>産経新聞 >敗戦の「傷」黙して生きた海兵70期生434人、最後の一人記憶をつむぐ---戦後79-80年㊥ >8時間・
>「われわれはみんな、死に物狂いで戦った」
そうですね。相手を殺さなければ、自分が殺されますからね。
>対米英開戦直前の昭和16年11月、予定より半年早い2年11カ月の教育期間で海軍兵学校を繰り上げ卒業した第70期生。
>その一人、木村功(104)=徳島県=は、責務を貫いた同期たちの声を代弁する。
>短縮教育を終えた70期生434人(水交会調べ)は各戦場に投入された。
>自身も重巡洋艦「妙高」乗り組みを命じられる。
>開戦の知らせは艦内のラジオで聞いた。
>「なぜ米国と戦争しないとならんのかとの思いはあったが、アジアの植民地を解放するという意識はありましたね」
>翌17年1月4日、フィリピン南部、ルソン島のダバオに停泊中だった「妙高」の士官室で昼食中、空襲警報が鳴った。
>敵機による奇襲だった。
>上甲板に向かうと、いくつもの水柱が上がっていた。
>直後、後方から鋭い衝撃を受ける。
>艦への直撃弾だった。
>炸裂(さくれつ)した爆弾の破片が左足のふくらはぎを貫通していた。
>「診てくれた衛生兵が驚くくらい、出血がひどかったようです」
>同乗していた同期2人も死傷。
>木村たちは70期生で最初の戦死傷者となった。
>今も破片は残り、足は不自由なままだ。
>その後、国内で療養したが、戦場の人たちに申し訳ないとの思いが常にあった。
>「とにかく前線に出してほしい、それだけだった」
>「大和」の大きさに圧倒
>17年11月、世界最大の戦艦「大和」乗り組みを命じられる。
>想像以上の大きさに圧倒された。
>連合艦隊の旗艦だが、当時は前線に出撃せずトラック諸島(現ミクロネシア連邦チューク諸島)で訓練・整備の日々。
>たびたび作戦会議が開かれ、各艦の艦長が「大和」に集まる。
>海兵時代の席次で案内するのがしきたり。
日本人はどこでも序列作法ですね。
>「兵学校の何期か、何番で卒業したかなどを資料で調べ、乗艦する順番を門衛に伝えました」
>長官室の山本五十六のもとに毎日何十通もの電報を届けた。
>味方の苦戦や損害のほか、爆撃された飛行場をすぐに復旧させる米国の圧倒的な工業力を伝えるものもあった。
>長官はいつも不機嫌だった。
長官はアメリカ留学をしているので日米の格差を良く知っていた。それで、不機嫌になっていた。
マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。
‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)
マ元帥の発言はどの駐日大使よりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。
>「負けると分かっていたのでは」
>18年3月、航空巡洋艦「利根」乗り組みとなり、前線に出動。
>戦況が厳しさを増した19年10月、史上最大の作戦ともいわれるフィリピン・レイテ沖海戦に参加した。
>米軍の上陸を阻止すべく、レイテ湾に集結した敵機動部隊をおびき寄せるため日本側はおとり艦隊を使い、その間に主力艦隊が湾内に突入し、敵上陸部隊の船団を攻撃する大規模な作戦だった。
>「われわれは命がけだった」
>旗艦「愛宕」が撃沈され、戦艦「武蔵」も沈められる中、「利根」は攻撃を繰り返した。
>全速力で航行するたび、艦がミシッ、ミシッときしむ。
>周囲では、傾く艦から飛び込む敵味方双方の兵の姿が見えた。
>想定通り、敵主力部隊はおとり艦隊を追走。
>ところが、艦隊司令長官の栗田健男はレイテ湾を目前にして作戦を打ち切った。
>「われわれは攻めている感覚で、『利根』から(旗艦となった)『大和』に『攻撃に行くべきだ』との信号を出した。
>レイテに突入すべきでしたし、長官は弱い人だと思った」。
>最終的に、日本海軍は壊滅的な被害を受けて敗走する。
>この作戦に合わせ、海軍は神風特別攻撃隊を編成した。
これは自爆攻撃の始まりですね。日本以外では自爆攻撃ははやりませんね。
>10月25日、「特攻第一号」で戦死したのは、海兵70期の関行男。
>同期は軍神となった。
>「戦死の報は目に留まりました。
>ただ同時に、われわれはみんな命がけだったので、彼だけ特別という思いはなかった」
‘貴さまと俺とは同期の桜’ ですね。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
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