勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(6) 結之章〈後篇〉

2013-09-21 | 死刑/重刑/生命犯

   結之章〈後篇〉

9. 愛人
  ところで、倒産寸前のDハウジングは新たに「A住宅」を設立して京都・伏見区に進出したのです。それにつれて私も転勤しました。転勤した頃には、酒に対する私の自制心もすっかり崩れ、飲む回数が次第に増えて3日に1度は飲み歩くようになっていたのでした。その背景には、そうした悪徳商法に染まって、私のルーズな金銭感覚が徐々に蝕まれていたこともあります。
  飲む場所は山科区内を主とし、大概スナックで同僚3、4人が連れ立っては猥談に花を咲かせていたのです。が、飲み屋も個々に好みが違い、ついつい店探し、というより女探しにハシゴが始まるのです。そうした中で同僚とも自然と気の合う者同士が一緒に飲み歩くようになり、とりわけ世話になった先輩のTさんと私は常に行動を共にしたのです。
 アルコールが入ればたちまち饒舌となる厄介な性分の私には、気分的にも親分肌味をおびる悪癖があり、人頼み出来ない勘定に給料はいつも右から左だったのです。新築一戸建て住宅を購入したTさんは見込み違いの販売不振にあえぎ、酒代はおろかその住宅ローンの支払いにも事欠くようになって、私の虚栄心はさらに本領を発揮し始めたのでした。酔いが回れば心も大きくなり、懐勘定は次第に無頓着となって扶養義務さえ見向きもしなくなると言った放漫さで、経済観念はまったくなくなってしまうのでした。
  人間としては改心せずに、保釈となった私が、そのルーズな金銭感覚から再び転落の一途をたどるまではさして時間はかからなかったのです。人様の物を盗むなど絶対に許される行為ではないと人並みの良識も私にはありましたが、一旦金銭欲望にとらわれると、酒に溺れて己を律し切れない愚かなもう一人の自分に、いともたやすく悪行へと支配されてしまうのでした。
  大金を入手しようと思案に耽ると、もう底止する所を知らずといった胆略な私だったのです。しかしその都度良心の咎めに恥じ入るものの、今回限りで足を洗おうと何度も自戒しながら、悲しき盗癖というのか甘い汁を吸った過去の味が忘れられずついつい金銭の奴隷となって、夜の目も寝ずに盗みを重ねていたのです。こうしてあぶく銭を手にしては夜の巷を大尽気取りで闊歩し、湯水のごとく使い果たすといった野放図な生活を送っていたのです。
  そして、どこの飲み屋でも常に羽振りのいい私は、値踏みには目の高いホステスたちの目には格好の獲物だったに違いなく、金払いのいい上客と持てはやされては持ち前の虚栄心をくすぐられ、色男ぶってはやにさがるといった、うぬぼれの充実感にこのうえなく陶酔していたのです。さらには虚栄心に拍車がかかり、私の関心は例外なくホステスへと移行し、誰彼なく大ぶろしきを広げていたのです。
  しかし、金持ちを装う裏では盗みを重ねる私でも、駄ボラを吹いて酒色に耽る自分のうぬぼれへの蔑みは常にあったのです。ですが、自分の欲望の赴くままの行動を繰り返す私にはかさむ借金を案じて融通を利かせるといった飲み方はもはやできなくなっていました。現金を手にすればパーッと派手に使ってしまう場当たり的な生活が身についてしまい、それがいつの間にか習慣となってしまっていたのです。同僚達に気前よくおごってやれたのも、盗んだ金に対するうしろめたさなど少しも感じず、まるでそこらで拾った金と同じくらいの感覚でいたからでした。
  ところで酒宴には付き物といえるホステスに懸想するのは私だけではなく、同僚が行き付けの店のホステスだったM子とすでに恋仲になっており、それが機縁でM子の妹K子の経営するスナックを紹介され、いつとはなく私はその店の常連となったのです。これがスナックのママK子と私の出会いなのですが、不動産屋の営業マンだった私は、最初の頃はこの出会いを営業のための奇貨と考えていたのです。
  しかしながら、気さくなママに好感を持って足繁く通ううち、ママもそれとなく私に好意を寄せてきたことからねんごろになり、互いに営業抜きの横恋慕といった、わりない仲になったのでした。

10. 新会社
  昭和57年6月頃に私はA住宅からS産業に移りました。A住宅の薄遇に見切りをつけ、袖をつらねて辞職した5名の中の1人だったYさんの口利きとあって、S産業の社長は快く聴許され、Yさんと共に働くようになったのです。
  新たにオープンしたS産業もやはり不動産屋の仲介専門業で、扱う住宅のほとんどは中古住宅でした。そして、社長と営業のYさんと私の3人で取り決めた報酬は、固定給なしの歩合(利益の50パーセント)だったのです。A住宅の15パーセント(実質は12パーセント)とは比較にならない好配当に、十分清算はあると心身ともに発奮する私でした。しかし、営業マンにとって不可欠の車も、妻所有のスポーツカーでは不向きだったため、父に頼み込んだあげく義兄の紹介でクラウンを購入したのです。父に相談を持ちかけたのは頭金がなかったことと、凶状持ちの私ではローンが組めなかったからでした。
  こうした理由で、父から50万円の借金を含む二百数十万円で購入した中古のクラウンを営業車として、主に山科区内で客の案内と物件確認の調査に専従していたのです。ところが、会社は南区に所在し、営業に奔走する山科区内まで昼間なら30分近く時間を要するため、一旦事務所を離れると連絡を取り合うにも何かと不便がつきまとい、クラウンが手元に届くなり自動車電話を取り付けたのでした。この電話は、営業の円滑化と成績の向上を計るためだったとはいえ、客へのサービス精神を口実に私の見栄で取り付けたものだったのです。
  この自動車電話の基本料金は3万円と高く、車の月賦代やガソリン代等経費を見積もると月々20万円は最低必要でしたが、過去の販売実績から算出すれば、30万円くらいの出費なら採算は十分取れると皮算用をはじいていたのです。
  ところが、歩合給としては業界きっての好条件だったものの、販売地域と事務所が離れすぎているといった地の利の悪さ、行き届かぬ宣伝効果があいまって見込んだ客の反響もことのほか少なく、車や電話も無用の長物と化し、必要経費すら滞る始末だったのです。
  過信は得てして失敗を招くものです。それに気づかず、条件のいい歩合給にひたすら発奮していました。所詮は8ヵ月余りの営業経験、いくら我武者羅な熱意をもってしてもやはり底の浅さが出てしまい、未熟さと経験不足までは到底カバーしきれなかったのです。
  首尾よくスタートはしたものの業界はそんなに甘くはなく、過信とおごりも手伝ってすべてが裏目に出てしまったのです。目算がはずれ、販売不振に萎える気力を酒で奮い立たせるがごとく気持ちをごまかしていました。その結果、当面の生活費にも事欠くようになったのです。窮したあげくが再び盗みを重ねるようになっていたのでした。
  酒色に耽溺しては盗みを重ねる私は、自宅マンションからの通勤もしだいに煩わしくなり、会社の2階にちょいちょい寝泊りするようになったのです。実際、朝の通勤ラッシュ時に2時間あまりを要する通勤にはほとほと往生していました。また、ママとの仲もより親密の度が加わっていたこともあって、事務所がわりに使用するつもりで山科区内の「一本道マンション」に一室を借りたのでした。
  そのことで夫婦の仲が急速に冷えました。
  妻子と別居したのはS産業に転職してから3ヵ月目のことでした。
  糟糠の妻と別居する羽目になったのは、あくまで私の身勝手からでした。同棲時代からひたすら尽してくれた彼女とは、将来末永く甘苦を共にしようと鴛鴦(えんおう)の契りを結び、互いに確かめ誓い合った仲だったのです。なのに、生来の明るい美質の妻を暗く落ち込ませ、夫婦の間隙を生ずる原因はいつも私にあったのです。この時も犬も食わないささいな夫婦喧嘩の結末なのでしたが、心底妻子を思いやりながら切った啖呵で後に引けなくなり、愚かな見栄と向こう意気も重なって飛び出たのでした。
  この喧嘩も、妻を愛するあまりに起こした私の甚助に原因があったのです。すなわち酒色三昧にただれていながら、最も信頼すべき妻を執拗に疑い続けていたからでした。
  なぜ妻に疑心を抱き、彼女の在宅を確かめる電話をたびたびかけては彼女の自由を拘束していたかを自省すると、やはり消防士時代に遡らざるを得ないのです。当時、少年院上がりというハンディキャップに苦悩する私の心の中を見抜いていたのか、他の誰よりも好意的に対してくれる同僚が確かに何人かいたのです。だから私は、そうした人達をなんとか一人でも多く自分の気持ちを分かってくれる味方に引き止めておきたくて、何度も飲みに連れて行きました。恩を売って人の心をつかまえ、安価な同情でもいいから買ってでも受けたいという気持ちが私にはあったのです。
  しかし、誰一人として自分の底意にある感情にそむいてまで同情してやろうなんて篤実さはなく、何回となく陰口をたたかれたことで、いやが上にも朝三暮四かつ同情ごかしだったと、ことのほか知らされたのでした。上司もまた同じでした。だからといって何でもかんでも狷介に意地を張っていたわけではないのですが、細かい神経を周囲にはりめぐらせる窮屈な組織の中で、私は人間不信から自分の殻に閉じこもってしまい、視野の狭い独善的な人間になっていたのです。
  人一倍強い猜疑、また騙されるのではないかという強迫観念、それ故、最も信頼出来て気の許せる妻にだけは絶対に裏切られたくないといった本能的な潜在意識が芽生え、いつしか嫉妬まじりの監視を電話に託すようになってしまったのです。だから妻にすれば私の甚助など迷惑千万、その理不尽に怒るのも無理からぬことだったと、今の私は素朴に反省するのです。
  怒る妻を忖度せず、自分の意にそわねば腹を立て、ときには暴力まで振るう私でしたから、いまさらながらに妻に対する己れの仕業が責められてならないのです。後ろめたい心を持つ私でも、かわいい子供2人の父親であり、別居を何度撤回しようと思ったかしれません。しかし、一度吐いた広言は、すでに私に愛想をつかしていたのか、以前、痴話喧嘩に養育費を真っ先に要求したふてる妻を前にしては飲み込めず、つまらない自尊心を大事にして虚勢を張り、山科区内の一本道マンションへと飛び出たのでした。
  妻子と別居した私とママとの生活はこの直後から始まりましたが、表面上は楽しく粉飾できても、14年間連れ添った以心伝心の妻と置換出来るものではなく、本木にまさる末木なしというやつで、私には妻子を裏切ったという荒廃した心が常にあったのです。

11. 借金
  S産業での成績はまったく奮わず、妻子への仕送りはもとより、家賃や車の月賦代のほか必要経費すら捻出出来ない有様でした。
  にもかかわらず、ママと同棲することが決まってからはまったく返済のメドが立たないまま、金融ブローカーのOさんから150万円もの大金を借り、ママの子供と母親が住むアパートの借金などに充当したり、また、200万円余りの贅を尽した家具調度一式をツケで買い揃えていたのですから、見栄もここまで張れば、もはや犯罪をよるべとするほかなかった、と言っても決して過言ではないと省察するのです。
  返済期日はいつでも猶予できる、と気楽に考えていた父母からの借金もすでに300万円余りに膨らみ、期限内に支払わねばならない毎月の借金を合算すると、営々と働いて得られる収入ではとても返済できる数字ではなかったのです。私の一切の煩悩を断ち切って返済に精魂込めたとしても、最低生活さえままならない致命的な金高でした。それなのに次々と借金を重ねていたの は、この時すでに、悪事で得た金を支払いに充当しようとの魂胆が私にあったからなのです。
  そのやり繰りをひそかにもくろんでいたことは、設定した家具代金の一括払い期日を2ヵ月据え置きとしたことにも歴然と裏打ちされているのです。2ヵ月もあれば200万円くらい、いやそれ以上の大金をつかむことだって可能だ、と己れの飽くなき物欲を充足すべく、奸知を働かせていたのです。
  そればかりか、家具代金以外の煩わしい諸々の借金もついでに一括返済してしまいたいなどと、なし崩しの面倒にかられた欲望が膨らみ、さらには、数を踏むしがない盗みよりももっとでっかく一攫千金をと、策略は果てがなく飛躍したのでした。生き延びるためには大金をつかむ以外に道はない、といった異常なまでの私欲に執着し、事の善悪をかえりみない非情な私が、そこには存在していたのです。
  そして、過去の悪業を追想し、いかにすれば抵抗されずに大金がつかめるのかと画策するうち、ふと脳裏にひらめいた案が「拳銃なら必ずうまくいく」だったのです。長い猟銃に比べると小型の拳銃なら銃身を掴まれて抵抗されることもなく、命を奪わず、しかも持ち歩くにも便利といった利点が、欲望にかられた私をたちどころに決断させたのでした。
  と言っても、警察官から拳銃を強奪するなど余りにも破天荒な発想だったため、小心に虚勢を張る私にはとてつもない恐怖心がつきまとい、即実行に移す気持ちにはなれませんでした。空巣、車上狙いといった悪事でうまく大金が手に入れば、あえて危険を犯してまで実行する必要がない、というのが私の本心でした。
  しかし、その後何度も重ねた盗みでは、やはりまとまった金は入手できなかったのです。それで、もし失敗すれば逆に自分が撃たれて死ぬかもしれないという強い恐怖にかられながらも、慎重に慎重を期すことで計画をすすめたのです。その慎重というのは、つまり自分の過去の犯罪体験ばかりを組み込んだ策略を手段とすることだったのです。盗んだ車で警察官に接触、転倒させ、場合によっては追い討ちに棒で殴るといった行為がそれでした。少しでも慣れた方法なら抜かることなく強奪できるだろうと、ともあれ我が身の安全を考えていたのです。
  しかし、目的は警察官の命ではなく拳銃を奪うことにあったので、接触させるスピードと加える打 撃には手加減を念頭に実行したのです。
 
12. 暴走
  かくして昭和57年10月27日の夜、名古屋市千種区で派出所勤務の巡査から拳銃を強奪したのでした。でも、奪った拳銃で人を殺めてでも大金をつかもうなどという考えは毛頭なく、命を奪わず、いかにうまく大金を入手するかが、私の偽りない心情だったのです。
  当時私は、期限が過ぎてしまった家具代金の支払いに、同僚のYさんや社長から新たに250万円を借りなければならない程に窮していました。借金総額は900万円余りに達し、とりわけやくざだった金融ブローカーからの借金は一番気掛かりでした。150万円を借りた当日、金利としてその場で1割を差し引かれ、また、約束の返済期日を数日間過ぎてしまったため「返さなければ山科に住めなくしてやる」と脅かされ、再び1ヵ月分の金利1割を支払ってどうにか猶予を乞うことが出来た、といったことがあったからです。
  最終的にはこの3人からの借金400万円で身動きが取れなくなり、窮余の一策に、架空の話をでっちあげ、親に泣きついたのでした。そうやって急場は切り抜けたものの、却って毎月の返済額は増えてしまい、一攫千金の悪夢を見続けなくてはならなかったのです。
  拳銃を強奪した3日後に早くも浜松市内で強盗を敢行しました。やはり月末に振り込まなければならない金が必要だったからで、マスコミの騒動さなかに拳銃の脅迫効果を狙えば、難なく大金がつかめるだろうという大胆不敵な了見だったのです。ところが、「警察官から奪った拳銃だ・・・!」と脅迫したものの思ったほどの効果は得られず、強盗は失敗したのでした。
  一方、借金返済期日は当日に迫っていたため、最も危険な地域ではあったのですが、拳銃脅迫効果は一層期待できるものと判断し、犯行現場を名古屋市内へと転換したのです。そして、自分の車で名古屋まで行くには余りにも危険だと思慮した私は、ヒッチハイクを決意したのです。まず名神高速の大津サービスエリアまで自分の車で行き、そこから関東方面ナンバーを付けた車に便乗させてもらい、小牧かまたは名古屋インターあたりで下車、そして名古屋市内で車を盗んだ後に強盗しようという計画でした。
  かくして昭和57年10月31日午後8時ごろ、練った計画を実行しようと大津サービスエリアにクラウンを乗り付け、車両の物色に満を持すこと三十余分、首尾よく千葉県ナンバーのワゴン車と遭遇したのです。ところが、便乗の了解を得て助手席に乗り込もうとしたその瞬間、「ゴトン!」と腰に隠して持っていた拳銃が足元に音を立てて落ちてしまったのです。そうしたことから神山さんを撃ってしまうといった思わぬ結果になってしまったのでした。
  拳銃はあくまで脅しの道具であって、よもや人を殺める結果になろうとは夢想だにしなかっただけに、私の落胆は理屈抜きで大きいものでした。何のために猟銃から拳銃に着眼したのか意味がありません。が、それでも切迫した借金返済に窮していた私は、全身を落胆から混乱をきたしたままただ夢中でそのワゴン車を名古屋に向けて走らせていたのです。
  国道11号線を走行中のことでした。死んでしまったとばかり思っていた神山さんが呻き声をあげ、生きていることが分かり何とか病院に連れていかねばとさがし回ったものの、目当ての病院が見つからず、「水をくれ、水を・・・」と訴える神山さんの声に、怪我人に与えてはならないと知っていながらも、とうとうジュースを買い与えてしまいました。その直後に、今度こそ返事をしなくなった神山さんは死んでしまったと思い、もう名古屋で強盗を実行する気は失せてしまい、再び名神高速道路へ入ったのでした。
  そして、その夜、養老サービスエリアのガソリンスタンドを襲いました。しかし、結果は大金をつかむどころか、ゆきあたりばったりに踏んだ強盗にまたも拳銃を発射してしまい、狼狽と焦燥と困惑が錯綜した不安感は募るばかりでした。 拳銃で人を殺めてしまったという事実にもう年貢の納めどきといった観念がちらついていたことも確かです。でも、そうした心理とは裏腹に返済金に追われる私はその後もスーパーを襲っているのです。このスーパーでは150万円余りの大金を手中に納めはしましたが、わずか1ヵ月余りでオケラとなっていたのです。奪った金を借金返済に充当し たとはいえ、いつもの豪遊でした。
  常に倹約を志しながら、実行は一度も伴ったためしがないのです。幼い頃から金銭への執着と、知育偏重の精神を植え付けられてきた気がする私には、三つ子の魂なんとやらで、かつて小遣いだった五円玉を持てば一目散に店屋へ走り、また、金策にと電線拾いに奔走した幼児期を思い起こすと、電線拾いが犯罪に転化した以外はまったく幼児の行動に一致し、知らず知らずのうちに身にそなわった浪費癖のようにも思えるのです。
  思えば、分銅から母の財布、そして洗面器へと移行したのと同様、犯罪そのものにも奸智を働かせていたのだから、鍵っ子という境遇の中で見たこと、思ったこと、あこがれて考え出したことなどを子供なりに判断し行動に移していた悪童の頃に、すでに悪癖を覚えてしまい、悪党になるべく素因は稟質の中におのずと加味されていたのだろうか、とも察するのです。
  数々の悪事を重ねた私ですが、決して他人の不幸に喜悦を意識しながら悪事を働いたことは一度もないのです。が、自分が罪を犯せば必ず悲しみ、苦しむ人達が現れるのだという現実を心に留めず、己の金欲を満たし続けていたことは確かです。
  己の悪行を悔い、いまさら涙して詫びても断じて許されるものではないことは承知している私ですが、どれだけ多くの人を泣かせ、苦しませ、不幸のどん底に突き落として生き延びてきたか、その悪逆ぶりを自省せずにはいられないのです。

13. 逮捕
  警察官を襲って拳銃を強奪してから、逮捕される58年1月31日までの95日間は、騒然とした世間に反逆しながら生きているような自分に常時強烈な不安がありました。夢見た一攫千金も思うに任せないばかりか、策に狡知をしぼって入手した拳銃をなかば持て余していたのでした。
  ついに逮捕されたその日、私は振り込まなくてはならない車の月賦代に切迫していました。気持ちの焦りから、不安な気持ちとは裏腹に次の悪事を企て、あっさり逮捕されたのでした。
  この当時の私を振り返ってみます。
  まず、犯行及び逃走用に車を盗む事を画策し、銀行員あるいは銀行に出入りする顧客といった、比較的まとまった現金を携帯する人に照準を定め、ひったくりまたはパンク泥といった窃盗の手段に狡知をめぐらせていたのです。もちろん、拳銃を隠し持つことも考えていました。が、何が何でも拳銃を使って大金を入手しようといった強盗計画ではなかったのです。真っ昼間から強盗すれば人相等覚えられやすいし、捕まる危険性が極めて大きく、また、ワゴン車の神山さんみたいな結果にならぬとも限らず、出来るだけ前述したお手のものともいえる盗みで大金を得ようとしたのです。
  当日うまくカローラを盗むことに成功しました。しかし、前日からの睡眠不足が重なってにわかに眠くなり、ほんの2、30分まどろむつもりでいたところ、いつしか睡魔に引きずり込まれ熟睡してしまったのです。目覚めた時はすでに正午を過ぎており、昼までに現金を入手しなければ振込みに間に合わず、すごく慌てたわけなのです。
  それで、ともかくひったくりでも出来そうな銀行員を見つけなくては、と慌てて車を走らせました。しかし、車のことが気掛かりでした。というのも、車を盗んだのは朝9時頃のことで、すでに盗難届けが出ている可能性があり、その車にいつまでも乗っているのは危険だからです。と言って、車を盗み換える時間のゆとりもありませんでした。振り込む時間に遅れれば不渡りになってしまうからで、そのことばかりが頭から離れなかったのです。
  そうした焦燥と、車が発見されることの不安をひたすら意識しながらカローラを走らせていたところ、銀行が目に入ったのです。私は躊躇することなく、その銀行の駐車場にカローラを乗り入れました。
  あいにく月末であったため駐車場への出入りが激しく、パンク泥は実行できませんでした。どうしたものかと思案に暮れていたその時、若い男の運転する車がすうーっと入ってきて、私の目の前に止ったのです。
  私はそれを見て咄嗟に強盗のほぞを固めたのでした。そして策を練るため無人となったその車に近づくと、助手席のドアだけがロックされていなかったのです。
 (ようし、助手席に乗り込める・・・)
  と、成功を確信した私は、銀行の閉店時間を気に掛けながら、
 (はよう出て来い、間に合わん・・・)
  と、いらだちながら男を待ち構えていたのです。
  ほぼ15分くらい待ったでしょうか、出て来た男が車に乗るのを見届けるやすぐさま助手席に乗り込み、拳銃を突き付けて「車を出せ」と脅しました。男は仰天し「金ならここ・・・」と、私が何も言わないうちから現金の入った封筒を差し出したのです。
  無言ながら、唯唯と従い、ノロノロと走らせる男はすっかり恐怖におののき、抵抗の素振りは微塵も窺えませんでした。だから、私は成功したものと楽観し、突き付けていた拳銃の銃口を男からそらし、外から見られない位置、つまり自分の右膝の上にコンソールボックスの陰になるよう移したのです。
  ちょうどその時、通路をこちらに向かって歩いて来る人影を見た私が「もっと早く走れ!」と命じた瞬間、この男がいきなり車を停止させるや左手で私の持つ拳銃をわしづかみむなり、右手でドアを素早く開け「強盗や! 誰か来てくれ! 強盗や! 強盗や!」と絶叫したのです。
  不意を食らった私は、まるで悲鳴のようなその絶叫に一驚を喫し、慌てふためき車から飛び出したのです。が、勇敢かつ長身の男は、逃げ出す私に引きずり出される格好で転がり出たにもかかわらず、掴んだ拳銃は放さなかったのです。
  騒ぎに駆けつけた人達によって、折り重なるように押さえ込まれた私は、その重みで胸を圧迫されて失神してしまい、逮捕される瞬間は自分がどうなっていたのか分かりませんでした。気がついたのはすでに後ろ手錠をはめられ引き起こされる時でした。

14. 安堵
 意識が朦朧としていました。
  もう何もかも終わったんだといった、安堵感と失望感が同時にありました。失望感といっても、長年にわたって世の中の平穏と秩序を乱しつつ生き延びていた私は、心ないことをしたものだと絶えず己の成れの果てを覚悟していたせいか、興奮はしていましたが捕まったことに対して無念さというものは感じず、むしろ他人事のように胸のすく思いがしたのを覚えています。さしずめ捕まったことで、その直前まで追い詰められていた借金返済といった緊迫感から逃れられ、かつ逃亡生活に似た長年の精神的苦痛からも解放されて緊張感が吹っ切れたせいか、ある種の安堵感みたいなものが私の中に充満していったのでした。
  強盗に失敗して押さえ込まれた時、拳銃を2発発射して抵抗したことは事実です。ですが、人を狙って発射したものではないのです。余りの苦しさから「助けてくれ、苦しい、痛い!」などと、強盗犯の私が無様この上なくわめきました。それほどに苦しかったのです。しかし、「おまえは何をしたのか分かってるのか! 何が助けてくれじゃ・・・!」と、逆に大喝されたため、撃てば音に驚いて手を緩めるだろうと、苦しまぎれに引き金を引いたものだったのです。
  失神したのはその直後だったような気がします。そしてぼんやりした記憶の中に、誰かの手に噛みついたような感覚も残っていましたがはっきりせず、その後駆け付けたパトカーで昭和警察署に連行され、取り調べ室に入れられて自分の前歯が一本無いことに気づいたのでした。
  ところで、逮捕された直後の私は比較的冷静であったように思っていましたが、時間が経つにつれて、歯・両手首・腰・足と全身に激痛が増したことを思うと、かなり興奮していたために痛みが分からなかっただけで、少しも冷静ではなかったのだと回想するのです。痛みが激しくてじっと座ってもいられなかったそんな私を、刑事は詰めかけた多数のマスコミ関係者を退け、また、尾行して来る者を振り切ってまでして歯科・外科医院へと連れて行ってくれたのです。この時、余りにも多いマスコミ関係者の姿に、我ながらいかに重罪であるかを思い知らされると同時に、罪人の私に娑婆では感じなかった人間味をもって温かく接してもらえたことにとても感激し、犯した罪は重罪だが、拳銃強奪に関する一連の事件以外についても、一切懺悔しなければいけないという心境になりかけている自分を感じていたのです。
  そればかりか、一夜明けても腰痛で苦しむ私に、底冷えのする留置場では治るものも治らないと言って、暖房の利いた県警本部の留置場へと移送してくれた刑事のその心遣いに、一切の宿悪を懺悔しようとの決意が、この時すでに内心にはあったのです。言わば、猫をかぶり続けた長年の苦悩から早く抜け出したい気持もあって、この親切を受けた日以後、いつ懺悔しようかとその好機を窺う自分でもあったのです。
  とは言っても、113号事件の他に7人も殺めているといきなり告白すれば、いくら親切な刑事でも激怒するのではないか。それまでの親切とは打って変わって、虐待されるのではないかという不安があったのです。それに、一切を告白すれば、極刑で裁かれる自分自身の覚悟は別に、私の家族が自殺してしまうのではないかという懸念が脳裏から離れなかったのです。告白しようと決意したものの、頭に浮かぶことと言えば決まって自分の家族のことでした。
  でも、被害者の悶死を思うと、家族には死なないでくれと祈れる私はまだしも恵まれているのだ、と自分に言い聞かせていたのです。そして、犯した重罪は消えることなくとも、せめて人間に立ち返ろうとして告白をしたことが、いつか必ずや家族も理解してくれるに違いない、と信じることで、自分に打ち勝ったのでした。
 〈よし、明日の朝一番に懺悔しよう。死刑になってもええ、全部話してしまおう・・・〉
  朝になって迷わないよう何度も何度も自分を追い詰めていたのです。そしてその夜、壁に掛かる時計ばかり見つめながらとうとう一睡も出来ず、2月4日の朝を迎えました。重罪を胸に秘めて長年生き延びてきた私でしたが、いままさに宿悪を懺悔しようとする心境は、時を移さず土壇場へ引ったてられる恐怖に怯えきっていたのです。

15. 温情
  懊悩しながら長い一夜を明かした私は、極刑を覚悟していたとはいうものの、いざ秘中の秘を告白するとなると、やはり臆病風が吹くのでした。
  それは、告白する事によって受ける罪の報いを意識して起こる恐怖ではなく、残忍極まる奴だとして刑事の態度が一変することに抱く恐怖心だったのです。親身になって気遣ってもらっていただけに、小心な私は余計に言い出しにくかったのです。
  覚悟したにもかかわらず、尚も自分に都合よく迷う私自身多少はがゆくもありました。心の中で「すまん、許してくれ・・・」と妻子の名を呼ぶことで意識的に弾みをつけ、「僕はまだ他にも人を殺しています・・・」と、一気にまくし立てたのでした。
  ところが、自責の念から被害者に対する済まなさがどっと湧き起こり、机に顔を伏して声涙共に下る私に「泣け! もっと泣け! 泣きたいだけ泣け」と刑事は思う存分泣かせてくれたのです。思惑と違った意外な刑事の言葉にとめどなく涙を誘われ、何もかも一切告白しなくてはという良心に一層駆り立てられたのでした。
  思えば、とりとめもなく交錯する脳裏には、十年以上も前の罪業があからさまに甦り、髪を振り乱して泣き崩れた私には、犯した罪の重大さに、自分を冷静に置くことができないほど精神は錯乱していたのです。やや落ち着きを取り戻した私に「じゃあ、紙に書きなさい」と刑事は白半紙を差し出したのでした。
  しかし、兵庫労金事件と松坂屋事件を思い起こしながら真相をしたためている最中にも頭の中に妻子の顔が浮かんでは消え、ボールペンを持つ手の動きはどうしてもにぶるのです。それに、告白の文字を連ねるごとに、重くなる罪を意識してしまい、我ながら心の底から怯えていたのです。
  どうにか2件だけは記述できました。が、やはり頭の中は自殺するかも知れない家族のことで混乱してしまい、その日は、女性の殺害についてはとうとう告白できなかったのです。
  何もかも話すつもりで取調室に入っていながら、ついに女性5人の殺人を言い出せなかった私は、その日の夜も次の日の夜も、複雑怪奇な想念が脳裏を駆けめぐり、怨霊に取り憑かれたような怯えに包まれて、ほとんど眠れませんでした。そればかりか、逮捕されてから一週間になろうとするのに一度も便通がなく、精神的・肉体的な限界を迎えていました。そのような仏罰を意識する私は、告白しない自分自身に、もはや、ごまかしが通らなくなっていたのです。
〈家族は死なない。きっと生きていてくれる・・・〉と信じることで、今度こそ生まれ変わろうと決心したのでした。
  そして、もう二度と迷わないためにも告白は早いほうがいいとの自覚から、夜中の2時半頃だったかに、刑事を呼んでくれるよう留置場の係員に申し出たのです。
  電話連絡を受けた刑事は早速駆け付けてくれたのですが、留置管理規定で夜中の取調べは許されないようでした。
  調べが開始されたのは翌朝9時半頃からでした。私は躊躇こそしなかったものの、やはり刑事に対して一抹の不安は隠しきれませんでしたが、紙とボールペンの借用を申し出て5名の殺人を一気にしたためたのです。そんな私に、「よく話してくれたね」と、刑事から予期しなかった言葉をかけて頂き、問罪されないうちに告白した自分の勇断を素直に自賛できたのです。久方ぶりに心のわだかまりが消えたせいか、早速その晩便通もあり、前後不覚の深い眠りに落ちたのでした。
 
16. 贖罪
  しかし懺悔したからといって決して心が安らいだわけではないのです。多少胸のつかえは取れたものの、目の裏に焼き付いた当時の光景がありありと浮かび、むしろ懺悔してからの方が自責の念にさいなまれ続けているのです。
  人間として生まれ変わるには一切の悪業をさらけだし、1日も早く被害者に詫びる以外に道はなかったのですが、告白した直後の私は、正直言って「これで俺の一生は終わったのだ・・・」という暗澹とした心境でした。いわば覚悟していたとはいえ、罪科による死期が一層身に切迫した感に、何とも言えぬ寂しい気分だったのです。
  でも、同じ裁きを甘受するのなら、真人間に立ち返ってから裁かれようと、大阪での猫かぶりを省みて、自らの意志で宿悪の苦悶から脱却を図ったことも事実だったのです。だから、暗澹とした気分ではあったが、告白した事実に対する後悔はまったくなかったのです。むしろ、我ながら「よく打ち明けたぞ」と、勇気を出した素直な自分に心から喝采を送れる心境でいられたのです。そして、事件は必ず自分の手で立証してみせる意気で、刑事と一緒になって物的証拠を懸命に探索しました。事件の全容は、なにがさて自分が一番詳しく、多数の捜査員を従えるからには、まず自分が先頭に立たなければ済まないといった責任を強く感じていたからです。自分のこの手で犯した罪であり、すべて追認することが被害者に対して私に出来るたった一つの罪滅ぼしだと肝に銘じていたのです。
 「古いことなので忘れました」などとは口が裂けても言える言葉ではなく、思い出せるまでは何度でも現場行きを切望しました。現場で思い出し、そして探し出せた時にはいいようもない満足感に浸れたのです。
  でも、思い出せなかった時は胸が締めつけられ、とても嫌でした。
 「刑事さん、僕がひとこと喋るたんびに罪は重くなるんですね」
  犯した罪の深さを噛みしめながら、涙して刑事に話しかけたこともありました。その都度「家族はみんな元気だから何も心配いらん・・・」と、何回となく刑事に励まされ、それを心の糧に現場へと出向いていたのです。
 
17. 雪景色
  私が養老警察署に押送されたのは、逮捕されてひと月後の3月1日でした。
  目の届く限り水田が広がり、どことなく故郷の風情をただよわせる閑散とした養老町は、伊吹おろしとかで連日吹雪に見舞われていました。2階の調べ室から鉄格子のはまった窓越しにその雪景色をぼんやり眺めていると、私に向けられた遠くの望遠レンズがふと目に留まり、ハッとすること3たびありました。それまでも罪の重大さを感じていましたが、雪の降りしきる最中にカメラを構える報道関係者の姿を見て、罪の大きさを改めてひしひしと知らされた思いでした。
  そうした中で連日調べを受けました。悪いのは自分であり、嘘は絶対に許されないのだ。すべて正直に話すことだけを念頭に、調べを受けていたのです。愛知県警本部ですでに7名の殺人も告白していたので、いまさら自分を庇護する必要は何一つありませんでした。
 「死人に口なしと言いますけど、僕はそんな事を考えて話そうなんて少しも思っていません。全部ありのまま正直にお話しします」
  と心情を吐露し、名神高速道路・大津サービスエリアで神山さんの車に便乗させてもらったことから、養老サービスエリアにワゴン車もろとも神山さんを放置して、トラックに便乗させてもらって大津サービスエリアまで逃げ帰ったことまでを、まずひと通り話し、その後、さらに順を追って真相を詳しく説明したのです。
 「2度の抵抗を受けましたが、それだって拳銃を突き付けて脅す卑怯な自分に比べれば、神山さんはどれだけ勇気のある立派な人だったか知れないのです・・・」といったことも話しました。
  また、猫の子のようにおとなしくなった神山さんが、クッションか枕を抱きかかえて横たわる姿を見て「なんやこいつ、2回も抵抗しやがったくせに急におとなしくなりやがって」と、私が抱いた感情をそのまま話したのです。そして、そのクッションか枕を、右手に握った拳銃で振り払おうとしたこともゼスチュアを交えて説明し、「あっ! と思った時にはすでに遅かったのです。『ボーン』という大きな音と共に弾は出てしまっていたのです」ということも話しました。
 「自分のこの手に拳銃を握っていたのですし、僕のこの指で撃鉄も起こしていたのですから、なんぼクッションか枕を払いのけようとしただけと言っても、現に神山さんは死んでしまったのです。だから、僕が意識して引き金を引いたのと同じですね・・・。拳銃さえ持たなければこんなことにならなかったんです。僕が一番悪いんです」と話しました。
  草葉の陰に眠る神山さんを思うと涙ばっかりこぼれて、とても嘘など言える心境ではありませんでした。
  ですから調書が作成される時に、よしんば「神山さんを狙い撃ちして殺したんです」という、自分の供述内容と違った内容になっていたとしても、私はためらわず署名し、指印を押していたにちがいないのです。経緯がどうであれ、悪いのは自分なのだと自覚していた私は、「悪い奴だ、絶対に許せない奴だ」といった露骨な調書を作成されたとしても仕方がないと思っていたからです。すでに7名の殺人を告白していた私には、あえて「そんなことは言ってません」と訂正出来るだけの図太さはなかったのです。
  ただ、神山さんに対しては、真実とはやや違った調書なので済まない気持ちも確かにあったが、事実と違っていても、自分に不利な内容になっているのだから別にいいだろうといった、安易な気持ちで神山さんに詫びていたのです。
  それに、調書そのものは、むしろ「残忍きわまる奴だ」といった内容ではなかったことで、何となく救われたような気分だったのです。

18. 迎合
  養老警察署で19日間の取り調べを受け終えた私は、再び愛知県警本部に移送され、名古屋地検の検事から神山さん事件の補足的な取り調べを受けました。
  この時の私には、養老警察署で岐阜地検の検事の取り調べを受けた時とは、一点だけ気分的に違うところがありました。養老署での取り調べは、神山さん事件と養老サービスエリア内でガソリンスタンドの店員を襲った事件の2件だけだと最初から聞いていたので、他の7名の事件については名古屋の検事の調べを受けるものとばかり思っていたのです。ところが、京都や大阪それに兵庫の各事件は「それぞれ所轄の警察へ身柄を移して調べることになるかもしれない」と検事から聞かされ、私は大きな衝撃を受けたのです。
  かつて大阪で窃盗罪で逮捕されていながら殺人を告白出来ず、猫をかぶったまま保釈を賜っていた私は、大阪にだけは行きたくなかったのです。私は、名古屋で一切を調べてくれるよう検事に切願しました。
  私の身勝手な要望は検事の厚意で叶えられました。が、結果的には無理なお願いをしたことと7名の事件の取り調べが後に残っていたことで、神山さん事件の取り調べで検事に追従してしまったのです。殺人犯の私に弁解の余地はないと自分に不利なことを打ち明ける中にも、養老署での取り調べの時と同様に「救われたい」といった厚顔な欲望が私の中にひそんでいたのです。
  こうした気持ちから、調書の内容がさらに悪く書かれたとしても検事の心証を害し、嫌われることはないだろうと、後で調べを受ける事件について一抹の手心を期待してしまい、「絶対に迎合するな」と検事から言われていたにもかかわらず、つい迎合してしまったのです。
  つまり、神山さんを撃ってしまったときの状況について、私の「クッションか枕を払い除けたときに、弾が出てしまったのです」との供述が、岐阜では「クッションを払い除けて撃ってしまったのです」となり、名古屋では「殺すつもりでクッションを払い除け、撃ったのです」と一変したのです。
  しかし、迎合したままの調書では神山さんへの本当の詫びとはいえず、また、せっかく真人間になろうと一切の宿悪を懺悔していながら、大阪で告白しないまま保釈されたときのように、どうもすっきりせず心の中に残るものがあったのです。
  それで検事には「法廷で裁判官に、実はこうだったのですと言って正直に訂正します・・・」と具申して、58年5月27日の初公判に出廷したのです。
  ところが、余りにも多い傍聴人の中で雰囲気に呑まれてしまい、肝腎の言おうとしたことを、自分でも何を言っているのか分からないほどに狼狽し、結局裁判官に咎められるような醜態まで演じてしまったのです。事実はすべて認め、決して法廷では否認しないという初心に基づく決意も、愚かな魂胆を抱いたために遂行できず、自分の首を締める結果となったのでした。
  113号事件に関する取り調べは58年5月11日の起訴をもって終了しました。翌日からは残る7名の殺人の調べを受けたわけですが、すべてを思い出すことが私の義務であり被害者へのせめてもの供養なのだと、記憶を甦らせることに専念したものの、連日の頭痛に悩まされた私は、核心以外については記憶も薄れ正直言って苦しみました。また、現場検証では、被害者の元上司の方や友人のほか婚約者だった人とも対面し、自分が逆の立場におかれ犯人を目の当たりにしたらどんな気持ちになっていただろうか、と思わずにいられず、そうした人達に、むごい場面を演じて見せる心苦しさをこらえながら懸命に再現していたのです。

19. 合掌
  支離滅裂な拙文ですが、生き恥としての私の生い立ちをかいつまみしたためました。
  被害者の霊に手を合わさずにいられない今の私には、嘘は断じて許されないことを念頭に、すべて直筆致しました。
  とりわけ身勝手な振る舞いでさんざん親不孝を重ねた私は、自分に向けられた父の慈愛を見抜けずに反感ばかり募らせていたことを、実に済まない気持ちでいるのです。確かに父は寄り付き難い存在でしたが、人一倍自己に厳格で、律儀一遍の父でもあったのです。父への悪感情も隠さず数多くしたためましたが、父との確執は私の放逸な行動ゆえ起こるのであって金銭のみならずあらゆる面で苦労をかけ続けた私には、父を憎悪する資格などどこにも見当たらないのです。
  また、公務員になった事を悔やみ、積もり積もった心のわだかまりを吐露すればするほど責任回避と受け取られてしまうのではないかと思いながらも、人生の進路を誤ったという正直な気持ちを切り離して悪業を思い起こすことは、どうしても真意を偽ってお話しするような気がしてならなかったのです。
  しかし、決して周囲が冷淡だったから自分はこんな人間になったんだと責任を転嫁するつもりでこの一文を綴ったのではありません。衆目を集めた組織の中で自信と忍耐を喪失し、過去を背負って揺れ動く不安定な自分の心を酒で支えようとした愚かさを晒すことも、犯罪の告白同様自分に課せられた義務と理解する私は、事実は事実として書き残すことでいくばくかのお役に立てるのではないかと斟酌したしだいです。飲めない酒を無理に飲み込むことから始まったうさ晴らしが、同時に転落への第一歩となったことに気づかなかった私は、公務員だという自覚を忘れ、感情に走って理性を失ってしまっていました。その結果人を殺めてしまったことは、背景がどうであれすべて自分の意志薄弱と自暴自棄に起因するもので、誰をも責める資格など有していないことは自分自身が一番よく知っており、全責任を負うべく素直に反省しているのです。
  取り調べ期間中は「もう僕はどうなってもいいんです・・・」とずっと死をもって罪の贖いを考えていました。これだけの重罪にそれが当然だと覚悟を決めていたのです。が、一方では、自分の手で一件ずつ罪を立証するごとに、命の尊厳をひしひしと感じていたのです。
  今も自分の死を持って贖いますと謝罪しなくてはいけないのですが、月に一度教誨師の絵解きを交えた法話を拝聴させて頂く現在、自分のなすべき義務にはっきりと使命感を持つことが出来、また、啓発されることも多々あって、万死に値する罪を重ねた私には決して許される言葉ではないのですが、生を許していただけるものなら、今の私は是非生きていたいのです。命乞いする資格はもとより、神仏の加護にすがる値打ちもない私なのですが、真実死を忌み嫌うのです。
  分厚いコンクリートの壁に閉ざされた独房で、罪の意識から日々冥罰に怯える私は、いっそ死んでしまいたいと思うことも正直に言って何度もあるのです。しかし、生きる苦しさに耐えながら、虚心坦懐に被害者の冥福をひたすら祈り続け、許される限りは生きたいのです。
  でも、憂愁に閉ざされたままでおられる遺族の方々の心情に思いを馳せると本当に申し訳なく、非道に人を苛む行為を繰り返した私には、日々三度の食事を与えて頂くことすら勿体ない気がしているのです。
  被害者やその家族・遺族の方々には何とお詫びすればいいのか、言葉もありません。
  本当に申し訳ないことを致しました。心から深謝申し上げます。
  お許しください。
       昭和六十二年二月十五日
       勝 田 清 孝 
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勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(1) まえがき 起之章
◇ 勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(2) 承之章
◇ 勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(3) 転之章〈前篇〉
勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(4) 転之章〈後篇〉
◇ 勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(5) 結之章〈前篇 
勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(6) 結之章〈後篇〉
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「遺言書」藤原清孝 ■ 最期の姿 ■ プロフィール
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