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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

国語力 3/3

2020-02-20 02:48:43 | 社会

> 学校の初等教育自体がそのようになっているからです。 >その結果、 <長文の読解力が育まれない>のです。 >つまり、長い文章を読んでも、理解できない。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

> 本来なら、読んで筆者の趣旨意向を理解し、その上で、自分の頭で考えるという順番になるはずが、読むこと自体が、評価評論するためになっているのです。> 相手の意見そのものが理解できない。

① 当該論文の要旨を述べる。次に ② その論文に関する自分の意見を述べる。①と②が滞りなくできれば査読者になれます。独創性の指摘も可能になります。日本人は理解するのが面倒だから、忖度 (推察) の方に飛び移るのでしょうね。しかし、これは現実直視なっていません。哲学にならずして、空想・妄想になっている。こうしたジャンプが日常的に行われているから、お陰様でわが国は漫画・アニメの大国になりました。  
                                                                
> 国語教育は、すべての科目のもとになる基礎教育です。 >はたして、そのような国語教育を受けたこれからの日本人が実社会や外国に出て、果たして通用するのでしょうか。

多大な困難に直面するでしょうね。

> 思うに、すべてではありませんが、テレビに出ている評論家やコメンテーターの多くが、普通の実社会では通用しない(真面目に働くことのできない)タイプの人たちのように思えます。

残念ですね。あいかわらずの無哲学・能天気では真面目な話はできませんね。

>そのような人たちが、テレビに出て法外な出演料をもらい、日本社会のリードオフマンとなっていることが、果たして「神州ノ不滅ヲ信シ、任重クシテ道遠キヲ念ヒ、総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ、道義ヲ篤クシ、志操ヲ鞏クシ、誓テ国体ノ精華ヲ発揚」する人材群といえるのでしょうか。 >お読みいただき、ありがとうございました。

残念ながら、徳目による効果は表れていませんね。
最後に、わが国の官僚が忖度と理解の区別ができない例を引用させていただきます。わが国の受験勉強の成果も国際的には通用しない例ですね。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>  (The Enigma of Japanese Power) の <ジャパン・プロブレム> 中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。(p.59)
“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。 
ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)


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国語力 2/3

2020-02-20 02:18:32 | 社会

> 早い話、たとえば、 「私は琵琶湖に行ったとき、その風景の美しさに感動し、ひとつの和歌を思い浮かべました」という文章があったとすると、昔の教育なら、そもそも筆者はなぜ琵琶湖に行ったのか、琵琶湖の風景はどのような点が美しいのか、そこから感動する心とは何か、筆者はどのような和歌を思い浮かべたのだろうかといった、文意から様々な事柄を察しながら、洞察力や情緒性を養おうとし、そのために必要な文法力や読解力が育成されていたわけです。
>ところが近年の初等教育では、読んで君はどう思うかに力点が置かれます。 >すると、 「琵琶湖に行ったから感動したのではなく、そもそも行く前に調べるべきだったのではないか。  「何をもって美しい風景といえるのか、琵琶湖のどこが美しいのかが書かれていないからわからない」「和歌を思い浮かべるという発想が古い。私なら映画のシーンを思い浮かべます。」あるいは、 「感動したいなら、私はエグザイルのコンサートが良い」「全体を見れば美しい風景でも、近くにはきっと虫が飛んでいてきも&#12316;い」  「和歌を思い浮かべたのは気取っている。J-POPで良いじゃん」 > 要するに、文章の全体ではなく、文の部分を切り取って、その部分に反応するようになるわけです。 

それは、お題をいただいて、和歌や俳句を発想するようなものですね。わが国伝統的な学問の手法ですね。

>そして、それがいまどきの「国語力」になっているわけです。

古典的な国語力でしょうね。現代社会では、生活に支障をきたす国語教育でしょうね。

>つまり、児童たちが教科書や筆者の書いた文章を評価しているわけです。

論旨の理解が不十分であると、評価の内容も正確にはなりませんね。

>なるほど考えてみれば、いまのテレビなどのメディアがそうです。 > 事件や事故の報道には、必ずコメンテーターの評論や評価が付属します。 > 視聴者は、その評論や評価を視て、それをまた評価し、感想を述べます。 > 腹が立つとか、納得できるとかです。 >それを友達に話すと、その評価をまた、友が評価評論します。 > 政治関連なら、「総理がこのような発言をしました」という報道自体が、総理の見解の全体像ではなく、部分を切り取った形で行われます。 >つまり報道そのものが、バイアスのかかった評価評論になっています。 >そしてその報道を、コメンテーターたちが、口々に論評します。 > 論評には、オヒレハヒレがついて、総理の意向や発言の趣旨などどこへやら、全然別な意味の発言のように印象づけられます。 > 視聴者は、それを観て、また評論・評価しています。 >いまの日本は、まるで「一億総評論社会」です。
>そうなるしかないのです。

そうですね。イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)



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国語力 1/3

2020-02-20 01:17:07 | 社会

>329078 無知な頭で評論することに価値を置く現在の国語教育  >本田真吾 HP ( 壮年 建築家 )  17/08/26 PM00 【印刷用へ】
>国語力を鍛えるとは、対象への同化力を鍛えること。>つまり、題材の文章から、作者はどんな状況で何を考え?どう判断したのかを、相手の置かれた状況に同化して読み取ろうとする中で、それに必要な語彙も論理性も身についていく。

それは忖度 (推察) のようなものですね。

>ところが現代の国語教育は、無知な頭で評論だけすることを推奨し、同化に必要な謙虚さを教えない。

日本人は、文章の理解が不慣れのようですね。 

>その結果、近代思想の価値そのままの、主張するだけで何も生み出せない人間を量産して行く。

日本人は理解というものが無くて、暗記力でごまかしていますね。
私は、’哲学とは何ですか’ と日本人のインテリに何度となく尋ねられた。’哲学とは、考え (非現実)’ のことである。きっと、その人達は大学で自己の哲学を完成させてこなかったのでのでしょうね。
各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.  政治に関する考えは政治哲学になる。宗教・歴史に関する考えは、宗教哲学・歴史哲学になる。科学は科学哲学、人生は人生哲学、などなどとなる。  
'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン) 

> 以下引用 >/////////////////////////////////////////////////////////////// >近年の初等国語教育への疑問 > (リンク)
> 先日ある先生から伺ったのですが、最近、小中学生の国語力が、極端に低下しているのだそうです。>これは文部科学省の小学校教育指導によるもので、国語教育において、子供たちに読解力をつけさせることよりも、感想を述べることに比重が置かれるようになったことが理由なのだそうです。

昔も小学校で感想文は書かされましたね。

>どういうことかというと、昔は、国語教育では、文字の読み書きもさりながら、読解力を付けさせることに比重が置かれていました。>ですから子供たちは、まず、教科書に書かれた文を理解し、その理解を助けるために文法や漢字を習いました。

現実は頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。考える必要はない。正解は一つである。楽ちんである。

> 文には必ず書かれた目的があります。 >ですから国語教育は、子供たちが、その筆者の意図をいかに汲みとることができるようになるかが問われたのです。

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
非現実 (考え) の内容は頭の中にある。それは見ることができない。ただの話である。その内容を知るためには、文法に従って文章を忠実に理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、日本人は通常理解はしない。その代わりに忖度 (推察) を使っている。忖度 (推察) は理解と混同されているから要注意である。忖度は読者・聞き手の勝手な解釈であるから、筆者・話し手に何の責任もない。お互いの内容に食い違いがあっても議論にもならない。ただの空想・妄想のようなものである。
忖度の主に現実直視になっていないことを私が指摘すると、’だって私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と猛反発を食らうので、取りつく島がない。かくして、独り善がりは治らない。彼は孤高の人か。 

>ところが現代の初等・国語教育は、子供たちはすでにあらゆる知識を持って生まれてきているという仮説に基づいています。>ですから国語教育においても、その文を書いた筆者がどのような意図を持って書いたかよりも、そこに書かれたものについて、子供たちが何を感じるか、という視点が第一にされているわけです。

国語教育で、理解よりも忖度に視点がおかれているということですね。忖度は空想か妄想か雑念とかいうものでしょうね。

>と、このように申し上げますと、「それはそれで良いのではないか」と思われるかもしれませんが、十分な読解力が育っていないうちに、「文から何を感じるか、どう思うか」と問われれば、いきおい子供たちは、その文の全体の趣旨ではなく、文章の一部や単語を切り取り、その切り取った部分を、自分目線で「評価」や「評論」をするようになります。

それは理解にならないですね。歌詠みのようなものですね。現実直視をして論旨の理解をすることが第一ですね。


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