刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

広い意味の邪馬台国東遷説でした(^_-)-☆

2024-01-27 20:35:57 | 古代史
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とてもいい動画がアップされたので、早速コメントしましたら、別の方からコメントがあり、議論できました。古庄様をはじめ皆様に感謝いたします。長いですが、よろしければお付き合いください(;^ω^)



刮目天
とても興味ある話題をありがとうございます。
先日、岡上佑さんの「史料批判からみる邪馬台国所在地論争への結論」が季刊・邪馬台国 144号に掲載されたので早速入手して、議論させていただきました。論文の内容はとても深いので大変参考になりましたが、結論が今回の古庄さんと同じ投馬国出雲説でした。邪馬台国は明示されなかったと思いますが、以下のような考古学の成果から反論させていただきました(詳細は「投馬国出雲説はどうなの?」参照)。

三世紀前半の卑弥呼の時代に中国地方(・四国地方)西部から東側の地域と北部九州が相互に行き来して交流していた痕跡が見当たらないのです(二世紀末の倭国大乱期には畿内・山陰の土器が狗奴国の官狗古智卑狗の拠点集落であったと考えられる菊池川流域の方保田東原遺跡には見られますが、三世紀半ばまで九州の土器が、刮目天が調べた限り、その東側の地域には出土していないのです。また、伊都国の一大率は女王への外国からの贈り物を間違いなく届ける役割があるというのがフェイクでなければ、一大率の部下が邪馬台国に行っていなければなりません)。しかも纏向遺跡には東海、吉備や山陰などの外来土器が数多く出土しています(時期に拠りますが外来土器が20%近くあった、詳細は「【検証11】定説の根拠を疑え」参照)。



これらのことは、ヤマト王権発祥を示す纏向式前方後円墳での祭祀に北部九州の人々が参加していなかったということですので、北部九州の倭国と纏向遺跡を中核とする勢力とが敵対関係にあったことを意味しています。つまり上述のとおり二世紀末の倭国大乱期は狗奴国の官が菊池川沿岸や大野川沿岸部などに軍事拠点を築いていたのですが、三世紀初頭の卑弥呼の登場時期に熊本・大分の狗奴国の勢力は纏向遺跡にも帰還していないのです。



そして卑弥呼の死の直前に狗奴国との抗争の話を倭国側は魏に報告したので、二人目の帯方郡使張政が派遣されて難升米に魏の正規軍の軍旗と詔勅を渡しています。卑弥呼はすでに死んで径百余歩の冢に葬られ、奴婢百余名が殉葬されたとあります。
こういう出来事を上の考古学の成果を合わせて考えると纏向遺跡に狗奴国王卑弥弓呼が居て、倭国追討軍を送ったと考えるのが自然です。つまり纏向遺跡が狗奴国の本拠地で、出雲や吉備から東側の勢力が狗奴国側の勢力と考えられるのです。この辺りの話は伊藤さんの「倭国大乱」の動画でやり取りさせていただきました(詳細は「倭国大乱が分かれば邪馬台国も分かる!」参照)。お邪魔しました(;^ω^)


ありがとうございます
今回こんな動画を出しておりますが別のところではこんなブログを書いております
https://anisakuayataka.blog.fc2.com/blog-entry-90.html
狗奴国に一番ふさわしいのは大和王権であると思います
私の場合 ミクロ的に見ればああも思える こうも思える となっておりまして 実はマクロ的に統合する自説は未だ持てておりません
なので 結果的にフラットにあちこちの比定地を語り そのためいろんな方が見てくれているという現象が起こっております

なお 一大率の役人が邪馬台国まで随伴し、結果出雲のみならず丹後にも九州の痕跡があるはず、というのは慧眼だなあと思いました
そうした矛盾を統合するものが私にはまだつかめないですね、九州と本州は断絶してますよね 確かに。


有難うございます。いろいろ面白い話で、いつも勉強させていただいています。またよろしくお願いいたします。

先ほどたぬきさんからコメントいただいたのでお返事しましたが、たぬきさんはドロンしました。ついでですので、以下にコメントを残させてください。

たぬきさん コメント有難うございます。前方後円墳は纏向遺跡の狗奴国の勢力のものです。
三世紀の後半、それも270年ころだと思います。

卑弥呼は247年ころ死んでいます。その直後に男王が立ち、千人が殺し合い、13歳の台与を卑弥呼の跡に立てて収まったと魏志倭人伝にあります。13歳ですから自ら女王に立つはずありません。戦いの勝者が卑弥呼の宗女として外交上倭国女王に立てて、魏を後ろ盾にして狗奴国と対立したと分かります。



この事件は日本書紀で仲哀天皇の熊襲征伐になると推理しました。ただし、仲哀天皇は父の日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になりますから、杜撰な作り話です。モデルとなる実在人物が居ます。この戦いでその勝者は仲哀天皇のモデルを殺して倭国王に立ったのです。そして265年魏から帝位が西晋に禅譲されたので翌年台与が珍しい品物を沢山持って朝貢したと推理しています。

ですからその後に狗奴国勢が裏切った勢力を討つために再び北部九州を遠征します。日本書紀では景行天皇の九州遠征にしています。実は孫であるはずの仲哀天皇の子供が景行天皇というデタラメな話になっています。そして、景行天皇のモデルが纏向に凱旋して、直ぐに、北陸・東国・丹波・吉備を攻撃して日本が統一されます。日本書紀は崇神天皇の四道将軍の話や日本武尊の東国遠征の話など応神天皇即位までの約350年の話に引き延ばしています。それは古墳時代初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて、実際は270年ころの史実だと分かりました。

ですから、那珂八幡古墳や赤塚古墳や石塚山古墳などの九州の前方後円墳はそのころの狗奴国側の武将の墓になりますよ。詳細は「日本書紀が隠した日本の建国」を参照してください(#^.^#)


@user-zh7rw3go2d
4 時間前
岡上さんの東遷説に乗り換えたので私が少しだけお答えしますと😂

三世紀前半に山陰と北九州の交流した痕跡が見当たらないというのは、
私がコメントした女王国の東の海の件と被りますが九州から東のことはよくわかってなかったのでしょう😅

纏向遺跡から北九州の土器が見当たらないというのも東遷したとしたら九州は狗奴国の勢力圏ということになりますので当然北九州から纏向への人の移動は少なかったのではないかと推察致します。

纏向が狗奴国で九州の倭国追討軍を送り九州の邪馬台国を滅ぼしたという仮説も、
まず考古学的に鉄器の出土状況は九州優勢で、古庄先生がよく演技されてますが😂伊都国が鉄の輸入の地政学的重要地点であり、
鉄器で劣る畿内が九州に戦争を仕掛けてもまず勝ち目はないでしょう😅
親魏倭王で冊封されてますから戦争になれば中国からの支援もありますので😅
纏向の年代を記紀のどの時代に比定するかですが、崇神天皇の没年がたしか干支から258年説と313年説のの二つがあったと記憶してますが、
前者の258年説をとればまさに邪馬台国の時代とほぼ被りまして、崇神天皇の時代に四道将軍を各地に派遣してる段階ですので九州に一極集中で戦力を投入できる段階でないと考えます😅

まああと狗奴国は女王国の南にあると魏志倭人伝には記載されてますのでまた東に読み替えなければならないちょうど古庄先生の本動画のような問題も生じてしまいます😅

ということで私は岡上さんの東遷説を支持することにしたわけですが、
岡上さんは卑弥呼が東遷したと言ってましたが私は台与です笑 そこだけは意見は食い違うのであしからず😂


オグリさん、議論に加わっていただき感謝します。

最終的に狗奴国王卑弥弓呼(日本書紀の崇神天皇)の王都纏向遺跡でヤマト王権が成立していますので、広い意味の邪馬台国東遷説ですが、みなさんの考えているような神武東征や神功皇后の東征で見られる九州の勢力が武力で纏向遺跡や狗奴国勢を平定した神話は史実を隠すために作られた真逆のお話だと突き止めています。じっさい、纏向遺跡は環濠集落でもないし、三世紀の戦乱の痕跡もありません。

日本書紀完成時の権力者藤原不比等にとってヤマト王権成立過程が都合が悪いので史実を誤魔化すために神武天皇や神功皇后の話が創作されたのです。上で述べたように崇神天皇の四道将軍から景行天皇の九州遠征、日本武尊の東国遠征、そして応神天皇即位までの約350年の話は、三世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると遠征ルート上に矢戦の痕跡が見つかり、古墳時代初頭の史実通りだったことが判明しました(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。270年頃の話です。

仲哀天皇の熊襲征伐で崩御する話は247年頃の卑弥呼の死後の千人が死ぬ内戦の勝者が仲哀天皇のモデルとなった尾張王を討ち、倭国王に立ち、外交上卑弥呼の跡の女王として13歳の台与を立てて、魏を後ろ盾にして纏向遺跡の狗奴国王卑弥弓呼と対立したのです。詳細は「日本書紀が隠した日本の建国(^_-)-☆」を参照してください。最終的に、劣勢のヤマト勢が倭国を滅ぼしたのですが、魏の後の西晋が280年に呉を滅ぼしたので、神功皇后台与の倭国を滅ぼした仕返しを怖れて応神天皇(大田田根子)を纏向遺跡に呼び寄せてヤマトの祭祀王にしたのです。

箸墓は大物主の妻ヤマトトトビモモソヒメの墓ですが、女王台与が被葬者です。たった13歳で大国主の妃にされて、最期は伊都国でヤマト勢に殺された気の毒な姫ですから(平原王墓の被葬者)、ヤマトとトビ(蛇神大国主)を恨んで何度も何度もつぶやくお姫様という名前なのですよ!

纏向遺跡を邪馬台国(ヤマト国)と呼ぶことにしたというのが真の邪馬台国東遷説でした(^_-)-☆

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王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆






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