刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

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2020-09-14 00:00:05 | 古代史
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武内宿禰の考察③(武内宿禰の長寿)
2020年09月12日 | 古代日本国成立の物語(第三部)

<中略>
仮に武内宿禰が4人の人物だったとして、この4人は全く関係のない間柄だったのであろうか。古事記において押さえておくべき最も重要な記事としておいた武内宿禰の子およびその後裔氏族について、書紀にはその系譜は記されていないものの唯一、仁徳紀において、つまり武内宿禰Dの子として平群臣の先祖である木菟宿禰の存在が記される。この人物は古事記においても武内宿禰の子で平群臣の祖先であると記される。古事記の系譜が武内宿禰Aについて記しているとすれば、武内宿禰Aの子孫と武内宿禰Dの子孫に一致する名があるということになる。そのように考えると、武内宿禰AからDに至る4人の人物は直系の関係にある、つまり親から子、子から孫へと4代にわたって大臣の役割を継承したという想定ができる。つまり「武内宿禰」は代名詞ではなく本来の「姓+役職」を表していることになる。これによって記紀の読み手は4人全てが「武内宿禰」という、あたかもひとりの人物、とてつもない長寿の人物として受け取ってしまうことになるのだ。記紀の編者がそれを意図したかどうかは定かではないが。

「日本書紀」の創作の証拠です(^_-)-☆ (刮目天 一(はじめ))
いつも興味ある話題をありがとうございます。

武内宿禰の正体は狗奴国の官狗古智卑狗だと推理しました。奴国最後の大王スサノヲの子イタケルの直系の子孫が狗古智卑狗を襲名したと考えています。武内宿禰の高齢はそのことを意味するのだと思います。

また、「日本書紀」にタラシナカツヒコ(仲哀天皇)の父のヤマトタケルが、祖父の景行天皇40年に薨去したと書かれています。その20年後(景行60年)に景行天皇が崩御して成務天皇が即位しています。そしてタラシナカツヒコは成務天皇48年に31歳で皇太子となったと書かれていますから仲哀天皇は成務天皇が即位して18年後に生まれた計算になりなります(^_-)-☆

結局、タラシナカツヒコ(仲哀天皇)は父のヤマトタケルが亡くなって20+18=38年後に生まれたということになります( ^)o(^ )(2023.5.30 赤字訂正)

つまり、景行天皇から仲哀天皇のまでの話には史実に基づく部分があるとしても、その年代は全く信頼できないということなのです。



そして、拙ブログ【検証6】倭国大乱の実相は?で述べましたが、祖父であるはずの景行天皇の九州遠征は仲哀天皇が亡くなった後の話だと考古学的に分かりました(^_-)-☆



さらにヤマトタケルは建国の真の主役を消すために創作された架空のスーパースターだったと分かります。それは伊吹山頂のヤマトタケル像の周りに大国主狗古智卑狗の本地仏弥勒菩薩の祠を二か所も作っていることからも分かります。当時の人は建国の真相を知っていたようです(*^^)v



結局、「日本書紀」の応神天皇までの天皇は創作ですよ!

ただし、ハツクニシラススメラミコト崇神天皇がスサノヲの後をついで吉備で大王になった天照大神尊ニギハヤヒの直系の子孫狗奴国王卑弥弓呼で、応神天皇を初代祭祀王にした人物ですので、崇神天皇を初代天皇(祭祀王)と見ることもできそうですが(^_-)-☆
どうも失礼しました(*^▽^*)


【参考記事】
正史は正しい歴史なのか?|д゚)
ヤマトタケルの正体は誰?(^_-)-☆

古代史の謎を推理する(^_-)-☆



最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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