>・現在の大学4年生は入学に関して厳しい競争環境に晒されていない推薦やAO入試組が約半数。人生で初めての競争に巻き込まれて、その結果の格差で複雑な感情を抱いた人も多い・仕事に関係ないことや、哲学的に思える質問を面接でされ、想定外の質問だったので回答準備がなく「特にありません」と回答すると、次の選考に進めず不本意だった。
無哲学・能天気の日本人に哲学的質問をすれば、無回答になるでしょうね。
>と、初めての競争でかつ、何を評価されているのか良く分からない状況が感じられる。要するに企業がどんな人材を求めているのか?と云う事の把握と、それまでの生き方がマッチしていないと永遠に就職なんて出来ないことになる。
だから、職人となって細工物を作っている。これは我が国の伝統です。
>本文を読み進めると、企業は想定外の質問でも自ら考え言葉にする「主体性」を見ているという。他方、大学側も、中央教育審議会(大学分科会)の中心テーマに「大学生の主体的学び」を掲げているように、主体性は企業が求める重要な資質であることを認識している。
日本人には、意思がない。だから、主体性はない。意思は未来時制の文章内容であり、日本語には、時制が無い。だから、日本人には、自己の意思を表す文章ができない。
> キーワードは「主体性」という事が、大学、企業共通の認識なのだが、マダマダ、教員が知識・技術を教える従来型の講義形式の授業が多いほうがよいとする学生の割合が83.3%と圧倒的に高い(ベネッセ調べ)。受け身の勉強スタイルが強まってきている。そのような、受け身のまま採用試験を受けたなら、企業側に採用される訳がないということのようだ。
意思があれば、能動的な態度が取れる。意思が無ければ、受動的になるしかない。
> 暗記力で偏差値の高い大学に入れたとしても、社会では役に立たない人がいるのは、社会では、答えのない問題に対して答えを出してゆかなければならない現実があり、暗記力では太刀打ちできない=大学のブランドが意味がなくなってしまったということなのだろう。
答えがあって、それを暗記する。答えが無ければ、暗記もできない。だから、先生に教えを乞うのである。
>そういう風に企業は認識しているから、採用活動の方法も変わってきていることを認識しなければならない。
無哲学・能天気ではいられない。考える人が必要ですね。
>すでに社会人となってやっている中では、「大学生の主体的学び」が必要と言われて来ているが、答えを作っていく社会人には「社会人の主体的学び」が本当に必要なのだと感じた。
同感です。
日本語は、現実描写の言葉である。実況放送・現状報告の内容を伝えるための言葉である。内容は、没個性である。
哲学の内容は、非現実である。非現実の内容は、個人個人で異なっている。だから、個性的である。
非現実の内容を述べるには、時制が必要である。日本語には時制が無いので、非現実の内容を表す文章ができない。
だから、非現実に関する発言には意味もなく、矛盾すらない。空想・妄想の類となり、雑念となり見捨てられている。
時制があれば、非現実の内容は、文章になる。文章があれば、意味もある。矛盾があれば、それを取り除くこともできる。
かくして、矛盾のない文章は、どれも正しい。個人の数だけ存在する。いや、それ以上のこともあり、それ以下のこともない。だから、個人的に哲学的な質問することには意義がある。
英語には時制がある。だから、英米の高等教育には哲学がある。日本人の敬遠する海外留学である。帰国してから、無哲学・能天気の社会には役に立たない勉強である。
現実の内容を現実に再現すれば、それは模倣となる。
非現実の内容を現実に実現すれば、それは創造である。人類の持つ固有の知力を示したことになる。
特亜三国 (日本・韓国・中国) の言語には時制が無く、民には哲学が無い。模倣が得意で、創造が苦手である。だから、模倣の争いは、その分激しい。現実に埋没した没個性の戦いは、北東アジアの不安定要因となっている。
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