>みんかぶマガジン >東大中退・堀江貴文氏「Fラン私大の学歴詐称なんかどーでもいい」…東洋大は本当にFランなのか、有権者はなぜ学歴にこだわるのか >みんかぶマガジンによるストーリー・ >7時間・
>静岡県伊東市の田久保真紀市長は、自身の「東洋大学卒業」という経歴について、市議会で追及された末、最終的に「除籍だった」と認め、速やかに市長を辞職する意向を明かした。
>有権者にとって学歴とは、単なるプロフィール以上の意味を持つ。
>限られた情報の中で、候補者の能力や倫理観を測る数少ない手がかりでもある。
>候補者と有権者の間にある“信頼”という名の契約が、いとも簡単に踏みにじられた結果となったが、田久保市長はなぜ、なぜ「卒業証書」を見せたと強弁しながら、実物は誰にも確認させなかったのか。
それは田久保市長の単なるやりそこないではないでしょうね。
>市民を欺いた“都合のよい情報操作”の構造を、経済誌プレジデントの元編集長で作家の小倉健一氏が解説するーー。
>東洋大学は「Fラン」ではない 事実とレッテル貼りの危うさ
>実業家の堀江貴文氏が、静岡県伊東市の田久保真紀市長の辞意表明を報じるニュースを引用し、「Fラン私大の学歴詐称なんかどーでもいいだろ。」と自身のXアカウントに投稿した。
一部の人々にとって、政治家の学歴は些末な問題に見えるのかもしれない。
>しかし、この問題は「どーでもいい」話では断じてない。
>そもそも、堀江氏が揶揄する東洋大学はFラン大学などではない。
>大手予備校である河合塾が公表する最新の偏差値によれば、東洋大学の偏差値帯は40.0から57.5に及び、決して誰でも入れるような大学ではないし、数十年前にはもっと偏差値はあったと推察される。
>問題を矮小化するために、事実と異なるレッテル貼りをすることは、議論の本質を見誤らせる。
>田久保市長の問題の核心は、大学のランクではなく、公職に就く者が、有権者を欺いたという事実そのものにある。
そうですね。公職に就くものがタヌキか、キツネか、ムジナなのかわからない。
>一連の騒動の経緯は、市長という公職者の倫理観の欠如を浮き彫りにする。
>2025年5月の市長選挙で初当選した田久保市長の経歴には「東洋大学法学部卒業」と記されていた。
>市の広報誌や報道機関向けの資料にも、同様の学歴が記載されていた。
>疑惑が浮上したのは、6月上旬に市議会議員全員に「田久保市長は大学を卒業しておらず、除籍されている」という内容の匿名の告発文が届いたことがきっかけだ。
>議会でこの疑惑を追及されると、田久保市長は驚くべき対応を見せた。
>告発文を「怪文書」と断じ、説明責任を放棄したのだ。
>除籍を「卒業」と言い張った代償——信頼失墜と終わらない追及
>あろうことか、疑惑の解明よりも、告発者を特定する作業に弁護士を通じて着手していると公言した。
>これは、問題をすり替え、批判の声を封じ込めようとする、極めて悪質な隠蔽工作である。
>市民の代表であるはずの市長が、自らへの疑義に対して真摯に向き合うのではなく、告発者を攻撃する姿勢を見せたことは、民主主義の根幹を揺るがす行為に他ならない。
>追い詰められた田久保市長は7月2日に記者会見を開き、自ら大学で確認したところ、卒業ではなく「除籍」されていた事実が判明したと涙ながらに認めた。
>卒業したと長年「勘違い」していたと弁明したが、この釈明がいかに信憑性に欠けるものであるかは、その後の行動が証明している。
>問題は、単なる記憶違いでは説明できない、意図的な欺瞞の存在である。
>7月7日、市議会は田久保市長に対する辞職勧告決議案を全会一致で可決。
>同日、田久保市長は辞職の意向を表明すると同時に、再び市長選に立候補するという厚顔無恥な考えを明らかにした。
>7月11日には、地方自治法に基づく強い調査権限を持つ百条委員会が設置され、市長の経歴が記載された広報誌の作成経緯について、市の幹部への証人尋問が行われた。
>市の秘書広報課長は、市長から「卒業証書」とされる書類を見せられたと証言した。
>疑惑の核心である卒業証書の存在が、改めて焦点として浮かび上がった。
>なぜ有権者は学歴にこだわるのか
>政治家の学歴は、有権者が投票先を決定する上で、決して無視できない重要な判断材料の一つである。
>有権者は、限られた情報の中から候補者の資質や能力を見極めなければならない。
>その際、客観的な指標として学歴に注目するのは、ある意味で合理的な行動と言える。
>オランダのフローニンゲン大学に所属する社会心理学者、ヨヘム・ファン・ノールトらが2023年に学術誌『パーソナリティ・アンド・ソーシャル・サイコロジー・ブレティン』で発表した論文『人々はいつ、なぜ高学歴の政治家を好むのか』は、この点を実証的に裏付けている。
日本人は子供の学習成果に関心がある。アメリカ人は大人の学習成果に関心がある。どちらがより賢い人間であるといえるか。
子供の勉強は現実の内容 (事実) を覚えること。大人の勉強は非現実の内容 (考え・哲学) を自分自らが獲得すること。
日本の大学は、入るのが難しくて卒業が容易である。大学は、子供の学力を比較して入学者を選抜する。しかし大学における大人の学習効果には世間も大学当局も気にかけない。わが国には高等教育の成果に期待するものは誰もいない。
アメリカの大学は、入るのは易しいが卒業が難しい。大学は学内の大人の学習成果を見て、学生の卒業の合否を判定する。自己の見解を論文にして公表すれば大学による独創の認定により学位 (学士・修士・博士) が得られる。
社会は大人の勉強成果に関心を集中させている。高等教育の成果に社会の発展が依存している。
日本人は、没個性の序列主義社会の中でのナンバー・ワンを目指すのではない。考えの内容は個人個人で違っているのであるから、個人主義社会のオンリー・ワンを目指すべきである。さすれば過当競争がなくて自己実現が可能になります。
>この研究は、有権者が候補者の能力を推し量る上で、その教育経歴を極めて重要な手がかりとして用いる傾向があることを明確に示している。
>興味深いことに、この傾向は高学歴の有権者に限った話ではない。
わが国では子供の学歴がよろこばれていますね。日本人の大人が勉強するなんて想像できませんからね。
>学歴は行政手腕を測るための「代理指標」として機能
>研究によれば、教育レベルが比較的低い有権者でさえ、自分たちとは異なる背景を持つ高学歴の候補者に対して、より高い能力や知性、問題解決能力を持つと想定し、好意的な評価を下す傾向が見られるという。
>これは、社会に根付く「学歴は能力の証」という一種の共通認識が、投票行動に深く影響していることを物語っている。
日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが日本社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。人間としての順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、我が国の序列競争の激しさは個性の育成の足かせになっている。自己実現の妨げになっている。
>つまり、学歴は単なる経歴の一部ではなく、候補者の持つであろう能力や将来の行政手腕を測るための強力な「代理指標」として機能しているのだ。
>だからこそ、田久保市長の学歴詐称は、単なる個人的な「勘違い」や「偽り」では済まされない。
>この行為は、有権者が候補者を正しく評価し、熟慮の末に一票を投じるという、民主主義の最も基本的なプロセスを根底から破壊するものである。
>有権者が信頼を寄せていた判断基準そのものを汚し、選挙の公正性を著しく損なう、極めて重大な裏切り行為と言わねばならない。
>市民を欺き、その信頼を裏切った以上、田久保市長がその職に留まることは許されない。
>辞職し、改めて民意を問う出直し選挙に臨むことは、政治家として最低限の責任の取り方であり、当然の帰結である。
日本人には意思がない。意思のない人間には責任もない。だから、信頼が得られない。信無くば立たず。
民、信無くば立たず。(政治というものは 民 (民衆) の信頼無くして成り立つものではない。) [論語・顔淵]
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
日本人には意思がない。意思のない人間には加害者意識がない。被害者意識があっても罪の意識がない。これはアニマルも同じである。天真爛漫として悪びれたところがない。子供と同じである。
日本人の宗教も罪から距離を置いている。印欧語族の民と違って、自己の罪の深さにおののくという人が存在しない。天国・極楽の話にもありがたみがない。
日本人には反省というものがない。また初めからやり直す。’失敗は成功の基’ という真の意味 (学習) を知らない。だからまたあやまちを繰り返す。