>この背景には、学校が担っている役割の違いもありそうだ。 >ドイツの学校は知識を授ける教育機関という色合いが強い。 >だから先生たちも自分の授業が終わればさっと帰ってしまう。 >もちろん先生たちは家でも採点や授業の準備、研究など仕事をしている。 >しかし誰か管理しているわけでもない。
学校は知識を授ける教育機関ですね。序列形成の為の機関ではありませんね。
>それに対して、日本の学校の先生たちはソーシャルワーカーのような役割までこなしている。 >たとえばドラマ「金八先生」などでも、生徒が問題を起こして警察に保護されると、なぜか金八先生がやってくる。 >しかし、法律でいえば未成年の責任は両親にある。 >先生や学校は無関係のはずだ。
日本人は・奥ゆかしい(深い考えがあるようにみえる)。実は、奥 (考え) がない。だから、浅薄である。日本人は、無哲学・能天気である。
政治家にも、政治哲学がない人が多い。我々の未来社会の有様を大衆に言って聞かせる術がない。だから、序列人間は人間の序列を作る。上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自己の存在を確認している。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことにより仕事にやりがいを感じている。周囲の序列人間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。
わが国は、人手不足はあっても、頭脳不足の無い国である。人間に頭を使う習慣のないのは、大きな損失である。特に、我が国のような資源小国においては特にそうである。
>同様のことが大学生にまで適用される。>以前、海外の観光地で日本の大学生が歴史的な記念碑に落書きをしたことから、大学の副学長が謝罪に出向くといったことがあった。 >普通に考えるならば、学生が成人であれば本人、未成年なら親の責任だ。 >なぜ大学が責任を感じるのか、ここが不思議だ。
日本人は序列社会の序列人間だからでしょう。大学生も大学序列の一員です。これを見捨てていられようか。
>中略
>基本的な設計からいえば、授業以外は自分の自由な時間であり、自己決定で何をするかを決める。 >スポーツがしたければ、NPOのような非営利組織として運営されるスポーツクラブに加入するのが一般的だ。
>ドイツは学校が唯一の世界にならない。 >極端な言い方ではあるが「学校も個人が参加するコミュニティのひとつ」と考えるとよいかもしれない。
日本人には個人主義がない。だから、個人の自由も理解されていない。
日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。
' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)
>職住近接・短時間労働の大人も同じ。 >そしてここには子供だけでなく大人まで加入している。 >つまりスポーツクラブは「学校内のクラブ」ではなく、「社会全体のクラブ」なのだ。 >この観点からいえば、日本の中高の最終学年で部活の「引退」という言葉はとても不思議な感じがする。 >スポーツクラブは歴史も古く、数も全国で約9万ある。 >競技もサッカーから水泳、空手、フェンシング、体操などかなり選択肢がある。
個人主義の理解があれば、自己実現も可能になりますね。
>単独の競技を扱うクラブもあるが、複数の種目を扱う「総合型スポーツクラブ」も多い。>また、健康や余暇が目的の人から、試合で頑張りたい人など、スポーツの「目的」も幅広い。 >ちなみに筆者が住む11万人の町でも約100のクラブがある。 >最大最古のクラブになるとメンバーが7000人近くおり、競技も26種目扱う。 >設立は1848年だ。
設立は徳川時代ですね。
>人間関係を見ると、歴史的にスポーツクラブは「スポーツを共にする仲間」として平等性を追求。
そうですね。’お前と俺’ の社会 (横社会) ですね。
.
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます