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誤解と幻想の邪馬台国(´・ω・`)

2020-04-26 13:11:54 | 古代史
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多くの研究者が二百年以上かかっても、この二十一世紀の現在まで決着しないのは何故なのか?
数学者の藤井滋さんは「『魏志』倭人伝の科学」の最初に以下のような指摘をした。
「邪馬台国論者が共通の基盤をもって論争すべきであると提案したのは古田武彦氏であるといってもよいかもしれない。古田氏は『魏志』倭人伝の恣意的な語句の修正を禁じて、正当な理由がない限り、『魏志』倭人伝の記載内容がすべて正しいと考えることにしようと提案した。いまだにこの古田提案の真の意味が正しく理解されていないように思えるのは残念なことである。」
として、藤井さんはこの論争を打開する解決法を提案している。
「それは考古学や文献学以外の新しい科学を導入することである。・・・・本小文は数学の立場、数学者の目で『魏志』倭人伝を眺めてみた結果である。」
として、まず魏志倭人伝に現れる数字の解釈に関する指摘だ。概数の概念として余里の表現や「ゼロ」の概念がない三世紀の倭人や陳寿の千里の考え方を述べた後に帯方郡から邪馬台国までの万二千余里の解明を行ったのが図1だ。つまり、万二千余里は千里の単位を12個並べた距離であり、郡から末盧国まで一万余里だから、残り二千余里(千里以下の距離は誤差の範囲だから赤字で示した千五百里から二千五百里)の末盧国を中心とする同心円群の中に邪馬台国があるというのは、一里が何キロだとか、水行・陸行がどういうものかに無関係に得られる結論だとしている。



さらに、「このように簡単な邪馬台国の比定がなぜ迷路に入ってしまったのかは明白である。それは意中の邪馬台国を先ず決めたのちに魏志倭人伝を解釈しようとするためである。たとえば畿内論者は大和が邪馬台国であるという結論に到達するように、魏志倭人伝の記事を改ざんすることのみに腐心する。そのために、図1の結論を無視してしまうことになる。そしてなんの理由もなしに、「南」を「東」に修正する。」と鋭い指摘をされている。

刮目天が宇佐説だということに関わらず、ここまでの議論はほとんどの方が納得できる話だと思う。

ただ、最初に述べた「魏志倭人伝」の記載内容がすべて正しいと考えることにしようという提案にもかかわらず、正当な理由があれば修正できる余地があるという柔軟な助け船が出るのは、記載内容を正しいとするなら誰もがたどり着けるはずの邪馬台国にはたどり着けないからなのだろう。

つまり、記載内容を正しく解釈すれば邪馬台国の位置が決まるというのは重大な誤解であって、幻想でしかないのだ。だから正当な理由というのが、なかなか万人に認めてもらえない(;´Д`)

それ故、卑弥呼の名の付いた神社が一社もないのは邪馬台(壱)国なんて最初から無かったからだという説まで登場しているが、史料や考古学を無視したものだ。当時のシナと倭国との外交関係の記録が残されており、邪馬台国と狗奴国の抗争の末にヤマト王権が纏向遺跡で成立したことを示す数々の考古学的な物証もあるからだ。卑弥呼の名がそのまま神社名に残されなければならない理由もなく、別の祭神名で祀られているだろうことは容易に考えつくはずだ。

では、いったいなぜ、今まで邪馬台国の位置が「魏志倭人伝」を正しく読んでも決まらなかったのか?

答えはこれしかないでしょう。

邪馬台国は、下の図のとおり、ここに在るべきだというのが「魏志倭人伝」の真の目的であって、実際の位置は図1のどこかでしかないのを、つじつま合わせで方角や里数や日数を書き入れたからでした。これ本当!(*^^)v



だから、「魏志倭人伝」の行程記事をいくら正しく解釈してもだめで、別の文献史料(注)や考古学・民俗学・分子人類学などなどの研究成果から推理して見つけるしかない。

勿論、邪馬台国は卑弥呼が賜った「親魏倭王」の金印が眠る場所だというのも短絡的な発想でしかなく、簡単に持ち運べる遺物がなぜそこで発見されたのかしっかりとした推論がないと決められるものではなく、いつ見つかるかもわからない決定的証拠などほとんど期待できない。

だから、邪馬台国問題はヤマト王権成立過程を様々な物証から総合的に推理することでしか解決できないということですよ(^_-)-☆。

詳しくはこちらへどうぞ(*^▽^*)

古代史の謎を推理する(^_-)-☆

【参考記事】

「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^)




(注)范曄だけが「魏志の筆法」を見抜いた(^_-)-☆
「魏志倭人伝」を聖典のように考えている研究者が多いが、

シナの正史も権力者の正統性を主張するための政治文書なので、

どこに歴史の改ざんがあるのかを見抜く必要がある。

編纂者の陳寿は史官として当然、権力者にとって不都合な真実を隠したが、

歴史家のプライドから「魏志の筆法」として真相解明のヒントを後世に残した。

だが、すでに恐らく隋・唐代あたりから現代まで関係史料の原本が

戦乱などで散逸し、ほとんど残っていないので、

その知識で「魏志倭人伝」をいくら正しく読んでも正解は得られないことは、

二十一世紀になっても邪馬台国の場所が確定しないことから証明されている。

史書に書かれたものが事実かどうかも考古学などでしか検証できないので、

上の科学的な手法によって歴史の真実を推理し、検証して

解明するしかないということに気付く必要がある。


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