刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

日本の歴史の始まりはこうだ(その5)

2021-09-29 15:50:59 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング
一部、赤字で修正したものをアップしました。今後つづきを書いてゆく予定ですので、またよろしくお願い致します。

今回は二世紀初頭(弥生後期後葉)の奴国宮廷楽師らのクーデターによる奴国滅亡後の伊都国時代について見てみましょう。

伊都国に王都を遷した師升一族の倭国と楽浪郡との対外交易ルートは、少し後の三世紀の倭国の様子を書いた「魏志倭人伝」の帯方郡と倭国との経路と少しだけ異なりますが、今後も倭人伝ルートと呼ぶことにします。つまり、卑弥呼が女王になる前の伊都国時代は、伊都国から末盧国・壱岐の後、対馬を経由せず、直接楽浪郡に向かうルートがメインだったと思われます。対馬を経由したとしてもその後は狗邪韓国(釜山)や勒島に立ち寄らず半島の南岸を横目で見ながら、半島西岸を回って楽浪郡に向かったと考えています。

奴国時代から対馬経由で半島南部に渡り、洛東江を北上して楽浪郡に向かうコースとその逆コースが通常の交易ルートのようでしたが、師升王の倭国は半島南部が旧奴国勢力に抑えられているのでそのルートでの交易は出来なかったということです。師升王は107年に後漢から王と認められるために大船団を組んで朝貢し、成功したようです。従って、後漢を後ろ盾とする楽浪郡との交易の方を重視し、敵対する旧奴国勢力の半島南部は放置していたと考えられます。

その中継点が壱岐の原の辻遺跡です。久住猛雄「3世紀のチクシと三韓と倭国」ふたかみ邪馬台国シンポジウム17によれば「弥生後期から終末期において、壱岐の拠点集落である原の辻・カラカミ遺跡に楽浪郡や三韓土器が集中しているが、伊都国の沿岸部と中枢では楽浪土器は多いが相対的に三韓土器は少ない」とあり、半島南部の人々は上述のとおり旧奴国勢力なので、壱岐までは来ることはあるが、敵対する伊都国には来ることが出来ないということなのです。

結構誤解があるのですが、当時の半島南部は韓人の世界ではなく、旧奴国勢力の倭人が支配する領域だったのです。(注1)

勿論、秦(辰)韓人も倭人が支配する弁辰に入り込んで倭人と一緒に鉄を取っていたと三世紀の様子が「魏志倭人伝 韓伝」にありますが、山陰・丹波王の久々遅彦(狗古智卑狗、クーデターを逃れたイタケル王子の直系の首長が代々久々遅彦を襲名したと考えています)がスサノヲ大王時代の縁故によって鉄素材を入手できたと考えています。二世紀前半から列島に沖ノ島経由で鉄素材を運ぶのはイザナミの一族の縄文海人ムナカタ族でしたので旧奴国側の勢力でした。

弥生中期後半から活発に行われていた半島南部の勒島と奴国に属する伊都国との交易が廃れ、楽浪郡・壱岐原の辻・伊都国三雲間が正式な対外交易ルートに変わりました。伊都国の王都とされる三雲遺跡の番上地区で楽浪郡の土器が集中して見つかっており、華僑の居住区と推定されます。そして伊都国の深江井牟田遺跡や御床松原遺跡などで華僑が倭人と交易していたと考えられます。これによって三雲南小路遺跡に王宮を置いた倭国王は後漢朝廷や半島情勢などの情報を華僑から入手していたのでしょう。当然、倭国側の人々(王や大夫)も文字を使い、口頭でも情報交換できたと考えられます。師升ら奴国の宮廷楽師は、もともと方士徐福が龍王(奴国大王)の要請で連れてきた人々の子孫でシナ人だと考えています。(2021.9.29 赤字修正)

すでに当時の日本で漢字が使われていた証拠がいくつか見つかっているからです。

福岡市博多区雀居遺跡で見つかった組合せ机は弥生時代後期後半のもので伊都国の王宮の三雲・井原遺跡から同じ時期の硯や今宿五郎江遺跡では木簡・竹簡を入れる漆塗りの筒の一部も見つかっています。(2020.10.23 赤字追加)



更に決定的な証拠が見つかっています。1948年に室見川河口近くの西鴈で発見された「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」と書かれた文鎮状の銅片「室見川銘板」です。つまり、扶桑国(日本の古称)に住む神仙の助けで、倭国王が王宮を造り、祭祀を行い、永遠に統治できるようにしたという内容です。延光四年は西暦125年です。師升が107年に朝貢した安帝がその年の3月崩御して少帝劉懿が即位しています(【わかった!】室見川銘板のなぞ)。強く祭祀に拘っているので、おそらく師升王の時代だと思いますが、次の王の時代かも知れません。

伊都国時代の日本ですでに文字が使われて、伊都国でシナ語も使われていたということは、「魏志倭人伝」に現れる地名や人名などを倭人が直接書いて魏使に示したものであることを示唆していますので、特に重要です(注2)。

また、奴国時代の伊都国王の三雲南小路遺跡の南約100 mにあったと推定される井原鑓溝遺跡(いわらやりみぞいせき)の王墓に師升王が葬られたと思われます。

『柳園古器略考』(青柳種信著)によれば種信は聞き取り調査を行い、農民が保管していた鏡片27、巴形(ともえがた)銅器2の拓本を残している。
「怡土郡井原村に次市といふ農民あり。同村の内鑓溝といふ溝の中にて……溝岸を突ける時岸のうちより朱流れ出たり。 あやしみ堀て見ければ一ツの壺あり、其内に古鏡数十あり、また鎧の板の如きものまた刀剣の類あり。」出土した銅鏡はすべて中国製である。拓本から復元される鏡=方格規矩四神(ほうかくきくししん)鏡=は18面で、拓本に残された鏡は、多くが1世紀前半の新および後漢初期の製作で、墓の年代はこれにこの鏡が海を越え伊都国に定着するまでの期間を加えたものとなる。それはおおむね1世紀後半~2世紀初頭の間に収まると推定できる。また、出土した 豪華な副葬品から伊都国王の墓と考えられ、三雲南小路遺跡(紀元前後)より数代を経た王墓ということになる。
とあります。

弥生後期後半の「この時期,三韓土器は北部九州から瀬戸内・畿内に分布するが,一方,楽浪土器には器種構成や分布の変化が起こっている。
 まず,器種をみると,物資の運搬に有利な,大きすぎない壺・鉢・杯が主体となる。このような器種構成の変化は,楽浪人の側に原因を求めるべきである。すなわち,三雲遺跡群での楽浪人の滞在という特殊な政治状況から,交易を中心とする交渉へと遷り変わった可能性がある。」
「勒島貿易と原の辻貿易」考古学のおやつ より)とあります。三韓土器が出土する北部九州は不弥国(うみこく、宗像付近)で、ムナカタ族と一緒に半島人が沖ノ島経由で瀬戸内や畿内に訪れたものと思われます。また、三雲遺跡に楽浪人が滞在しなくなるのは次の半島の混乱期とそれに伴う倭国大乱によるものだと思われます。その詳細は次回にします。(2021.9.29 赤字修正)

【関連記事】
【検証13】奴国~邪馬台国時代の北部九州は?
【検証14】奴国~邪馬台国時代のつづきだよ
古代史の謎を推理する



(注1)十二世紀に作られた正史「三国史記」の新羅第四代脱解王は奴国大王スサノヲをモデルにしたものと考えています(新羅の脱解王が奴国大王?)。脱解尼師今(57 - 80年)の後、朴氏に王位(尼師今)を戻した後、脱解王の孫伐休(ばっきゅう)が第九代王(184 - 196年)、その後も第十三代王の金氏を除き(262 - 284年)、第十六代まで伐休の孫訖解(きっかい)が王位を継いで(310 - 356年)、その後は金氏が尼師今(王)となっていたと「三国史記」に書かれています。しかしwiki「新羅」によれば「外国文献の新羅の初出記事は、『資治通鑑』巻104・太元2(377年)年条にある、高句麗とともに前秦に朝貢したという記事です」ので、四世紀中頃までの王の在位はよく分かりません。半島の古代史だ!(漢四郡まで)で見たとおり紀元前三世紀から前二世紀頃に大陸から戦争難民が大量に押し寄せるまで江南系と縄文系の倭人が半島南部を支配していましたので、「三国史記」にある王名は信ぴょう性はないとしても、四世紀中頃までは倭人の有力者が半島南部(辰韓・弁韓)を支配していたと考えていいと思います。

(注2)「魏志倭人伝」の地名や人名などは倭人の発音を聞いて魏使が書き写したということで、いわゆる卑字が使われていたのではないという主張は当たらなくなります。例えば、卑弥呼の卑はヒミコを貶める文字ですし、狗奴国も旧奴国を女王国に逆らう狗コロの奴国という意味になります。奴国はすでに57年に使われたナーガ国を意味する国名ですから、その当時の奴国王らは漢字が使えなかった可能性もありますが、伊都国時代ではその王都を殷(商)の建国を助けた有名な宰相伊尹(いいん)に因む「伊都国」と書いていますので、孟子を読む教養人が倭国に居たことを示しています。


通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング