【宮崎勤死刑囚~家族の悲劇 被害者の陰、地獄の日々 父親自殺 改姓 離散】 2006,1,18 坂本丁次

2014-12-08 | 死刑/重刑/生命犯

宮崎勤被告~家族の悲劇 被害者の陰、地獄の日々 父親自殺 改姓 離散・・・
 中日新聞 2006,1,18,夕刊
  埼玉、東京で四人の幼女が殺害された「連続幼女誘拐殺人事件」は、発生から17年を経て宮崎勤被告(43)の死刑が確定することになった。事件が明るみに出た1989年7月、百人を超える報道陣が東京都五日市町(現・あきる野市)の宮崎被告の自宅に押し寄せた。その一ヶ月ほど後、本紙との単独インタビューに応じた父親の憔悴しきった姿が、脳裏に焼きついて離れない。
  「こんなことになって」と父親は泣き崩れた。「こんなに苦しむのなら、死んだ方がどんなに楽か」。目の前に正座して天井の一点をうつろな目で見つめ、苦しみもだえるように声を絞り出した。顔は真っ青で私たちとは一度も目を合わせることもなかった。「地獄のような苦しみ」という言葉が浮かんだ。
  「勤は幼い時、手が不自由なのを気にしていた。一時は手術させようと思ったが、手術がうまくいかない場合のことを考えてやめた。勤はその後、うまくいかないことのすべてを、手のせいにしていた」
  正座したまま途切れ途切れに息子の生い立ち、被害者への謝罪の気持を話した。父親の証言は、事件の背景を明らかにしていく上で大きな意味を持った。
  50年以上前、当時、学生だった私は2年間、週に1度被告宅を訪れて父親が出していた地域紙・週刊「秋川新聞」の編集を手伝った。
  被告が慕っていた祖父をはじめ、家族全員をよく知り、その後も個人的なつき合いは続いた。幼いころの被告の姿を見たこともある。よく父親の車の助手席に乗っていた。かわいいが、無口だった記憶がある。
  被害者、遺族の悲劇はいうに及ばないが、事件で宮崎家の家族や親類の多くも婚約の破談、離婚、退職に追い込まれた。改姓した親族もいた。逃げるように住み慣れた町を後にした人もいた。
  父親は、被害者への賠償金を支払うため先祖代々の土地を売り払い、5年後の94年11月、青梅市内の多摩川にかかる橋の上から飛び降り、自殺した。
  法廷での被告は意味不明なことを口走り、自らの罪の重さを自覚しているようには思えない。離散した家族は1、2審に続く3度目の死刑言い渡しをどのように受け止めているのだろうか。
  最高裁判決のあった17日、被告の自宅のあった場所に立った。事件から約1年後、家は取り壊され当時の面影はない。
  「どんな子どもでも、私の子どもなんです」。
  17年前に、被告の父親が心から絞り出すように口にした言葉が、風の中から聞こえてくるような気がした。(元東京社会部記者・坂本丁次)
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 〈来栖の独白〉
  宮崎勤氏の父親の苦しみは、私には、弟、藤原清孝(旧姓、勝田)の実父のものに重なる。
  清孝は逮捕から短期間で問罪されないうちに7人の殺害を自供しているが、自供を最後まで躊躇わせたものは「自供によって、自分の家族が自殺するのではないか」という不安であった。
  自供後、「大丈夫だ。家族は、元気だ」という捜査官の言葉に励まされ、率先して捜査に協力して ゆく勝田だったが、日々明らかになっていくわが子の罪状の陰で家族の苦しみは如何ばかりだったろう。
  勝田の父親は、清孝の少年時代の非行事件に始まって先祖代々営んできた農地を手放してきたが、113号事件逮捕によって住み慣れた家郷を後にした。清孝にも両親の居所は不明であった。
  宮崎被告の父親は、自裁したという。無残である。
  不謹慎に聴こえるかも知れないが、清孝の死刑執行に最も安堵したのは清孝の実父母ではなかったかと私は思う。被害者への心苦しさはもとより、少年事件以来、親は子の再犯に怯え続けた。親の不安に挑むかのように清孝は事件を累ねた。そんな歳月だったから、死によってやっと安堵したのではないか、私にはそのように思われた。
  けれど死によってもなお、被害者遺族同様、加害者親族にとっても、勝田事件は終わらなかった。2001年3月30日だったか、養母(私の実家、藤原)へ国土交通省から、以下のような書面が届いた。

 損害てん補金の回収について(照会)
  昭和57年8月18日の交通事故により、藤原(勝田)清孝殿は国に対して債務を負っておりましたが、同人が平成12年11月30日に死亡していることが確認されましたので、法定相続人である貴殿あて照会文を送付しますので、下記を参照のうえ、別紙回答書により回答してください。
  なお、平成13年4月6日(金)までに当方に回答が到達しない場合には、当方で法定相続人を確定し事務処理を進めます。(中略)
  今回の債務は貴殿にとってマイナスの相続であります。被相続人の財産を相続するしないは、貴殿の自由ですので比較検討し結論を出してください。 (以下略)

 私に思い当たることがあった。清孝の遺品の中に、運輸省(当時)から送達されたこの種の過去の書面が何通もあり、「一体、これは何だろう」と不審に思ったものだった。
  昭和57年8月18日といえば、エポック山科北店店員美馬幸雄氏(45)を襲った京都エポック強盗致傷事件の日である。事件に関連するものなのか、或いは単なる交通事故ででもあるのか。残債務額が1,676,674円。それに履行期限昭和59年8月1日からの年5分の遅滞金が加算されている。
  2001年3月には、私の母には既に認知症が発症していた。国交省からのこの種の文書にも無頓着であった。たまたま春休みで帰省していた私どもの次男が発見し、電話で知らせてきたのであった。
  相続順位は、第1位が妻子で、父母は第2位である。私は家庭裁判所へ出向き、遺産放棄の手続きについて教えてもらった。取り寄せねばならない書類は多く、期限は限られていた。
  母の放棄のための手続き中、私へも照会文が届けられた。私自身の放棄手続きに入って驚いたことは、相続順位第2位の「父母」と第3位の「兄弟」の間に、「祖父母」が存在することだった。私は、藤原家の祖父母、母の実家の祖父母、そして勝田家側の夫々の祖父母の死亡を証明できる書類を取り寄せねばならなかった。インターネットに随分助けられたが、地名も変わっており、勝田家側についての作業は中々困難であった。
  一連の手続きの中で私は、勝田のお父様がどんなに難儀しておられるだろうと思わないではいられなかった。息子が養子に入った藤原家は、お父様には遠く岡山の地である。その見知らぬ土地の役所の住所を調べて、必要書類を取り寄せねばならない。岡山のことはすべて書類を揃えてお送りして差し上げたかったが、私にはお父様の住所が判らないのだった。情けない思いがした。
  死してなお、老いた親を奔走させ、痛めつくす。不安、恐怖、失望の中に永い歳月生きることを強いられたお父様お母様の嘆きが、私を泣かせた。
  二度だけだが、死刑確定直後に電話で言葉を交わしたことがあった。お父様は「一日も早く死刑にしてもらいたいと思っています。そう、清孝に伝えてください」と云われた。戴いた手紙には「このような愚息を育てた責を痛感・・・」と、苦しすぎる胸中が綴られていた。確かに、清孝の養育環境には、大いに問題があった。両親の責任は免れ得ないと思う。
  事件の周辺に痛ましさが満ちている。
  私どものこのHPは死刑制度乃至その是非を論じたりするものではない。私どもはその立場にない。人間存在の悲しみの傍らに居たいと思うものである。
  来栖宥子 2006,1,19 up
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◇ 連続幼女誘拐殺人事件 宮崎勤死刑囚に刑執行 2008/6/17 鳩山邦夫法相命令 
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「最も凶悪な事犯だと思うから、宮崎勤元死刑囚を執行すべきと私から指示した」鳩山邦夫氏 
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連続幼女誘拐殺人事件 宮崎勤「優しい人間だと伝えてください」 『殺人者はいかに誕生したか』長谷川博一著 

   

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宮崎勤・小林薫・・・つきあってきた死刑囚が次々と処刑された 『ドキュメント死刑囚』篠田博之著

   
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宮崎勤、宅間守、小林薫らが残した難題 死刑囚を最も知る男が見た「死刑の穴」(日刊サイゾー2008/12/13) 

      

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“加害者”家族の現実 失われる日常、自殺、退職、執拗な脅迫…広く親戚にまで影響
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