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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

佐藤直樹氏 4/4  

2021-05-11 22:56:19 | 文化

 

> 夫婦関係では女性は男性より「強い」ように表面上見えるが、ここにあるのは、一方的に「母親の役割」を強制されるいびつな女性差別の構造なのだ。  

 

これも伝統的な日本語生活に由来しているものでしょうね。     

 

> とくに男性にとって、この差別的構造はきわめて自覚しにくい。  

 

日本の女性は自分の子供のみならず、自分の大きな子供 () の面倒までも見なくてはならないのですね。その要領は同じで良いのかな。 12歳の大人の養育法は如何にあるべきか。     

 

>女性役員比率と業績に相関関係    >見方や考え方の多様化で活性化    

> では、たとえば企業での男女差別や格差をなくしていくにはどうすればよいのか。 > 職場も一つの「世間」である以上、そこでも女性差別が構造化されている。 

 

日本人の考え方からすれば、それは差別ではなくて区別なのでしょうね。   

 

> この状況を変えるには、日本では差別が見えにくい構造があることをよく自覚し、すみやかにジェンダーギャップを埋める具体的な方策を講じる以外にない。

 

日本人には個人の確立が最重要でしょうね。子供の国にはお母さんが必要です。子供に自主独立の気風が備わればお母さんは必要でなくなりますね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

 > BCG(ボストン・コンサルティング・グループ)の報告書(2017年)によれば、日本企業における女性役員の割合は、ノルウェー36%、フランス30%、イギリス23%、アメリカ・ドイツ・オーストラリア19%などと比較して、わずか3%と著しく低い。  

 

我が国においては、人々は女の女らしさを求めてやまないのでしょうね。    

 

> 興味深いことにこの報告では、東証一部上場904社を調査し、「日本企業の女性役員比率と企業業績には相関関係が見られる」と結論づける。> つまり女性役員を増やすことで企業業績が上がる。 >それは、「ものの見方や考え方が多様化することで、企業が活性化し、イノベーションが加速する」からだという。   

 

耳寄りな話ですね。成功すると良いですね。   

 

> 当然といえば当然の話だ。

 

女相手の商売に日照りはないということでしょうか。   

 

> これは一つの例だが、政治のかかげる「女性活躍推進」がレッテル詐欺にならないためにも、女性の管理職を増やすなどの実効的な手立てを、躊躇(ちゅうちょ)することなく実施することが必要だ。  

 

女性管理職の人数を増やすという実効的な手立てだけで持ちこたえられますかね。躊躇なく実施することも日本人には難しいでしょうね。日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)    

 

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)    

 

 

 

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佐藤直樹氏 3/4  

2021-05-11 21:58:23 | 文化

 

> ただしこの発言だって、「たかがあの程度のことで、なぜ辞める必要があったのか?」と思った人は、とくに男性に多いのではないか。> 女性差別だという実感がまるでないのは、そもそも「世間」自体が「身分制」という差別構造を持ち、女性差別がそのなかに見事に埋め込まれ隠蔽されるために、きわめて見えにくくなっているからだ。

 

そうですね。食べ物にも差がある。学校にも差がある。男女にも差がある。人間にも差がある。差別と区別の見分け方が難しい。      

 

>夫との間で「母子関係」まで背負うことを求められる妻      

> 日本の「世間」で、女性差別が見えにくい理由がもう一つある。> たとえば、歌手で俳優でもある武田鉄矢さんは、3月にテレビ番組「ワイドナショー」に出演した際、西洋に比べて日本が「男性優位社会って言われていますけど、そんな風に感じたことはありません」と断定。>夫婦関係を念頭に、「やっぱり日本で一番強いのは奥さんたちだと思いますよ」と発言している。  

 

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

 

> どうだろうか。

>これを聞いて共感する男性は少なくないのではないか。

> やっかいなのは、夫婦関係において「日本で一番強いのは奥さん」と思い込んでいる人間に、社会関係におけるジェンダーギャップを指摘しても、まるで実感をもてないのではないかということだ。      

 

我が国では男女の間で性による役割分担ができていますからね。例えば男は台所に入ってはいけないなど。習うより慣れろですね。Custom makes all things easy.         

 

> つまりここには、夫婦関係と社会関係において一種の「ねじれ」があり、夫婦関係では、男性より女性のほうが一見「強い」ようにみえる。  

 

太陽が上か雲の方が上かの問題に似ていますね。判定の基準がどこにあるのかわからない。     

 

>しかし、この「ねじれ」は表面的なものにすぎない。> たとえば昨年6月、お笑い芸人の渡部建さんの不倫問題が起きたときに、妻で女優の佐々木希さんがインスタグラムで、「この度は、主人の無自覚な行動により多くの方々を不快な気持ちにさせてしまい、大変申し訳ございません」と、「世間」に謝罪したことは記憶に新しい。 > じつは、夫の不祥事を妻が「世間」に謝罪しなければならないのは日本特有の現象なのだが、「世間」が謝罪を要求するのは、夫に対して妻は母親としての「監督責任」があると考えるからだ。

 

そうですね。わが国は家畜・社畜の国ですからね。役割分担も欧米とは違いますね。役割分担はあっても個人の確立はありませんね。          

 

> つまりここにある夫婦関係は、相互に独立した個人としての男女関係ではなく、非対称の依存関係としての「母子関係」である。

 

そうですね。日本人の夫婦関係は日米安保のようなものですね。   

 

> この点で最近、心理学者の信田さよ子さんが、日本のDV加害者の男性の特徴について、面白いことを指摘している。 > すなわち、北米の男性の場合、妻への嫉妬がDVの引き金になっている例が多いのに対して、日本では妻が他の男性に惹(ひ)かれることなど考えもしない例が多いという。 > ようするに、「日本の男性は妻を女性としてではなく、『自分を分かってくれる存在=母』としてとらえている」ことがDVの根底にあるのではないか、というのだ。

 

妻への嫉妬は、オセロ(Othello) が有名ですね。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」   

 

> もちろん「母子関係」がすべて悪いわけではない。 >しかし、夫婦の関係で「自分を分かってくれる存在」といった「母子関係」を要求される女性にとってみれば、それは強制であり抑圧でしかない。  

 

そうですね。日本人はなれ合いにより人間関係を構築していますね。何が問題なのか分からないでしょうね。 ‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。   

 

 

 

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佐藤直樹氏 2/4  

2021-05-11 21:36:52 | 文化

 

> 見えにくい理由の一つは、「世間」に「身分制」があるためだ。

 

そうですね。   

 

>日本は先進国のなかでは、きわめて伝統的なものを多く残している唯一の国だ。  

 

我々は礼儀正しい日本人ですからね。我々の礼儀作法は序列作法で成り立っています。       

 

>その代表が「世間」という人間関係だ。>「世間」は『万葉集』以来1000年以上の歴史があり、日本人は伝統的な「世間のルール」を律儀に守ってきた。>なぜなら、「世間を離れては生きてゆけない」と信じており、ルールを守らないと「世間」から排除されると考えるからだ。

 

そうですね。日本は序列社会の国ですから、序列を離れた人は外人になりますね。外人の中に入ると序列協力ができません。虫けらのごとき日本人も序列協力により竜となります。このことは中国人も認めていますね。中国人は竜のような人でも複数集まると虫けらになります。相手を貶める作業に懸命になって建設的な作業が進まないからです。           

 

> そのルールのなかに「身分制のルール」がある。 >年上・年下、目上・目下、先輩・後輩、格上・格下、男性・女性などの上下の序列である。

 

そうですね。日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。     

 

> 日本人はこの「身分制」に縛られており、そこに上下の序列があるために、これが差別の温床となっている。   

 

残念ながらその通りですね。   

 

> 現在の欧米社会には、日本のような「世間」はない。

 

そうですね。階級社会 (class society) は横社会ですからね。

 

>この違いは言葉の問題を考えると分かりやすい。> 英語では一人称の「I」と二人称の「YOU」は1種類しかない。>つまり対話の相手が、友だちだろうが大統領だろうが、タメ口でよい。

 

彼らはお前と俺’  (You and I) の社会に住んでいるので相手を呼び捨てにする。  

 

>ところが日本語では、「I」も「YOU」も、「オレ、私、僕、あなた、お前、君…」など山のようにある。  

 

そうですね。日本人の判断は状況次第 (situational) ですからね。    

 

> 日本語でこれほど一人称・二人称の使い分けが必要なのは、あらゆる場面でその都度、対話の相手との上下関係、つまり「身分」を考えて、言葉を選ばなければならないからだ。

 

そうですね。日本人はその都度態度を大きくしたり小さくしたりする必要がありますね。これを臨機応変というのですかね。 

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官

変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。  

 

> 英語圏には「世間」はないため、日本のような「身分制」が存在せず、人間関係は基本的に「法の下の平等」のもとにあるから、相手が誰であろうがタメ口でよい。  

 

そうですね。しかし、階級制度 (class system) はありますね。お互いに話が通じているのですかね。      

 

>「身分制のルール」は合理的な理由がない、いわば「謎ルール」なのだが、「世間」には後輩の先輩への絶対的服従など、この種の「謎ルール」がてんこ盛りにある。  

 

そうですね。世俗的な上下関係ですね。太陽と雲ではどちらが上 (えらい) といった問題ですね。    

 

> 女性差別もその一つで、「世間」の「身分制のルール」のなかに構造的に埋め込まれている。> 森・元組織委会長の「わきまえている」発言が意味しているのは、まさに「女性は身分をわきまえろ」という「身分制のルール」のことに他ならない。  

 

そうですね。礼儀正しい日本人にならなければならないということですね。   

 

 

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佐藤直樹氏 1/4  

2021-05-11 21:09:58 | 文化

 

>ダイヤモンド・オンライン  >国際的「男尊女卑国」日本、世界とズレる大きな理由  > 佐藤直樹 2021/05/10 06:00

(

>男女平等ランキング、日本は120位  >経済分野117位、政治分野147位

> 3月に発表された世界経済フォーラムの「男女格差報告書(ジェンダー・ギャップ指数)2021」で、日本はなんと156カ国中120位(65.6%)だった。  

 

それは残念でしたね。早くわが国も一等国になりいですね。   

 

> 教育へのアクセスや政治家や閣僚の数、賃金など男女差を比べ、「100%」を「完全な男女平等」として達成度を指数化したものだが、これまでで2番目に悪い数字で、主要7カ国(G7)では最下位、全体でも下から数えたほうが早い。  

 

日本は主要7か国中の異端児ですかね。   

 

> 対象となった経済・教育・医療・政治の4分野のうち、教育・医療分野はそうでもないのだが、目立って低いのは、経済分野の117位と政治分野の147位だ。 

 

男女共に日本人は政治音痴のはずですがね。   

日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている (ウスビ・サコ)   

 

> とりわけ経済分野では、「労働力の男女比」は他国と比べて遜色ないのに、「管理的職業従事者の男女比」が139位、「専門・技術職の男女比」が105位と、かなり低い。  

 

管理的職業や専門・技術職は上下関係の強い分野ですね。下と見られている女性は男性たちの指導者にはなりにくいですね。      

 

> 私も大学で働いていたが、職場で女性の管理職がきわめて少ないのは実感としてよく分かる。>かなりの「女性差別の国」を実感している男性は少ない というわけで、2月に森喜朗・東京オリンピック・パラリンピック組織委員会元会長が辞任に追い込まれた女性蔑視発言、「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」「組織委にも女性はいるが、わきまえている」を持ち出すまでもなく、じつは国際的には、日本はれっきとした「男尊女卑の国」なのだ。  

 

そうですね。森喜朗氏は年寄りの為考えが古いのですかね。  

 

> これはきわめて深刻に受け取るべき厳然たる事実なのだが、日本がかなりひどい女性差別の国だと自覚できる人は多くない。>おそらく、とくに男性にはこのことをリアルに感じている人は、少ないのではないか。 

 

そうですね。女は女らしくて良いと考えている男性が多いでしょうね。いかにも、、、、らしいは、日本人の追い求めてやまない道ではないでしょうか。気分・雰囲気・感情の道ですね。

 

>欧米にはない「世間」に埋め込まれた「身分制のルール」

> 日本が国際感覚とはとんでもないズレがあるのは、いったいなぜなのか? > 答えは簡単で、それは海外にはない日本特有の人間関係である「世間」に、日本人ががんじがらめに縛られていることにある。 

 

そうでしょうね。日本人の世の中は堅ぐるしい世の中ですからね。礼儀正しい日本人が大勢住んでいます。

 

>「世間」があるために差別が構造化されており、女性差別が隠蔽され、きわめて見えにくい構造になっているからだ。

 

そうですね。日本人には世間体が何よりも大切ですからね。日本人には世間 (現実) があって世界観 (非現実) がない。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。     

 

 

 

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