株式投資と邪馬台国女王、卑弥呼

"卑弥呼"と"株"。株は49年,古事記は30余年で、邪馬台国=北四国の独自見解です。

日本人が知るべき事(28) 日本のルールを再構築<9>古事記とで知る建国土器

2007-08-13 03:04:47 | 古代史・古事記講座(宇摩説)

  常識と違う、「革命の古代史、宇摩説」は、ぜひ、日本の起源を知るためにも、日本人を知るためにも、歴史が現代に役立つ証明のためにも、皆さんに読んで頂きたい。どのように役立つかは、最近のブログに書いている。

 今の歴史は、古代に限らず、生活に役立つ歴史を教えてないから、不人気なのだ。現在の邪馬台国の通説、九州説や、近畿説は全然役立たない。離れて、宇摩説の検証を読み、そこに現れる、すばらしい古代日本を知って欲しい。

 例えば、日本人が世界に出かけて友人が出来ると、友人は日本の過去を聞くだろう。これは、個人で言えば、履歴のようなものだ。履歴が話せない人は信用できないのが社会である。現状では世界中が相手にしない可能性が高い。

 日本がすばらしいのは、日本人が相手の立場や、思いを考慮するという、「和」の心があるからだ。細やかな愛情は、母の愛のように、世界中で受け入れられる。顔が似ていても、中韓との大きな違いである。



 さて、倭人伝に、「旧百余国、漢時有朝見者、今、使訳所通三十国」とあり、この、百余国が、三十国になったのは、混乱期に戦って統一されたためとされる。この解釈にも、宇摩説では疑問を持っている。

 この国の減少は、記紀の「イザナギ・イザナミ」の、離反による、分裂だろうと考えている。黄泉の国に帰ったイザナミは、「著書1」で、東日本に帰ったものと解いている。東の国の首都は、栃木だろうとしている。

 卑弥呼の共立前には、弥生の青銅文化が花盛りで、糸魚川~浜名湖線と呼ばれる、日本の東西文化の西側の国であった。この時の国の数が、三十国だったことになる。この間、東西文化に分かれて、発展する。


 つまり、稲作の始まった弥生時代(古事記の最初)は、稲作指導で、飢饉の減る様子を知り、東日本にも縄文晩期から広がり、現在の日本全域が、話し合って統一した時だと思っている。この時の国が、百余国である。

 全国統一した証拠は、東京本郷弥生町で発掘された、「弥生土器」である。明らかに、東の国で弥生土器が出ている。これは、弥生時代に入ると、少なくとも関東以西は政治的に統一されていた事を示している。

 稲作の普及による、飢饉の克服は、東の長老(王)にとっても、好い話であった。この稲作普及の国家作りに乗って、東の長老が賛成して、娘(イザナミ)を妻として、東も加わり大統合がなったと見ている。

 こうなると、イザナギ・イザナミは、最初の建国の時と、数百年後の、卑弥呼の時代の木花咲耶姫の話が重なっていると、見られる。最初の統合参加と、次の統合が同時に書かれていると思える。このために個人名でないのだろう。

 考古学的には、東西文化が融合を、示すのは、縄文晩期の磨り消し土器当りからで、共通性が起こる。土器の形も弥生時代の3種に似てくる。この頃、東日本は稲作の試験的時期であろう。

 この後、東日本には、弥生時代を代表する文化の青銅器の普及が無い。つまり、イザナミの帰郷によるものだと、私は理解している。たぶん、まだ、稲作が西日本ほど、上手く育た無い地域があった事が、一つの原因であろう。

 西日本で青銅文化から、鉄器へと移る間、東日本では、この弥生初期の文化が続くことになる。この後、木花咲耶姫が、宇摩に来て、一気に弥生後期の文化が伝わ利、再統一される。

 この姫の神社は、先に書いたが、「浅間(アサマ、少し宇摩・摩)の意味だ。「少し、宇摩」で地域の人が、木花咲耶姫と理解したのは、関東では宇摩に行った姫として有名であり、知れ渡っていたためであろう。

 後の、この神社は、朝廷との絡みで、「センゲン」と変える。
 朝廷の高天原隠しの一連である

 イザナギ・イザナミの国生みは、瀬戸内海を中心に書かれているが、本当は、弥生土器から関東まで行ったものだろう。または、長老の一言で、統合に反対者は居なかった可能性もある。

 イザナギとイザナミの破綻で、分離した東西は、400年前後、分断された生活を送ることになった。

 これが、卑弥呼の時代に再統一されて、この功績で、卑弥呼は、天照大神となり、日本の最高の女神となった。卑弥呼と天照大神は共に固有名詞ではない。したがって、大統一の達成時期は、倭人伝から,壱与の時だった。

 卑弥呼の事業を引き継いだ、壱与も、天照大神の名を継承したと見てよいだろう。再統一に尽力した卑弥呼も、もちろん含まれる。が、問題は、太鼓台が、西日本しかないことだ。

 私は、最初の統一から数百年の間に、寒冷地でも育つ稲の改良があり、東日本は、この稲で、太鼓台は不要だったものと思う。また、東日本は長老(王)が、シッカリまとめていた可能性もある。

 だから、長老の決断で、西に統合して、東日本に問題は起きてなかった。したがって、太鼓台の派遣は必要なかった。このように思う。

 以上が、卑弥呼の前の状況を、古事記と倭人伝、考古学で解いた宇摩説の新しい補足解明である。これらは、いずれは、古事記の解釈本に取り入れる予定である。

 なお、伊勢神宮正殿の下にある白石は、ストーンサークルだと、著書1に書いている。東日本の文化を伊勢神宮は継承している。

 また、西日本にはほとんど無いのに、四国には「笹が森」と、東日本に多い、「森」と呼ぶ山が残るのも、東日本と四国が無縁でないことを示している。

 このように判ると、平安時代の関東の将門の乱と、四国の純友の乱も、今日解いた当りに起因する乱のように思えてくる。共に、古代の東西の王が居た地域に近い。無縁では無いと思える

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