>299332 人の話を聴かない若い人の登場 >新聞会 14/12/18 PM07 【印刷用へ】>武田邦彦のブログリンクより転載します。
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>かつて、私が若い頃の日本社会では「人の話をよく聴かない」というのは、決まって年配の男性だった。
>自信が強く、頑固で、自分が国会であり、裁判官だという意識があり、パターナリズム(家のことも自分が決める)という意識が強かったので、人の話を聞かなくてもさして困らなかったからだ。
家長独裁の世の中でしたね。
>ところが、最近、若い人が人の話をよく聴かなくなった。
若者も、父親に似て来たのでしょう。
>20年ほど前に学生と話をしていて気がついたのだが、それがだんだん、年齢が高くなって最近では40歳ぐらいまでの人、男女の区別なく、人の話を聴かない。> 具体的なことはここでは省略するけれど、その原因は二つあるように思う。>一つが「マニュアル人間」で、きわめて視野が狭く、「自分が言ったり、したりすることはこれだけだ」と決めてかかっていて、何を言っても同じ返事が返ってくるケースである。
思考停止の人間でしょう。
>もう一つが、「仲間人間」で、いつも仲間内だけで話をしているので、始めて会う人や年齢が違う人の言うことが理解できないタイプだ。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
>こちらは正しく日本語で話しているつもりなので、「落ち着いてよく聞いてください」と言ってしまうことがある。>「最初から話しますね」とか、「ゆっくり聞いてください」といっても、上の空で聞いている。>おそらく私とあった瞬間に自分の頭の中に浮かんだ「この人はこういうはずだ」という直感から逃れることができないように見える。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。その話が分かる為には、文法に従って文章内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる話である。だから、日本人は、通常 ‘理解’ はしない。’忖度’ (推察) を使ってその場をしのいでいる。
しかし、理解と忖度では、甚だしくその内容が違っている。理解は、話者の内容が理解の中心になっている。忖度は、聞き手の内容が関心の中心になっている。理解は現実直視になっているが、忖度は現実直視になっていない。だから、理解した人と忖度した人 (空気の人) では、話が合わない。議論が出来ない。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。
理解と忖度の区別は重要ですね。忖度による主張は邪道です。
>それはちょうど、現在の日本を覆う錯覚、「タバコを吸うと肺がんになる」、「副流煙は危険だ」、「減塩食はヘルシーだ」、「脂っこいものは避ける」、「コラーゲンの食事をとるとお肌や関節に良い」、「石油は枯渇する」、「地球は温暖化している」、「大麻は麻薬だ」などと同じで、情報が多岐にわたり、悪い専門家がいて、短絡的な情報を流し、それを咀嚼できない社会の縮図でもあるように思う。
そうですね。忖度ばかりで、理解がない。咀嚼できない社会の縮図です。
> 仲間内だけの暗号のような日本語、考えずにやることだけを教えてくれという人たち、環境の国家試験では未だにリサイクルが資源を節約できるという回答をしないと正解にならないというウソの世界・・・その中で若者は「俺たちの世界以外は知りたくない。>知るとバッシングを受ける」とおびえているように見える。
若者にも ‘理解と忖度’ の区別が必要ですね。
> 日本は民主主義であり、言論の自由が保証されていて、さらに誠実で礼儀正しい日本文化という宝を持っている。
そうですね。しかし、民主主義は、衆愚政治になりやすい。
言論の自由が保障されていても、正しい言論そのものの見分けがつかない。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的判断ができないと、日本語の会話にも不自由します。そのうえ、日本人の礼儀作法も序列作法になっているために、上下判断が疎かでは礼儀正しい日本人にもなれません。’人を見損なってはいけない’ と言う想いが高じて強迫観念の域に達しているために、神経をピリピリさせている人が沢山います。おびえていては、神経がつかれます。
>でも、それもお上に類する大臣、高級官僚、東大教授、NHKなどが次々と破っていては若者が怯えるのも止むを得ないかも知れない。
わが国は、序列なきところには礼儀なしです。暗い夜道は、恐ろしい。
> 基本的な道徳が守られず、村の中の小さな「モラル」というものが過度に強調されるなか、若者はまた怯えて社会から遠ざかろうとしているように感じる。
そうですね。日本人には意思がない。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意はバラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在し、文章内容にはならないから意味も無い。恣意の人に絡まれたら、若者はどうしようもない。だから、非理性の序列社会は恐ろしい。
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>以上です。
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