>人間のいないところに歴史はない

そうですね。歴史は、個人の考えであります。個人の脳裏にある内容であります。人間のいないところには、個人もいません。だから、歴史も存在しないです。

>近代人は時間の経過とともに人類は進化してきたと考えるようになった。>学校の教科書には、一番左にアウストラロピテクスのイラストが、一番右にわれわれ現代人のイラストが描かれていたりします。>人類は古代から中世、近代へと一直線に進歩してきたという西欧中心のいわゆる進歩史観です。

そうですね。一直線の方が、同じところをぐるりぐるりと回っているよりも考えやすいですね。

>昔の人間よりも現在の人間のほうが、理性的で合理的で優れていると彼らは考える。>理性的で合理的な判断が「正解」にたどりつくなら、「正しい歴史」「歴史の目的」も存在することになる。>ドイツの哲学者ヘーゲルは、世界は弁証法的な運動の過程にあると考えた。>いろいろな矛盾や対立を発展解消していくうちに、理念が実現されるようになると。>歴史を弁証法的に捉えれば進歩史観になるが、小林はこうした発想自体を拒絶しました。

我々の日常生活においては、弁証法で事を処理しますけれどもね。歴史は別物ですかね。

>>私達は、歴史に悩んでいるよりも、寧(むし)ろ歴史工場の夥(おびただ)しい生産品に苦しめられているのではなかろうか。>>例えば、ヘーゲル工場で出来る部分品は、ヘーゲルという自動車を組立てる事が出来るだけだ。
>>而(しか)もこれを本当に走らせたのはヘーゲルという人間だけだ。>>そうはっきりした次第ならばよいが、この架空の車は、マルクスが乗れば、逆様(さかさま)でも走るのだ。──「蘇我馬子の墓」

各人に哲学は必要ですね。他人の考えを受け売りすれば、受け売りの人は大怪我をすることになるでしょう。

>ドイツ出身の哲学者マルクスは、ヘーゲルの弁証法を利用して、歴史科学なる概念をつくりあげた。

>>あらゆる歴史事実を、合理的な歴史の発展図式の諸項目としてしか考えられぬ、という様な考えが妄想でなくて一体何んでしょうか。

考えは、個人個人で違いますからね。正解はただ一つではない。個人の数だけある可能性もある。

>>例えば、歴史の弁証法的発展というめ笊(ざる)で、歴史の大海をしゃくって、万人が等しく承認する厳然たる歴史事実というだぼ沙魚(はぜ)を得ます。──「歴史と文学」

現実の内容はただ一つ。非現実 (考え) の内容は人の数だけある。万人が等しく承認する内容は、現実の方です。歴史は過去 (非現実) であり、現実ではない。万人の一致した体系は、妄想でしょう。

>ヘーゲルのような妄想の体系を打ち立てれば、歴史はどのようにでも解釈できる。>ヘーゲルは歴史上の一人物に過ぎず、歴史がヘーゲルのシステムのなかにあるのではないと小林は言う。

そうですね。各人に哲学は必要ですね。Everyone needs a philosophy.

>史観は歴史を考えるための手段であり道具にすぎない。

そうですね。史観は、自分が考えるための筋道ですね。他人に言って聞かせるためにも便利です。

>しかし、その手段や道具が精緻になるにつれ、当の歴史の様な顔をし出す。

それは、迷信というものでしょうね。

>人間は理性的で論理的で合理的だ。>そこが人間の弱さである。>だから簡単に理論に流される。

そうですね。人間は、理性的で論理的で合理的でないと、その内容が脳裏に収まらないようにできている。人間の弱さですか。

>よって、小林が言うように「人間のいないところに歴史はない」という常識を、常に努力して救い出さなければならない。

そうですね。人間がいなければ、個人もない。個人の考えもない。だから、歴史 (考え) もない。

>「史観」さえあれば歴史はいらないのか?
>近代啓蒙主義とは、理性や明示的なものを信仰し、説明不可能なものを「迷信」と斬り捨てる運動だった。

そうですね。’迷信’ という言葉は、負け惜しみをするときの捨て台詞でしたね。

>合理的な目的が存在するなら、それに従うことが「正義」となる。

矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。だから、正解は一つではない。矛盾のある文章も、その矛盾を取り除けば、正しい考えになる。だから、対話も必要ですね。

>その成れの果てに登場した「絶対的な知的自己決定」という発想が地獄を生み出したのは歴史を振り返れば明らかだ。

絶対的な妄想ですね。妄想地獄というべきでしょうか。

>>唯物史観に限らず、近代の合理主義史観は、期せずしてこの簡明な真理を忘れて了う傾きを持っている。

簡明な真理を忘れるのは、有頂天になっているからでしょう。

>>迂闊で忘れるのではない、言ってみれば実に巧みに忘れる術策を持っていると評したい。>>これは注意すべき事であります。>>史観は、いよいよ精緻(せいち)なものになる、どんなに驚くべき歴史事件も隈(くま)なく手入れの行きとどいた史観の網の目に捕えられて逃げる事は出来ない、逃げる心配はない。>>そういう事になると、史観さえあれば、本物の歴史は要らないと言った様な事になるのである。──「歴史と文学」

手段 (史観) の目的 (哲学) 化が起こりましたね。一つの史観が、各人各様の哲学を破壊しましたね。個人主義の消滅です。

>こうして近代人は歴史を見失った。

個人の考えを失ったということは、自己を見失ったということですね。

>歴史は「生きているもの」「動いているもの」である。>小林は自然科学のような実証主義が、歴史の命を殺してしまったと言う。

科学も歴史も、自己に都合の良い事実だけを組み合わせて考え (非現実) とするものですがね。人は、考え直すことができるから、科学も歴史も限りなく前進します。

>歴史とは諸事実を発見したり、証明したりといった退屈なものではない。
>歴史を考えるとは歴史に親身に交わることなのだと。

そうですね。各人に哲学は必要ですね。そうでなければ我々は、烏合の衆になります。


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