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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

落合陽一氏 3/3

2020-02-17 06:00:42 | 社会


(続く) 東京は、パリやロンドンに負けず劣らず、”すべてのものがある”大都市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り) 

(略)
>・明治以後、日本はヨーロッパナイゼーションとアメリカナイゼーションによって、中央集権化し、それまで日本という国民国家の概念がなかったのに、「日本、日本」と言い出した。

それには、黒船の影響もあるでしょうね。日本人は、砲艦外交に無力感を感じていた。

>・今、もっとも現実的で効果のある策は「ローカルの発見」に力を入れていくこと。 >正しい地方自治、「ムラ」の考えがきわめて重要。

それで、あなたはその正しい地方政治の内容を考えたのですか。重要だとはいうが、その重要な具体的内容を示していない。 

(略)
>・根本的には、教育制度から変えないと、今の流れは変えられない。

教育制度をどのように変えたらよいのですか。

>・今の近代社会を成り立たせる全ての公教育とはほぼ洗脳に近いが、我々は中途半端に個人、自由、平等、人権といった西洋的な理念を押し付けられたた結果、個人のビジョンがぼやけてしまった。

そうですね。個人・自由・平等・人権は大切だと思いますね。中途半端であることが良くないのではありませんか。理念は日本人に馴染みませんね。
現実の内容は、頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。正解はただ一つである。考える必要は無いので楽ちんである。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは見ることができない。ただの話である。話の内容を納得する為には、文法に従ってその文章を逐一理解しなくてはならない。これは骨の折れる仕事である。だから、日本人は通常理解はしない。忖度 (推察) で済ませている。個人・自由・平等・人権は考えの内容であるから、文書そのものの理解が必要である。しかるにこれらの理解を忖度で済ませればビジョンがぼやけてしまうことになります。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。これは西洋人の考えである。日本人の考えでは、見ることのできる内容は本当のことである。見ることのできない内容は嘘である。誰しも見て来たような嘘をつく人間にはなりたくないから、自分の非現実は人前で述べることはしない。これが則ち思考停止の状態である。思考停止の状態にある人に教義の内容を暗記させると、それが洗脳になる。筋金入りの人間をつくる方法である。  

>今の教育は「やりがいややりたいことがない」という自己否定意識を持った歪んだ人間を生み出している。

日本人には意思がない。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを理解する必要がありますね。さすれば、日本語による閉塞感に苛まれることがない。考え方はいくらでもある。英米人は日本語を話していても意思の表示が可能である。我々もこれにならおう。

>・教育を変えて日本人の意識を変え、地方自治を強化して、ローカルな問題を自分たちで解決できるようにすること。

日本人には考え (非現実) の内容がない。意識をどのようにして変えるかが明らかでない。地方自治をどのように強化するのかが明らかでない。

>つまり帰属意識と参加意識、自分の選択が意味を持っている実感を、それぞれの人々が感じ、相互に依存することから、日本再興は始まっていく。

日本人の国家への帰属意識は、序列意識に根差していますね。自分の名前を、天皇を頂点とした人間序列の中に差し挟むことによりめいめいが安堵感を得ています。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が疎かであると、日常の日本語会話にも差し支えるほどである。世俗の上下判断を繰り返していると人間序列が脳裏にできる。日本人はそこから離れることが難しい。日本再興はあっても国際的な未来社会の建設には貢献できないでしょうね。日本語による発想は、とかく話が小さくなりすぎますね。 


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落合陽一氏 2/3

2020-02-17 05:39:58 | 社会

>・そのためには、「個人」として判断するのをやめる。個人の為ではなく、自らの属する複数のコミュニティの利益を考えて意思決定するのがうまくいく。

お言葉ですが、個人としての判断が大切ですね。個人が育たないと、有能な指導者も現れません。考えは個人個人でちがっているから社会の意思決定ができません。全てを多数決で決議していては、筋の通った政治はできません。
日本人には意思がないから、意思決定 (理性判断) はできない。その代わりに恣意 (私意・我儘・身勝手) があるから、恣意決定 (盲目の判断) をする。序列社会であっても、責任の序列は存在しない。個人の意思の序列が存在しない。これが非常に危険である。国運を左右しかねない。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り) 

>◇ワークライフバランスからワークアズライフへ
> ・日本は西洋の様に、「ワーク」と「ライフ」を二分法で分けること自体が文化的に向いていない。>・日本人は生活と仕事が一体化した「ワークアズライフ」の方が向いている。 

昔の仕事は家事のようなものでしたね。

>・日本人は、古来、生活の一部として仕事をしていた。 >百姓という言葉は、農耕主体の社会において100の細かい別々の仕事をしているという意味。 >・東洋的には、ずっと仕事の中にいながら生きている、そしてそれがストレスなく生活と一致しているのが美しい。

百姓は金の為に仕事をしていたのではないでしょう。自己の生活のために農作業をしていた。だからストレスがなかったのでしょう。

>・明治の時にいきなり西洋化したのだから、現代でいきなり東洋化してもよい。

それは、一等国から四等国に急落するようなものでしょうかね。

>・今の日本は東洋化した方が、イノベーションがより起きやすくなるはず。

それでは小手先の修復に終始することになるでしょうね。未来社会の建設の方向に向いていない。

>日本人は個人としては異端になりにくいですが、集団として異端になるのは得意。

赤信号 みんなで渡れば怖くない。いつも大衆が頼みですから、付和雷同になるのかな。意思を明確にすることが難しい。                                                                                                        

>◇わかりやすさの対局にある東洋思想
>・現代の幸福観においては、昭和期に日本は西洋の影響を大きく受けている。(略)  >・東洋思想への理解がないと、「我々は幸福であるべきか」といったコアの無い議論にはまってしまう。

論外な議論ですね。’自明の理’ (self-evident truth) というものを知らない人の議論です。

>◇日本というブロックチェーン的な国家
>・明治以来の西洋的国民国家による中央集権体制は日本には向いていない。

日本には、政治の中核がないですね。困ったことです。

>・もともと日本というのは、自然発生的な統治機構の更新が起こり、そして、一度集権してグランドデザインを行い、官僚主義的な運営とともに、たいてい非中央集権型社会型の安定状態をつくってきた。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。
国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だという意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。(続く)



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落合陽一氏 1/3

2020-02-17 05:09:58 | 社会

>大森久蔵 ( 30代 専門職 )  18/05/21 AM00 【印刷用へ】  >落合陽一氏の「日本再興戦略」
> 現代の日本の状況と可能性を端的に記しており、非常にわかりやすい。> 曰く、今の日本人に必要なのは、西洋的思想から東洋的思想への転換。>その為の「近代教育における洗脳からの解放」。 >みな、行きつくところは「教育革命」 

何がどう変わるかを説明してくださるとありがたいですね。

> 以下ポイントを紹介したい。 >-------------------------------------------------------------
>◇高度経済成長を支えた洗脳システム
>高度経済成長を支えたのは > ・均一な教育 > ・住宅ローン > ・マスメディアによる消費者購買行動 >つまり、国民に均一な教育を与えたうえで、住宅ローンにより家計のお金を奪い、マスメディアによる世論操作を行い、新しい需要を喚起するという戦略。>このシステムは大量生産型の工業社会、トヨタの車をつくる、ソニーのテレビをつくるのには向いていたが、現代では通用しなくなっている。> 高度経済システムの根本になるのは、「欧米」というユートピア的な概念。 

欧米を離れて、新しいものを作るのですか。均一が良いのか、個性的が良いのか。欧米から技術を学んで我々がわが国の均一化を助長したのでしょう。

>◇「欧米」というユートピア
> ・そもそも「欧米」というのは存在しない。>欧州とはユートピアであり、日本人の心に中にしかないもの。 

そうですね。それは理想郷 (非現実) ですね。

>・日本人は外来的に入ってきたものをすべて「欧米」と呼んで、いろんな分野で各国の方式を組み合わせてきた。>・そして、いいとこ取りをしたつもりが、時代の変化によって悪いとこ取りに。 

人間の作ったものに完全なものは無いでしょうからね。時代の変化に追いついてゆくか。それとも時代の変化を先取りするか。

>・だからこそ、「日本には何が向いていたのか」「これから何が向いているのか」を歴史を振り返りながら考えていかないといけない。

そうですね。歴史哲学が必要ですね。大いに知恵を出し合ったら良いですね。

>◇西洋的な個人の時代不適合性
>・日本には「近代的個人」という考えは向いていない。

そうですね。わが国民には個人が確立していませんね。ですから、個人に対する信頼もありませんね。兎角、この世は無責任。

>・そもそも日本には「個人」よって成り立つ「国民国家」という感覚が薄い。

そうですね。わが国には個人がない。各人に考えがあれば、その内容は人様々になる。だから、人には個性があることが理解される。そうでなければこの国はご唱和の世界のままである。

>・基盤がないのに、無理して「個人」を目指した結果、現代では個人に伴う「孤独感」が強くなってきている。

そうですね。‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)  だから、序列の絆を柱とした序列社会が人々に好まれているのでしょう。個人の考え (非現実) を確立させられないところが大きな問題ですね。

>・歴史を振り返ると、江戸時代には日本人は長屋に住んで、相互依存的に生きていた。 >それを自分から切ってしまったことでバラバラになってしまったという事。

そうですね。日本人は、寂しくてたまらないですね。個人の尊厳には縁の遠い民族ですからね。

>・西洋的思想の根底に流れるものは、個人が神を目指す、全性能に近づいていく思想。

そうですね。西洋人は完全なものにあこがれますね。

>・東洋的思想は、一言で言ったら「自然」日本人はどこまでいっても自然の中にある同質性・均質性に紐づいている。

そうですね。自然の中には意思がない。自然は頭の外にあって、意思は頭の中にある。意思は、未来時制の文章内容になっている。印欧語には時制 (tense) があって、日本語にはそれがない。だから、印欧語族には意思があって、日本人には意思がない。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way.  仕方がないので、日本人は無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

>・これからの日本人にとっては、西洋的人間性をどうやって超克して、決別し、更新しうるかが非常に重要。

そうですかね。それにしても、まず国際的な相互理解が必要ですね。


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