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水瓶

ファンタジーや日々のこと

波除稲荷・築地場内市場

2016-07-07 08:30:25 | 東京の町
なんか楽しそう。ひと仕事終えてちょっとのんびり?

先週末に行った築地の続き、今回は波除神社と場内市場の写真です。


波除神社は場内の近くにある、小さいながらも境内がにぎやかな、趣のある神社です。
築地の埋め立ての時に、激しい波に堤防が崩され困っていたところ、波間に漂って来たお稲荷さまを祀ったら、
波風がおさまって、埋め立てが無事終了したのが縁起だそうです。


星祭。ちょうど七夕の今日までやってるようです。


茅の輪くぐり。なんだかよくわからないまま三回くぐってお参りしたんですが、左右交互に8の字形に回るのが正式のようです。
茅や菖蒲のまっすぐな葉の水辺の植物に、疫病除けや魔除けのご利益があると言い伝えられてるのはなんでだろ?


この獅子頭がすごく大きくてド迫力・・!鳥居をくぐって右に赤い獅子頭、左に黒い獅子頭。
日本画家の鏑木清方は「鎮守波除稲荷の祭礼にここの獅子が出ると血を見ねば納まらない」と随筆に書いているそうです。
これはかなり激しそうなお祭りですね。。。


かわいらしいたまごの形の玉子塚。他にもすし塚、あんこう塚、活魚塚、海老塚などがありました。お土地柄ですね。


神社を出た所。ここから左手に行くと


これが場内市場のゲートのようです。はしっこが開いていたので守衛室の人に「まだやってますか?」と聞いたところ、
「う〜ん、ほんとはもう終わりなんだけど・・・」という感じでなんとなく入れてくれたので、
ちょっと慌ただしい感じで門の周辺をささっと見ただけになってしまいました。今度はもっと早く行かなきゃ。


今はガランとしてただ真夏の陽射しが照りつけるのみ。築地場内市場で画像検索すると、
ほんとに同じ場所かと思うような様子が見られます。場内、ほんとにここだったのかしら。。。


すぐまわりはほんとにビル街。


あ、ダンプトラックの前面て獅子頭に似てる!


この辺りは宅急便会社のコーナーのようで、ユニフォーム着た人たちが作業していました。クール宅急便?


ハカリ・レジスター・冷凍冷蔵庫・料理道具などのお店が並んでいます。


伊藤ウロコって何のお店だろ。。。そういえばミツウロコって会社ありましたよね。
あっ、三つ鱗って鎌倉北条氏の家紋なんだ。ふううーん。へええーー。


この辺りにいた時に、三脚を持った年配の男性に「写真撮ってるの?」と話しかけられ、
「ここを左手に奥へ回って行くと、三角屋根が見られるよ。昔は時計台もあったけど」と親切に教えてくれました。
「でも、もう閉めちゃうみたいだから、今日はもう無理かも。。」と言うと笑いながら、
「明日は日曜日で市場お休みだから、早く終わりたいんだよ」。

きっともう長いこと、築地の写真撮ってる人なんだろなあ。

ここのページの下の方にある築地写真館で、活気のあるおさかなパラダイスの時間帯の写真が見られます。
こういうのはやっぱり、通い慣れたなじみの人じゃないと撮れませんね。
あー、、市場の人がすごくいい顔して働いてる………。

最近こういう写真見るとうるっとくるの、年のせいですかね?あうう。


おじさんが言ってた三角屋根が何のことだかわからなかったんですが、帰って調べてみたら、
どうもこの右端に見える屋根のことのようです。
市場創建当時からある三角屋根の棟がズラッと並ぶのが、築地の有名な眺めなんですね。
屋根、もっとちゃんと見とけばよかった。。


心残りながら場内を出ます。大体どっか行って、帰ってから色々調べて、また行きたくなるんですよね。
事前調べだけだと、やっぱそんなに細かく覚えられないんだよなあ。一回でも見ると印象に残って覚えやすいんだけど。

ここからまた場外の写真です。




じす・いず・あじあん・たうん。


ビルとビルの間が空き地になってて、壁が丸見え。年季の入った配管がなかなかインパクトありますね。




森のなかまが目ざとく見つけた銅葺きの壁。緑色になっているのは緑青(ろくしょう)がふいたからだそうです。

この銅葺きの建築物は、関東大震災後に流行ったそうで、銅に殺菌作用があるので家の木材の持ちがいいらしいです。
火災にも強そうですよね。寺社やお城の屋根瓦が銅で葺かれることが多いようです。
こうして見るとなかなか味わい深いものがありますね。




海老の大丸。エビ専門店かしら。。。


こちらも銅葺きのお店。築地は多いようで何軒か見られました。
写真撮るの忘れちゃったけど、葺いたばかりでまだあかがね色した家もありました。ぜんぜん違う雰囲気!


理容室。あのぐるぐる看板が一個斜めになってるのは、立てるスペースがなかったからなんでしょうか。
朝の仕事終えたあとにでも、カットしに来るのかな。うとうとしながらさっぱり。



夕方で外に出てる人少なかったけど、やっぱり人が暮らしてる町は生きてる感じがします。
家でも町でも住んでる人がいないと、なんとなしに荒れさびれちゃうんですよね。
そういえばかなり暑い日だったのに、魚介の匂いはするけど夏恒例の生ゴミ臭はしませんでした。
その辺は特に気をつけてるんだろなあ。

築地本願寺へ続く。ごいーん

築地場外市場

2016-07-05 14:33:03 | 東京の町
いよいよ築地!今回は場外市場の写真です。

築地には場外と場内があるそうで、場外は商店街のように小売店や飲食店などが軒を並べていますが、
場内は門から入るようになっていて、中が広々としてトラックや荷物を運ぶ小さなカートが行き交ってる感じです。
どちらも一般の人でも入れるけれど、早朝の時間帯は仕事で買い付けに来てる人たちが多く、殺気だってるらしいので、
観光には十時すぎてからの方がよいようです。
私が行ったのは夕方の四時頃で、場外のお店はほとんどシャッターが閉まり、人影もまばら。
白衣を着たおじさんたちが路地の喫煙所とかでまったりしてました。


この辺りから場外市場のようです。通りをはさんで向かい側はオフィスビルの並び。


この時間になってもやってるお寿司屋さんは少ないようです。立ち食いがいかにも築地っぽいですね。




シャッター閉まりまくり。けど、何かすごく活発に動きがあった後のような雰囲気が。。嵐のあと?




奥に見える「マコ」という喫茶店の看板には「珈琲・雑煮」と書いてあります。オールシーズンお雑煮?真夏も??




しゃがみこんでスマホをする若者のマナーはあんま好きませんが、こうするとなんかニューヨークのダウンタウンみたいで絵になるな。。。






白衣が仕事着なんですね。お寿司屋さんがいっぱい!

さてここで、唐突に築地の歴史まとめ。

築地場外市場の公式ホームページに書いてあったことをダイジェストにすると、大体こんな流れになります。
築地豆知識を人に自慢したい時には、一応原典にあたってください。間違ってても責任は負いかねます。免責!免責!


明暦の大火で被災した本願寺が、門徒たちが埋め立てた築地に移転してくる。
この頃はまだ築地とは呼ばれず、南小田原町と名づけられる。ほぼ寺と墓地。

現在の築地市場にあたる場所には老中松平定信の下屋敷があり、隠居後に浴恩園という豪著な庭園をつくる。

幕末期に外国人居留地が設けられ、場所によっては洋風の町になるが治安が悪く今ひとつ、明治32年の条約改正時に廃止になる。
堀田家中屋敷に軍艦教授所ができ、勝海舟が学長相当の役につく。
明治維新後、新政府のもとで浴恩園の跡地に海軍省がつくられ、庭園の大池が艦船用のドックにつくりかえられる。
大名たちが江戸からいなくなってしまい、武家屋敷が荒れ放題になる。
五千坪の屋敷跡を大隈重信が買い取って邸を建て、後の有名人多数が寄宿して梁山泊と呼ばれる。

関東大震災後に区画整理が行われ、晴海通り開通で町が分断される。
震災で焼失した日本橋魚河岸が移転してきて、海軍の用地に東京都中央卸売市場築地本場(場内)ができる。
本願寺の墓地が移転した跡地に水産物商などが入り、場外市場が形成される。世界一の水産物流通量。
東京オリンピックの頃に築地川が埋め立てられ、町名が築地に変わる。


つまり、さらに大ざっぱにまとめると築地は

寺&武家屋敷→外国人居留地→海軍→市場

という風に変わって来たわけなんですね。なんという変わりっぷり!
(※細かくは、全体が一斉に変わるのではなくて、部分ごとモザイクのように変わっていったようです。)

          

私は、築地は江戸時代からずーっと魚河岸だと思ってたので読んでビックリしました。
場外入ってすぐぐらいの所に、高い塀に囲まれた狭い墓地があってちょっと驚いたんですが、
むしろあの墓地の方がもともとだったのか。。。
ていうか高野山や比叡山のように、本願寺を総本山とする、浄土真宗の寺町みたいな感じだったようです。
関東大震災後に墓地の多くは移転してしまうんですが、墓地の跡地で商売すると繁盛するというジンクスがあったそうで、
お店がいっぱいできたんだそう。森のなかまは「そうでも言わないとお店が入らないからでしょ」というんですが、
じっさい築地は水産物流通量が世界一になったぐらい繁盛したんだから、そのジンクスほんとかも知れん。。。
とくに悪気のないさびしがりの幽霊がおいでおいでしてるんですかね。



上のホームページには面白いエピソードがいっぱいのってるんですが、たとえば武家屋敷の多かった頃は、
そこを目当てに問屋や仲買が集中し、御米蔵(おこめぐら)の周辺には搗米屋(つきまいや・精米する所)が沢山できたけれど、
海岸地のため米がふやけてしまうので、浅草の蔵前に移転したんだそうです。そうか、それで蔵前っていうのか・・!
(ちなみに当時の精米は大変に手間と人手のかかる作業で、農閑期に地方から来る出稼ぎの人が多く働いていたそうです。)


焼肉屋さんもあるぞ。築地で働いてる人向けでしょうか。たまにはお肉も食べなきゃね!



築地の外国人居留地は今ひとつ受けが悪かったようで、当時栄えていた横浜に行ってしまう人が多かったようです。
これ、なんとなくわかるような気がするんですが、アメリカから開港を迫られた時に、幕府は東海道の直結していた神奈川宿・神奈川湊を避けて、海岸の寒村にすぎなかった横浜村を指定し、だからほとんど何もないような所に一から新しく港町を造ったわけだけれど、築地は武家屋敷や本願寺の寺町で江戸の要所として栄え、すでに土着の住民コミュニティががっちり出来上がっていたような土地だから、やっぱり新参の、しかも異邦人には相当なじみがたかったんじゃないのかなあと。。なにせまだ開国したばっかですしね。

でも、横浜駅や新橋駅と同じ人が設計した築地ホテルが開業し、火事で焼失するまでのわずか五年ながら、名所として有名になり、
浮世絵などに描かれているそうです。へええ、この建物面白い!
でも、時代の趨勢に合わないと、たとえ評判になっても廃れてしまうもんなんですね。ああ、今も残ってたらなあ。。。

あと謎なのが、幕末に大名たちが江戸からいなくなって、武家屋敷が荒れ放題になったっていう話。
あんまり荒れすぎちゃって、武家の土地に桑畑や茶畑作れと幕府から奨励が出るくらいだったそう。
アメリカが商売の上客として当てこんでた大名たちがすっかりいなくなってしまい、居留地の衰退に拍車がかかったらしいです。
この間行った青山の根津美術館も、もとは武家屋敷だったのを東武グループのえらい人が買い取って庭園にしたものだったし、
なんでそんなに一斉に裾からげて逃げるみたいに江戸から消えたんだろ。。大名ミステリー。


この形の駐車場、ちょっとなつかしくありませんか?こんなの流行った時期ありましたよね。昭和っぽい。






暑い中、地中を掘って何かの工事をしていました。ほんとは作業してるおじさんの姿とかも入れて写真撮りたかったけど、
なかなかこう、気おくれして撮れませんで。。。でも、入ると写真が生きるんですよね。町のメンテナンス部隊だよ〜




このガラス戸を見かけることも珍しくなりました。




ガチガチの鉄っぽくて重そうなおっさん自転車。現役かしら。。荷台が広く作ってあるのがいかにも市場らしい感じ。



と、こんな感じで築地場外市場、絵になりますでしょう。
これでも候補写真から結構けずったんですが、気に入った写真が多くて悩みました。自画自賛。
ほんとにこういう町は撮ってて飽きが来ないです。歴史や生活が見える町。
場内へと続く。まだまだ。

歌舞伎座から築地まで

2016-07-03 20:53:50 | 東京の町
好きな人はこのポスターの絵を見ただけで、何の演目なのかわかるんでしょうね。
土曜日に歩き回った銀座周辺の写真です。今日は歌舞伎座から築地までの晴海通り沿いの写真を。

しかし今日の暑さはすごかったですね。。梅雨終わっちゃったんでしょうか。
去年は梅雨明け急に暑くなって、お盆辺りから急に涼しくなってほっとしたけど、今年はどうなることやら。。。


三原橋交差点すぐにある歌舞伎座。今の歌舞伎座は五代目なんだそうです。
でも歌舞伎座って江戸時代からあると思ったら、出来たのは明治時代。
そういえば外国人向けに、当初からトイレが洋風だったとかいう話を何かで読んだような気がします。


後ろにそびえる高層ビル。こういうの腰巻きビルとかいうんだっけ。




久々の大都会な景色がすごく新鮮に感じます。


晴海通りと交差するように下を走る高速の上には、築地川公園があります。築地川が埋め立てられて今の首都高になったようです。
築地の歴史を調べてみたら、これがすごい面白いんですよ…!
こんなに激しい変遷を経て来てたのか。知らなかった!!

築地はその名の通り、もとは海であったのを埋め立てて出来た土地で、明暦の大火で被災した横山町にあった本願寺の移転のために、佃島の門徒たち(浄土真宗の信者のこと)が埋め立てたんだそうです。

佃島って、家康が江戸に移住した時に、気に入られて一緒に移住した摂津(今の大阪)の漁師たちが移住した場所なんですよね。
だから佃はもともと大阪の地名だったそうで、お祭りの風習とかが、ちょっと関東とは違うんだそうです。
で、その佃島の人たちって、結構高度な埋め立ての土木技術を持ってたようだとこの説明にはあります。

そういえば宮本常一さんによると、浄土真宗の村はまわりに堀をめぐらすことが多いんだそうで、なるほどその辺、室町から戦国時代の一向一揆に見られる村の団結力(裏を返せば排他的)や、戦闘的な姿勢などからも説明がつくような気もします。臨戦態勢の村づくりというか。兵農分離の進んでいない時代では、一向一揆は一国の軍にも劣らない武力を持った一大勢力で、大名の抱える軍隊がへたに他国に出兵したりすると下から突き上げられて逆に国がゆらいでしまうので、うかつには遠征もできなかったそうで、だから一向一揆というのは、一過性の百姓一揆みたいなのとはちょっと違うみたいです。信長とかもすごい神経質に対応してたようなんですね。

でも、そんな風に一つの村としての自主独立傾向が強いから、堀を掘ったり埋め立てたり、みんな自分たちの手でやってたと思うんですよね。
だから、そうした土木技術を持ってたとしても不思議はない。やっぱ室町時代はすごく大事なターニングポイントなんだって!

・・・ってまあ、後の方は私が勝手に考えたことなので、ほんとかどうかはわかりません。
でもこういう風に想像をめぐらすと、築地の面白さが倍増するわけなんです。


ちょうどこの辺りが万年橋。道路にしか見えないけど、下を高速が走ってます。
橋杭が石でつくられたため、「万年もつ」から万年橋と名付けられたそう。橋の名前の由来話とかって面白いんですよね。
そうそう、築地川は埋め立てた土地を取り巻く海水で、川の流れはなかったそうです。そういうのはというようです。


この築地川公園にはチロリという日本初のセラピー犬の銅像がありました。うう、えらいワンコだなあ。。よしよし。


そしてこちらも同じく築地川公園にありました拷問器具健康こみち。さっそく踏み出した森のなかま。

いででいでで!!!

一、二歩でドロップアウト。どんなもんかと私もトライしてみましたが、
健康どころか一歩進むごとにドラクエの毒沼のごとくHPがけずれてく気がするんですけど。。


こうして見るとこのシャープなとんがり具合、悪意すら感じられます。
こういうのの上に正座させて、足の上に石の板置く拷問とか江戸時代にありましたよね。ほんっとに痛いよこれ。。。


万年橋を渡った所に、松竹の巨大なビルが建っていました。そういえば歌舞伎座も松竹なんですよね。


暑い。。


道路ギラギラ。


この辺、劇場とか多いみたいですね。しかし工事関係のトラックとかいっぱい走ってたなあ。


あの柳並木が、かつての川沿いを思わせます。下は高速。

さっきリンクした橋の話によると、この道を行った先に采女橋という橋があり、そこはカワウソが化けて出たので、
日が暮れると一人歩きをしなかったそうです。行ってみればよかった。。
日本のカワウソって今は絶滅しちゃったんですよね。
でもタヌキ、キツネ、カワウソ、実際にいる動物が化ける、化かすっていうのもなんか面白いですよね。
酔っぱらいのいいわけに上手く使われたりしたんじゃないのかなあ。濡れ衣だ!


夏の影の色濃いビルの谷間。巨大クレーン。




この辺は築地四丁目。


あのあんまり日本のお寺っぽくないのが築地本願寺。こちらも築地市場内外を回った後に行ってみました。
そういえばうちの母方の実家は浄土真宗西本願寺派だったんだっけ。


おお、あれは………翼よ、あれが築地のマグロだ!

次回築地場外に続く。今度はお寿司食べに来たいなあ。ぐうう。