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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

適応 3/3

2020-02-26 18:00:46 | 社会

時制のない言語を話す日本人が、自分の考え (非現実) の内容を公表しようとすれば、非常に難しいものになることが想像できる。英文で自分の考えを論文にして発表しようとする日本人の初学者は難渋する。非現実を表す構文を持たない日本語で論文を発表しようとすれば、それはほとんど絶望的で大学生は四年間をキャンパスで遊んで暮らさなくてはならなくなる。だから、国民もその困難な事情を薄々推測していて奨学金による援助も躊躇せざるを得ないのであろう。英米人は自己の哲学を組み立てる為に高等教育に進学する。だから、遊んでいられない。各人に哲学は必要である (Everyone needs a philosophy.) という国民の要求に応える励みである。その成果は歴然とする。彼らは、その成果に従って学士・修士・博士等の称号を付与される。博士の称号は大概、哲学博士 Doctor of philosophy: Ph. D.) になる。
未来時制のない日本人の発想法では、未来の内容は ‘、、、、だろう’ となる。それは、推量である。ところが英語では、(things as they would be) と自己の考えを表す構文を使うことになる。これは、過去から見た未来を表す形式で、日本語にはない形式である。このような過去の世界に身をおいて、未来を語る形式がないと、自己の世界観は表すことができない。‘だろう、だろう’ の連続では、誰もその内容を本気で受け取る気にはなれない。語る本人にも自信のないことをよく示している。

実験・観察の結果を過去の内容として表し、自分の考えを過去未来の内容として語れば、それは話になる。だが、日本人のように実験・観察の結果を過去 (?) で表現して、自己の解釈を ‘現実を推量する形式’ で語れば、誰も本気にしない。’Maybe, may be not.’  (そうであるかもしれない、ないかもしれない) と茶化されて終りになる。要するに、真面目な話にはならない。だから、それから先には進めない。挫折するしかない。

現実の内容は、頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。考える必要はない。見ることのできる内容は本当のことである。見ることのできない内容は嘘である。正解は一つである。だから、現実は分かりやすい。
非現実 (考え) の内容は、全てが頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。だから、正解は一つではない。幾らでもある。考えの内容を知るには、文法に従って文章を理解しなくてはならない。しかし、これは骨の折れる仕事である。だから、通常日本人は理解をしない。その代わりに 忖度 (推察) をする。

忖度と理解は似て非なるものであるから注意を要する。忖度の内容は聞き手・読者の勝手な解釈であり、話者・執筆者に責任は無い。だから、内容の食い違いは議論にならない。歌詠みのようなものである。忖度の主に現実直視になっていないことを指摘すると、だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないかと猛反発をくらう。だから、議論にならない。’理解’ という言葉を理解してもらう前に物別れに終わる。忖度がおおてを振るって歩く姿は、目には見えない国難である。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>  (The Enigma of Japanese Power) の <ジャパン・プロブレム> 中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。(p.59)

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。 
ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

日本人の官僚の意味する ‘相互理解’ は、’相互にうなずきあう事’  (相互忖度) であって、西洋人の意味する ‘理解’  (understanding) ではない。だから、わが国の国際化は容易ではない。受験勉強では解決しない問題である。



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適応 2/3

2020-02-26 17:08:38 | 社会

この状態は、おそらく意思の内容に注意を集中できない日本人の性質による結果であると考えられます。日本人は事の次第 (流れ) により行動を開始するから、敏速でない。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。意思の無い人間は効果的な責任の取りようがないことを示しています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

意思のあるところには方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. だが、日本人には意思 (will) がない。意思のない日本人は仕方がないから無為無策でいる。そしたら、優柔不断・意志薄弱に見える。 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず'  山本五十六 (やまもと いそろく) 
意思の無い日本人にも恣意 (私意・我儘・身勝手) はある。だから、恣意が意思の代わりにわが国では活用されている。意思は文章になるので意味があるが、恣意はバラバラな単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。そこを何とかしようとするのが日本人の思いやりである。西洋人の意思疎通の代わりに日本人は恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) を使用する。議論の代わりに談合 (腹の探り合い) をする。意思決定 (理性判断) の代わりに恣意決定 (盲目の判断) をする。これは危険極まりない行為である。だが、意味がないので説明責任はとることは誰にもできない。だから、わが国では ‘兎角この世は無責任’ となる。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

日本人をアメリカ人のように敏速に行動させるためには、精神修養が必要であると考えられてきたのであろう。作法・流儀を教え込んで形式の枠にはまった行動をする人間を育成すれば自己の意思決定はなくても行動は敏速になる。各動作に個人判断が必要なくなるからである。このような記憶力を活用した習いものがわが国では流行っている。家元制度や受験生のための塾のようなものになっている。

日本人も英米人も子供の頃は、’事の次第・成り行き’ だけを語る。このように現実に基づいた内容だけを語る大人は、子供のような人である。それでは、英米人の大人はどのような内容を語るのであろうか。
日本語のような時制がない言語では、人は世界観 (非現実) を持つことができない。世界観は、非現実 (考え) の内容であるが、非現実の内容は英語のような時制のある文章により表現が可能になる。
時制のある言語では、非現実の世界は各々独立した三つの世界 (過去・現在・未来) に分かれて文章内容ができる。各々の世界の内容は決して互いに交じり合うことは許されない。それは the sequence of tenses (時制の一致) という文法により規定されているからである。



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適応 1/3

2020-02-26 15:47:51 | 社会

>大崎 ( 26 会社員 )  20/02/26 AM09  >(リンク >多分「大人の成長」って、誰かが作り出した虚構なんです。

成長の味方にはいろいろな角度がありますからね。虚構とばかりは言えないでしょう。

> 人間は唯一、子供が大人になるときに、著しいステータスアップ、文字通り「成長」するだけなのです。 > 実際、子供から大人へは、凄まじい知能の成長が見られます。 > 自分の子供を見ても、1才児と4歳、4歳と7歳では勝負にならないほど知能に差がある。>が、おとなになってからの知能の成長は、それに比べればほんの僅かでしょう。>それが現実です。 

そうですね。‘成長’ という言葉にも人それぞれの使い方があって、それが現実でしょう。

>でも、こう言う事を言うと、> 「スキルは成長する」とか >「考え方も成長する」とか > そんな話を持ち出す方もいるでしょう。 >ただ、それは私の考えでは「成長」というよりも、むしろ「適応」というべきではないかと思います。

あなたのような考えかたも成り立ちますね。

> 実は、大人が本当に問われているのは、「成長」ではなく、「適応」なんです。 

そうですね。各国民はみな成長を遂げていますね。現実の違いはその適応状態によるものですね。

> 「スキルの獲得に受け身」だったり、消極的だったりするのは、その人達が生物だからです。> 余計な力を使わず、万が一環境が変われば「適応」しようとする。 (略)  >これこそまさに、「ああ、生き物ってすごい」と感心していい部分じゃないでしょうか。> 受け身が実は、人間の本来の姿なんです。

‘受け身’は全てのアニマルに通じる適応ではないでしょうか。

>ただ、「適応」が、これからは結構厳しくなるかもです。> 端的に言うと「死にたくなきゃ、頑張って環境変化にキャッチアップせよ。」のスピードが上がってるから。> 今だったら、ピーター・ドラッカーの「ネクスト・ソサエティ」などに描かれているように、資本主義、自由主義から次世代の知識社会への適応などが囁かれているでしょう。

我々日本人は予見が得意でないから、知識社会に大きな期待を掛ける必要がありますね。

> 「成長せよ」と脅す人は、要するにもしかしたら、今後の世界は「勉強しない人」に対して、厳しくなるかもしれない。 > 今のスピードで、それに適応できますか?という話を言っているのです。

そうですね。我々日本人も眠ってばかりはいられませんね。さっそく対処する必要に迫られていますね。

> 実際に、世の中の変化のスピードはどんどん上がってますから、「適応できずに滅ぶ」という事が現実にありえます。 > 実際、これまで地球上に生まれた種の殆どは適応できずに滅んでいる。

他の動物にみられない創造力というものを我々人間は使いましょう。どうすれば、創造力を手にすることが可能になるかを考える必要がありますね。

>ただ、「サピエンス全史」にかかれているように、人類の最強の武器は、実は「適応力」にあります。>その「適応力」を発揮できるように、皆がそれなりに頑張らないとならない。

そうですね。人類の場合、適応力は言語の特性に左右されますね。

> 成長か、非成長かの議論とは関係なく、それが、現実なのだと思うのです。

我々日本人は、日本語と英語を良く学びましょう。英語は適応力を強めるのに適した言語です。言語は伝える為だけでなく考える為の道具ですから大切です。

日本人には意思がない。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。意思は、未来時制の文章内容になる。日本語の文法には時制 (tense) というものがないから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人は意思の内容を文章にすることができない。
意思の内容に注目しない国民は、人間の言動に焦点を合わせるて考えることができない。それで、ピンボケ人間になる。
フランク・ギブニー (Frank Gibney)  氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関する次のようなことが書かれています。
ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)  


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