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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

新野さん 4/4  

2021-05-08 18:22:42 | 文化

 

>同時に、おのずから成立している物質的自然にわざわざ人の手を加えるという行為にも多少抵抗を覚えるだろう。

 

手つかずの自然を整えられた自然にする過程は、意思によるものとは考えられませんでした。この種の行為は恣意 (私意・我儘・身勝手) によるものと考えればよいのでしょうかね。動物の本能のようなものか。   

 

>自然環境が移り変わるのは当然だ、という無頓着さもあるかもしれない。 

 

何事も自然に逆らわずですね。   

 

>日本人にとっての「自然との共生」とは、「物質的自然が成すがままで任せること、その中に自分たちが生き続けること」なのではないだろうか。

 

日本人は自然と一体をなしていますね。他のアニマル達も皆同じやり方ですね。      

 

>しかしながら、近現代の物質的自然の変化・変容は、そのほとんどの原因が人為的介入であることを忘れてはならない。  

 

そうですね。地球の温暖化も人為的ですね。   

 

>自分の都合で自然環境を改変し、その結果生じた問題の解決は自然環境が成すがまま、というのは、少し無責任ではないだろうか。

 

そうですね。日本人には意思がない。意思の無い人間には責任もない。恣意の人間には責任感もないから、アニマル並みの待遇を受けさせなくてはなりませんね。      

 

>鳥獣害対策や野生動物保護管理も、日本人が根っこに持ち続けている自然観で考えれば、「人為的管理が必要な理由がわからない」というクエスチョンマークがあるのかもしれない。  

 

意思のない人たちには、人為も人為にはなりませんね。人為もごく自然な営みにすぎませんね。   

 

>それが保護管理理論に浸透しにくい理由であり、過剰捕獲行為だと誤解されてしまう要因でもある。 >その理解不足が、保護管理への消極性、無関心につながるのだ。  

 

日本人にはリーズン (理性・理由・適当) がない。だから、リーズナブルな決着を期待することには無理がある。リーズンがなければ、説明責任も果たすことはできません。現代社会に適合不全となりますね。          

 

>ーーー >どちらかと言えば、私個人も日本人なりの自然観は濃く持っているように思う。>でなければ、野生動物に対してこれだけの (けっこうな) 愛情を持たなかったのではないかと思う。

 

そうですね。自然と一体になる感覚ですね。

 

>鳥獣害対策、野生動物保護管理という分野の中で、専門家や従事者、農家や農家以外の住民といった関係者には、等しく情報が与えられている訳ではない。>それが、対策連携などがうまく運ばない原因でもある。  

 

そういうことになるでしょうね。   

 

>だからこそ最も必要とされているのは、専門家や自治体だけに留まらないより大勢の人々への情報周知と、今までの考え方を刷新するべきなんだという意識改革なのだと思う。  

 

そうですね。一体感ではなくて知識が最も必要ですね。      

 

>それは決して従来の自然観を否定するものではない。>かと言って全員が対策管理を容認できる訳でもないだろう。>ただ、まるでネグレクトのような自然環境の放置主義をやめようと考えるだけで足りるはずだ。  

 

意思の無い人々は放置主義になりやすいですね。これが自然の感じですね。お互いに相手の手を抑えあっている感じですね。        

 

>私も、情報発信を続けていく。 >よりわかりやすく、より広く、野生動物と共に生きてくれる同志を増やしていきたい。

 

何事にも現実直視が大切ですね。英米人から学ぶところが多いですね。       

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

 

 

 

 

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新野さん 3/4  

2021-05-08 18:05:53 | 文化

 

>物質的自然と距離が近い分、それに対する共感や、自分の心情を自然現象に投影するといった心理的交感が日本人の文化になった。

 

そうですね。周囲に対す日本人の忖度 (推察) が発達したのでしょうね。当然歌詠みも発達しますね。        

 

>それは和歌俳句の文化であったり、花見だったり、物質的自然の移ろいを諸行無常と捉えて儚むといった感応性質だ。

 

日本語の主な役割は、気分・雰囲気・感情に関する実況放送・現状報告になりますね。   

 

>言い方を変えれば、日本人は自分の心を自然世界と一体化させていった。

 

そうですね。日本人は日本庭園や岩風呂など整えられた自然を楽しんでいますね。規模は小さくても盆栽・箱庭・一坪庭園も整えられた自然を楽しむ方法ですね。      

 

>キリスト教を土台にした西洋文化では、物質的自然とは神に与えられた人間が管理する「もの」であり、人為的世界と自然世界ははっきりと区別されていた。

 

そうですね。西洋人にはキャンプとか探検・冒険など手つかずの自然を楽しむ習慣がありますね。西洋には神にも人にも意思がありますね。だから、神と人は自然とは区別できますね。      

 

>だからこそnatureの語も生まれた訳だ。>西洋文化は物質的自然を客体として考え、それは科学の研究対象であり、人為が加わっていない無秩序の現れでもあり、人間にはそれを管理する責任が負わされているという考え方だったのだ   

 

意思のある人間には責任がありますね。   

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

 

>(もちろん現代になり、極端なアンティーク思考が緩和されてはいるだろう)。 >日本に話を戻そう。 >そしてここからが、何故日本で鳥獣管理をやりにくいのか、そして「日本人は自然環境保全への意識が薄い」と思われてしまうのかという要因だ。 >物質的自然とは移り変わっていくものだ。     

 

そうですね。現実は千変万化を続けていますね。        

 

>そこに人為的介入がなくても、日本では四季が明確に分かれている分、その変化を感じ取りやすかっただろう。>そして人間は自然世界に逆らえないことを日本の誰しもが知っていた。  

 

日本人には意思がない。だから、自然に逆らう方法 (仕方) も考えられない。    

 

>その変化を覆しようはなく、また変化しても物質的自然は回復する。

 

日本人には意思がない。意思の無いところには方法もない。無為無策でいる。諦観あるのみ。他力本願・神頼みが伝統です。              

 

>そう知っていたからこそ、日本人は変化に対して鈍感になっていったのだ。 

 

日本人の考えは発達することなく、対処は自然に丸投げされていたことになりますね。   

 

 

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新野さん 2/4  

2021-05-08 17:47:58 | 文化

 

>テーマは【日本人の持つ自然観】だ。>---  >そもそも、「自然」という言葉は何を意味しているのか。>日本語の「自然」には二つの用法がある。>一つは「おのずから成り立っている、ありのままである、人為が加わっていない状態」を指す、いわば形容詞的な使い方だ。    

 

そうですね。事の次第、自然の成り行きをさす言葉ですね。   

 

>もう一つは英語のnature、つまり物質・物体としての自然環境を名詞的に表現する使い方だ。   

 

そうですね。これは本当の自然ですね。   

 

>しかしここで、英語のnatureと日本語の自然には齟齬が生じる。  

 

そうですね。日本語の自然には人為が加わっていますね。しかし、日本人には意思がないから、人為を人為であるとは判断できませんね。人為も犬為も自然の中にありますね。  

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)       

 

>というのも、明治以前は、日本人の中にnatureという概念は存在していなかったらしい(渡辺正雄.)。  

 

そうでしょうね。人間に意思がなければ、自然と人為は分けられませんね。       

フランク・ギブニー (Frank Gibney)  氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが書かれています。

 ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)     

 

>natureの日本語訳を決定する時に、意味が最も近い意訳として「自然」という言葉が使われた。>それまで「自然」という単語は、「自然に花が散る」「雪が溶けるのは自然なことだ」というように、人間に関係ないところで自動的に起きる現象のことを表現していた。  

 

日本では人も動植物も自然な動きをしていますね。つまり、皆が恣意 (私意・我儘・身勝手) 的な動きをしているのです。       

 

>日本人は物質的自然を、ものとして見ていなかった。  

 

つまり世界の全てが恣意的な動きをしているのですね。   

 

>そしてそれは、日本ならではの物質的自然との関わり方に由来する。 

 

言語は伝達の手段であるのみならず、思考の手段ですからね。日本語の特性が我々日本人のとらえ方を規定していることも考えられるのではないでしょうか。   

 

>古来より、日本の国土は地理的・気候的に安定していた。 >土壌は豊かで、生物種も多く、水と森林に満ちた素晴らしい場所だったことは今でも想像に難くない。 >狩猟採集の時代から日本人は、多くの恩恵をこの国土から受けてきた。

>その一方で、自然災害も多かった。 >津波、台風、地震が起こる度に、日本人は自分の生活を破壊されてきたことになる。 >同じ自然環境がもたらす恩恵と災害、それらは人間の手の及ばないところで発生する。 >物質的自然は、日本人を時に生かし、時に殺す、抗えない存在だった。 >そこで生まれるのが物質的自然への感謝と恐怖、畏怖、畏敬といった感情であり、日本人は自分たちの生命が物質的自然に内包されているという自我を長い間持ってきたのだ。

 

地球上では人間に意思の存在を認めることなく恣意的な存在として捉える民族が大部分ではないでしょうかね。自然崇拝も一般的ですね。   

 

 

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新野さん 1/4  

2021-05-08 17:31:37 | 文化

>日本人の自然観 >新野さんの覚え書き >2021/03/11 07:54 >鳥獣害対策の勉強をし始めて5年、実際の現場に出て早3年が経とうとしている。 >私だけでなく野生動物保護管理に関わる多くの人が、こういった思いを抱いたことがあるのではないだろうか。 >「日本には鳥獣対策の理論が浸透しにくいのかもしれない」と。 

 

そうですね。現状の内容は頭の外に存在し、理論は頭の中に存在しますから。両者は同じになりませんね。日本人は頭の中が弱いですね。      

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の頭の中にある非現実の内容は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。これは人とアニマルが共有する非言語の世界である。非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を逐一理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。理解は人間だけが持つ言語の世界である。理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。思慮ある人は ’純粋によく観察する’が、凡人は ‘期待したもの’ しか見ようとしない。   

 

>その理由を考えてみると、なんだか奇妙な感覚に襲われた。>ふと「まぁ日本人だからなぁ」と思ったら、それで納得してしまったのだ。>日本人のどんなところが、鳥獣対策に不向きなのか?気になったので調べてみた。 

 

それは面白いですね。  

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。

 

 

 

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