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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その9)日本が珍しい宝石の島というイメージは台与の朝貢からだった

2022-07-06 05:44:15 | 古代史
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5.大国主と台与の謎
⑥日本が珍しい宝石の島というイメージは台与の朝貢からだった

前回見たとおり、大国主は安心院町佐田地区で倭国王になって最初に国造りを始めました。ここで米神(首長霊)に感謝とご加護を祈る儀式を行い、この地を最初の都に定めました。恐らく、部下を一部残して国造りを続けさせて、大国主は台与を伴って投馬国を視察したと思います。魏志倭人伝に五万戸とあったので、周防灘に面した福岡県東部や北九州市と遠賀川流域を含めて考えています。実際の戸数はかなり誇張があると思いますが、列島最大の交易・流通センターのあった奴国は二万戸でいいと思いますが、投馬国は奴国に次いで、多くの人が集まった地域だと考えています。この後も半島とのつながりがあるようですので、大国主は、半島南部の倭人をこの地に入植させたと考えています。

北九州市小倉南区城野遺跡では弥生時代中期後半ころから玉造りが盛んにおこなわれており、赤色チャート、玉髓(ぎょくずい)、ジャスパー、メノウなどの石材と伴に大量の石錐などが出土しています。九州では後期終末から古墳時代初期の糸島市潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡と共に玉造り工房のある代表的な集落として知られています。出雲石と呼ばれる花仙山産の碧玉製勾玉が出土していますので、年代的にも大国主が運び込ませたものだと推理できます。その他、京都府奈具岡(なぐおか)遺跡などの山陰から北陸にかけて存在する玉造り工房とともに城野遺跡では列島内でもかなり早く玉造りが行われた集落です。伊都国へは大国主や台与の父の息長宿禰王が九州に玉造り職人を呼び寄せて、対外交易を行ったと考えています。

265年に司馬懿の孫の司馬炎が魏から帝位を禅譲され西晋を建てました。翌年266年倭女王の台与が朝貢を行ったことが魏志倭人伝に以下のとおり記録されています。

壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹 (台与は倭の大夫で率善中郎将の掖邪拘等二十人を遣わし、魏使張政等を帯方郡に帰還させるために一緒に送った。そして、魏の朝廷に詣り、男女の生口三十人を献上し、穴をあけた白珠(真珠)五千個、青い大勾玉二枚、異文雑錦二十匹を貢いだ。)」とあります。

台与の朝貢は西晋皇帝へのお祝いですから、親晋倭王として引き続きよろしくお願いしますという意味で、倭国としては精一杯豪華な貢物を献上したのでしょう。ですから青い大勾玉は、糸魚川でしか採れない珍しい天然青ヒスイと考えられます。つまり、台与の一族が越を支配していたからこそ献上できたということになります。

糸魚川天然青翡翠(ヒスイ)勾玉


もしも青色の勾玉がガラス製ならば、火山は263年に滅んだ蜀の領土だった四川省峨眉山がありますし、朝鮮半島の北に長白山(白頭山)もありますから、勾玉に加工はされていないとしても、青色のガラス玉は、大きさにもよるでしょうが、魏や西晋でも珍しいものではなかったと思います。倭国としては、西晋の人々にとってとても珍しい天然青色ヒスイの大きな勾玉二個を目玉?として送ったと考えるのがいいと思います( ^)o(^ )。

これらの貢物によって、その後の中国では日本を珍しい宝石が採れる国と考えられるようになったとあります(王勇「中国史のなかの日本像」農山漁村文化協会 2000)。隋書 俀国伝に「魚眼精」という鶏の卵大の青い勾玉の記述があります。その文章の直前に阿蘇山の話があるので、ガラス製の勾玉と考えたくなりますが、それを倭国が献上した記録はないので、やはり台与の献上した勾玉のことでいいと思います。

そして、応神天皇を即位させた神功皇后も越・近江を支配する息長宿禰王の娘ですから、神功皇后は台与がモデルということです。記紀では神功皇后は斧・鉞(まさかり)を武器にして敵を蹴散らした女傑となっています。後でまた述べますが、糸島市平原遺跡の女王墓の棺の上に素環頭太刀が置かれたことは、太刀を持って奮戦して殺された台与の史実を示唆するものです。そこから、神功皇后が女傑のイメージとして創作されたということでしょう(「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?」参照)。

神功皇后は仲哀天皇の熊襲征伐にあたり、敦賀を出発して天皇と落ち合った場所が豊浦津(とゆらのつ、下関市長府)とあります。また皇后の妹の名が豊姫で、さらに神功皇后が豊浦津で拾った如意の珠は、山幸彦が竜宮城で貰った潮満玉と潮干玉を連想させるものです。山幸彦の妻が豊玉姫で神武天皇の祖母に当たるとして、トヨという名が神功皇后の周りに数多く登場します。ここからも女王台与をモデルに創作されたものだと考えられます。

それから、正始八年(247年)に倭国への二人目の魏使の張政が到着した時すでに卑弥呼が死んでいて、男王が立って殺し合いになり約千人が死んだとあります。その後、張政の進言で台与が女王に立てられたということです。張政は266年に台与が朝貢するまで倭国に滞在していたと考えられます。ですからその後の大国主・台与の倭国が滅亡するまではいませんでしたが、それまでの経緯を全て知っていたはずです。大国主と一緒に邪馬台国を訪れて、径百余歩の卑弥呼の墓を目撃したと考えています。

皇帝の補佐役だった司馬懿(179 - 251年)も大国主・台与の倭国成立の真相を張政から報告されて知っていたはずです。ですから、難升米が帯方郡に無事に逃亡できたとしても、張政の活躍で難升米は用済みになったので、司馬懿の命令で暗殺されたと推理できます。親魏倭王の金印はどこに行ったのでしょうか? もしも、司馬懿の手に落ちたとすると、台与に渡すとなると、その経緯を説明しなければならないので、そのまま鋳潰されるはずです。その場合は、金印は永遠に出てこないということですね。

歴史にもしもはないでしょうが、難升米があの時、張政と一緒に帯方郡に逃亡していたら、難升米の運命も違っていたし、日本建国の様相もその後の歴史も、随分と違ったものになっていたことでしょうね(^_-)-☆。

張政は司馬政権の指示で倭国に滞在し、二十年近く大国主の外交顧問として活躍したのでしょう。帯方郡址の墳墓から太守張撫夷という塼が発見されているので、東夷の倭国を長い間手なずけた功績で、下級役人から太守にまで出世したということだと考えられます。

【検証23】魏使張政って?!


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通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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2 コメント

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Unknown (nekono-hironya)
2022-07-06 06:51:32
吉野ヶ里遺跡で、勾玉作り体験してきました。日本の歴史は、漫画や小学校の教科書から興味持ったのですが、卑弥呼の話しの次が大和朝廷の古墳時代の話しでした。
空白の100年間に何があったのでしょうか。
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Re:Unknown (刮目天 一(はじめ))
2022-07-06 08:38:39
いいコメントありがとうございます。
それはいい体験でしたね。わたしもやりたいな( ^)o(^ )
そうなんですよ。3世紀の魏志倭人伝から4世紀末の倭の五王までシナの記録がないのです。日本書紀は応神天皇から仁徳天皇となっていますが、その間に何代か天皇が居たはずです。

以前「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」で話題にしましたがウジノワキノイラツコが宇治天皇だったと思っています。

さらに、天皇があと最低でも一人は居たはずですよ。その時代は、物部氏・尾張氏のニギハヤヒ系の大王と、和邇・息長氏・葛城氏などのスサノヲ・大国主系の権力争い・主導権争いが激化したとみています。これが落ち着くのが五世紀ですが、すぐにまた抗争が続きます。最終的に七世紀いっぱいまで続いて、ニギハヤヒ系の勝利で終わります。こういう見方で、順に真相を調べて行けば分かっていくと思います。

ですから、まだまだ日本の古代史はこれからですよ。アブダクションの手法で、目からうろこの大発見に、是非挑戦してみてください(^_-)-☆
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