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2021-09-04 14:25:54 | 古代史
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弥生時代に10進法利用か 基準10倍の分銅発見 国内初
毎日新聞 2021/9/2 西部朝刊

 福岡県春日市の須玖(すぐ)遺跡群・須玖岡本遺跡の出土物から、弥生時代中期(紀元前2世紀~同1世紀)とみられる石製の分銅「権(けん)」(最大長5センチ、最大幅4・15センチ)が新たに確認された。1日、市教育委員会が発表した。朝鮮半島南部で発見された権と共通の規格で作られたとみられ、基準となる権(約11グラム)の約10倍の重さだった。同規格の弥生時代の10倍権が確認されたのは国内初。市教委は「弥生時代から国内でも10進法が使われていたことを証明する重要な発見」と話している。
 遺跡群からは2020年、国内最古級となる弥生時代中期前半~後期初め(紀元前2世紀~紀元1世紀)の権8点が確認された。これらは韓国・茶戸里(タホリ)遺跡の基準質量の▽3倍▽6倍▽20倍▽30倍――にあたり、権に詳しい福岡大の武末純一名誉教授(考古学)は10進法が使用されていた可能性を指摘していた。今回の発見で、その可能性がより高まった。
 武末名誉教授によると、これまで古墳時代に10進法を使用していたと考えられる事例はあったが、弥生時代に関してはそうした観点での研究はなかったという。
 須玖岡本遺跡は、中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する「奴国(なこく)」の王墓とされ、同遺跡を含む須玖遺跡群は青銅器やガラス、鉄器などの生産工房跡も多数確認されている。当時の先端技術都市として「弥生のテクノポリス」と称される重要遺跡だ。市教委は「権は材料の調合のために正確な計量が必要だった青銅器の製造などに使われていたと考えられる」と説明している。武末名誉教授も「10進法の使用は奴国の先進性を裏付けるものだ」と話している。【上村里花】




辰砂(朱)や塩などの取引に天秤と権(分銅)を利用したと考えられます。中国ではすでに紀元前211年に秦始皇帝が度量衡の統一を行っていますので、その後の中国と周辺国との交易では秦帝国と同じ10進法を用いていると考えられます。珍しいものが産出される東夷の倭国にわざわざ楽浪郡から華僑が来ていたと考えられますので、倭人との交易のために、通訳を介せない場合も何とかして交渉する必要がありました。

既に2015年に以下の内容の記事も報道されていました。「武末氏によれば、これまで海村と内陸副葬地帯の接点があった韓国の茶戸里(タオリ)遺跡から筆、板に書いた文字を消す消しゴム代わりの「書刀(しょとう)」、てんびんの分銅が出土していた。
 加えて、勒島(ヌクト)(韓国)、原の辻(長崎)、田和山(島根)、青谷上寺地(あおやかみじち)(鳥取)の各遺跡から、石硯や研ぎ石なども出土しており、日本や朝鮮半島にあった海村では、交易の場で文字が使用されていた可能性が高まったという。」
古代日本と朝鮮、文字使い交易か 下関でシンポ 産経新聞 地方版 2015/9/6 07:06

さらに、最近の北部九州での硯や木製組机などの発見から弥生時代にすでに漢字が使用されていたと考えられるようになっています。


奴国は王族を伊都国王として派遣し、伊都国の集落を交易センター(市場)として華僑との交易の管理に当たらせていたと考えられます。ある場合は、華僑がこの市場に出入りする倭人に欲しいものをリクエストすると、それを華僑が手に入れるまでに時間が必要です。そこで取引の内容を記録し、倭国王がその取引を保証することにより契約が成立する制度があったと考えられます。伊都国の王都とされる三雲遺跡の番上地区で楽浪郡の土器が集中して見つかっており、華僑の居住区と推定されます。

つまり、西暦五七年に後漢光武帝が「漢委奴国王」の金印を与えた奴国王には、倭国でのこのような華僑と倭人との取引を保証させるためだと分かります。ですから、奴国に対する従来の、列島内に数多く存在する国のひとつという位置づけは全く誤りです。奴国王は倭国で円滑な交易を人々に与えるシステムを管理する倭国の大王なのです(【検証9】奴国時代の話(その2))。

また、三世紀の倭国の様子を記録した魏志倭人伝には「収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之」とあり、租税として取り立てた物品を収める倉庫があり、国々には市場があり、倭人たちは物々交換で交易しています。それを監督する役職が大倭です。おそらく取引税を徴収していたと考えられます。例えば取引される物品の何割かを租税として徴収していたと考えられます。

弥生時代に漢字が使われていたという事実によって、室見川河口で発見された延光四年(125年)などの漢字その他の文字が書かれた銅製銘板「室見川銘板」が偽物という鑑定の根拠が崩れました。これが日本最古の金石文になるかと思います(【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆)。

ですから、刮目天が推理した「魏志倭人伝の行程記事は漢字を知る倭人が魏の役人に書いて教えた内容に基づき、魏・倭両国の政治的な目的で邪馬台国への行程や戸数などが改変された」という仮説を支持するものとなっています。

つまり、景初二年八月に公孫氏が魏の将軍司馬懿によって滅ぼされたので、景初三年六月に帯方郡を訪れた倭国大夫の難升米が司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏と朝貢の件で会談しました。そこで、話された内容は、女王が統治する倭国が、孫呉を東の海上から圧迫する位置に在る東夷の大国という設定にすると言うことでした。それによって、倭国のことを知らない魏の朝廷の人々に司馬懿の功績が曹魏第一のものと理解させるためでした。倭国王は魏を後ろ盾として敵対する旧奴国勢力の台頭を抑える目的だと推理できます(【検証22】難升米という人物は?(その1))。

従って魏志倭人伝のこのような政治的な目的を無視して、真実を隠した行程記事をいくら真面目に読んで、正しく解釈しても邪馬台国へは誰もたどり着けなかったということなのです。

そして邪馬台国が見つからないために、卑弥呼神社がないのは卑弥呼が存在しなかったからだという短絡的な説まで登場することになって、邪馬台国問題はとても混乱しています。しかしよく考えれば、中国の正史は外交記録に基づき編纂されますので、実態はどうであれ倭国女王とされた人物の存在を完全に否定することはできません。また、卑弥呼といういわゆる卑字がそのまま神社名になるはずもありません。ですから、文献に書かれた内容の信ぴょう性については、考古学の成果などで確かめながら、推測する以外に手段はありません。

従来から、ある考古学の成果を文献に基づいて評価するのが通常の古代史解明の手法です。しかしその文献の、真実を書いたものではない可能性のある部分については、当然このような手法は使えません。ですから、それを考慮しないと様々な仮説が登場して、検証もされないと仮説は淘汰されず、一体どれが古代史の真相かを知ることができません。まさに現在の混迷した状況です。

そこで、その時代の出来事を包括する仮説を立てて、その仮説によって予測された内容と一致する数多くの事象を探して、個々に仮説の検証を繰り返し、仮説の詳細化・修正・拡張を行うことにより、その時代の歴史を推理する科学的な仮説推論(アブダクション)の手法が有効だと分かりました。詳しくはこちらでどうぞ!

【関連記事】
【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆



【検証16】3世紀後半の伊都国だよ(*^^)v



【参考記事】
第3の推論法「アブダクション」とは
RtomyL 2018年10月20日 08:31


古代中国における四則演算の成立 度量衡制度が数学の生みの親である 
宮田 義美 2018 年 9 月 20 日



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