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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

松原治吉郎氏  

2024-08-19 09:02:59 | 文化

>産経新聞   >失敗は「恥」現場の意見顧みず盲進した日本軍 現代に通じる教訓   >2時間・   

>「『この方針は無理だ』との思いを共有し、皆がやめたいと思っていても、言い出せない。   

>今の時代、私たちにも思い当たることはありませんか」。   

>防衛省防衛研究所の松原治吉郎主任研究官はこう問題提起する。   

>「失敗から学ぶべきことは多いが、日本軍は失敗を『恥』ととらえて隠蔽した。   

>国家の存亡がかかるとき、どこかで原因を考える必要があった」   

 

そうですね。   

 

>米海兵隊は「失敗したら修正する」をモットーにしている。   

>プランAがだめなら、Bで行くという柔軟性を示している。   

>日本軍の場合、いったん決めたことは修正や変更がきかず、抜き差しならない事態まで突き進む傾向が強かった。   

 

<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り   

 

>「戦略面でまとまった方向を示す人がおらず、結局は『玉虫色』で決着した。   

 

日本人には意思が無い。意思の無い人間には責任がない。兎角この世は無責任。   

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )    

 

>上層部の現場軽視から、思い付きともとれる作戦も発動された」   

 

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。   

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )  

マ元帥の発言はどの駐日大使よりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。 

 

>意見する人が皆無だったわけではない。   

>ガダルカナル島の戦いでは、十分な補給がない中での作戦発動は控えるべきだと陸軍第17軍参謀長が進言。   

>無謀な作戦の代名詞とされるインパール作戦でも第15軍参謀長らが中止を求めたが、いずれも顧みられなかった。   

>「組織からみれば(意見する人は)ルールを守らない人。   

 

上意下達が信仰の対象でしたね。残念なことに上意とは上の者の意思ではなくて、恣意の事であった。恣意には意味がない。責任も無い。              

 

>『やる気がない』とみられ、『空気が読めない』存在として左遷された」   

 

上の者の恣意 (私意・我儘・身勝手) ’ は万能でしたね。序列メンタリィティの弊害ですね。     

 

>貴重な人材を有効活用していたとも言い難い。   

>松原氏は航空機の搭乗員養成を例に「野球でいえば日本は4番バッターやエース級に頼り切り、裾野が広がらない欠点があった。   

>一方、米軍は合格点に達すればよいと考え、平均的な搭乗員を量産した」と指摘する。   

>「日本軍の問題点は、今のわれわれが抱える問題と通底している」。   

 

日本人は変わらない。   

 

>松原氏は「過去にふたをするのではなく、現代に生かす。   

 

そうですね。温故知新ですね。   

 

>今に照らし合わせて客観的に検証することが必要だ」と話した。   

 

あっけらかんとした世界の中で、ドライに割り切るセンス (判断力) が必要ですね。  

 

>(池田祥子)   

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。     

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。能率の良い言語の習得には音読が欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。         

 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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