>絵本作家の五味太郎氏が学校教育の感想文は間違っていると批判した。>大人が求める都合のいい正解を子供に強要してしまうという主張だ。
そういうことになりますね。
>(略) 内容を簡潔にまとめておく。 >(1)雨が降ってお母さんたちが傘を届けに来てくれる。 >私のお母さんは仕事で来られない。 >私は『お母さんが頑張っているんだから私も頑張ろう』と思って友だちの傘に入れてもらって帰りました。
よくあることですね。
>(2)これはテスト教材にあった文章だ。>問題は「この文章を読んで50字以内で感想文を書きなさい」 >(3)ある生徒は「別に。」とだけ書いた。 >(4)教材についていた模範解答は「我慢したことに感動した」とか「優しい友だちに感動した」とかで五味太郎氏は「大人用の答えを模索している。 >気持ち悪い」と思った。
単なる印象 (impression) を述べる目的の感想文ではない。模範解答にあるように‘上とみるか・下とみるか’ の答えを誘導するような要求ですからね。気持ちが悪い。
>感想文といえば何を書いていいか分からず非常に苦労したという思い出を語る人が多い。
感想文は、自己の印象を書くのではなく、自己の上下判断を書くことになるからでしょう。
>算数のように何か正解があるわけではなく、何を書いてもいいという自由さが思考を停止させる。
自由にしていたら、考えも出てこない。上下判断に頼ることになる。
>しかし、これがもし感想文という形ではなく、友だちとの会話だったらどうだろう? >上記の傘のエピソードでいえば、子どもたちはもっと率直に感想を言い合うはずだ。 >それが学校で机に向かって書く形式になると途端に書けなくなるのはまさに大人用の答えを模索することを強要されているからに違いない。
書く形式になれば、文章が必要になる。会話ならば、歌詠み (小言・片言・独り言) でゆるされる。
>そう教え込んだのは大人たちの学校教育だ。
何事も、大人中心の序列社会ですからね。
>絵本という創造性を育む仕事をする五味太郎氏は日本の教育のあり方に真っ向から異議を唱えた。
芸術家は、個性的でなくては意義がありませんからね。
>書籍「大人問題」は「子どもにとって大人は有害だ」と断言する本だ。
没個性は、子供に有害ですね。没個性は、芸術家にも有害ですね。
>出る杭は打たれるということわざがある。
わが国は、序列社会でできている。序列順位は、あくまでも同次元の序列による比較でなくてはならない。そうでなければ、不公平となる。だから、日本人の争いは没個性でなくてはならない。
>まさに日本の悪しき習慣を象徴するかのような言葉で、そのような価値観をつくっているのは学校教育なのではないか。
そうですね。日本の学校教育は、日本人の上下価値観を教えますからね。
>海外に比べてなぜ日本人は没個性的なのか。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。だから、正解は一つではない。幾らでもある。
矛盾を含む文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。だから、議論・対話は、正しい考えを得るための手段として役に立つ。
考えの内容は、人さまざまである。だから、自由に考えることのできる国では、人々は個性的である。
>感想文に「別に。」と書いた生徒は決して間違っていない。>これこそ本物の感想文だ。
そうですね。生徒本人の印象そのものですね。
>これより前に話題になった教師の投稿も紹介しておきたい。 >クラスメイトと遊ぶよりも本を読むのが好きだった生徒を全否定し、友だちをつくって遊ぶべきだと主張する内容だ。 >教師自身の価値観が正しいという前提でそれを子供にも当てはめようとしている。
>「友だちが多い子はいい子」と言われがちだが、一方で内向的で読書が好きな子が褒められることは少ない。 >生徒は先生を選べない。 >先生は無理に友だちを作らせようとするのではなく、趣味を理解しようと努めるべきだったのではないだろうか。
そうですね。先生は、子供の個性を伸ばすように努力すべきですね。世俗の上下を子供に教え込むことを目的とすべきではありませんね。
>五味太郎氏は「大人は子どものサポーターであるべきだ」と主張する。>「とんでもない新人がやってきた」「このルーキーはこれからどう成長するのかな」とワクワクした気持ちでサポートしてあげるのが理想的な大人だ。
そうですね。同感です。
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