「Chopinと福永武彦と」

2008-01-21 | 日録

〈来栖の独白 2008/01/21 〉
 ショパンの華麗さとしなやかさに惹かれて、一昨年から弾いてきた。高く深い美しさに惹かれた。ダン・タイ・ソンで聴いてからは、虜になった。小原孝さんがご自分の番組NHKFMのなかで「フォルテは無いと思ってください。すべてピアノで」とおっしゃっていたが、本当にそう。あくまでも、やさしくしなやかに弾く。特にノクターンは。
 先日もNocturnesを弾いていた。No1.Op.9-1「変ロ短調」。ちょっとロマンチックな出だし、甘さすら感じさせる、とずっと思っていた。
 しかし突然、違う、と感じた。甘くない、と。凛とした孤独が聴こえた。そしてすぐに、それはそのはずだ、と思った。ショパンが、孤独を奏でないはずがない。他人の寄り付くことを頑なに拒んで強靭な美のリアリストだったショパンの音楽に、孤独が漂っていないわけがない。
 私がショパンに強く惹かれたのはこの孤独の旋律の故だった、と気づいた。
 ショパンは、次のように言う。(音楽とは)「音によって思想を表現する芸術」、「自分の耳が許す音だけが音楽である」と。この思想の故に、ショパンは孤独であった、と私は思う。
 思想とは、生命の証、生きる意味である。
 不意に(いや、当然のように)、福永武彦を思い出した。
  福永武彦の作品に出会ったのは、大学の教養時代だったと思う。青年特有の寂しさと不安(落ち着かなさ)を持て余し悩んでいた私は、この『草の花』に衝撃を受けた。たまたま前期の試験と時期を同じにしたが、福永作品の世界から抜け出せなかった。単位を落とすことも覚悟した。が、試験を受けることだけはしておこうと思った。アメリカ文学史(アメリカン・フォークロア)の試験で、答えがさっぱり書けず、問題とは関係のない要らぬことを書いて出した。「私はいま福永武彦の小説に夢中になっています。氏の描く『孤独』は、いまの私にとってのっぴきならないテーマなのです・・・」。単位を落とすことを覚悟しているので、気持ちだけは強かった。ところが、後日発表を見ると「優」をくれていた。びっくりした。申し訳ない気持ち、単位が貰えてほっとしている自分、弱い自分が恥ずかしかった。
 長い時を隔てて、『草の花』を手に取った。懐かしい文字列。しかし、今回初めて、この小説にショパンという文字が出てくることを発見した。福永氏の心の中で、恐らくショパンの孤独が鳴り響いていたのだろう。

 福永武彦著『草の花』より

 しかし、一人は一人だけの孤独を持ち、誰しもが閉ざされた壁のこちら側に屈み込んで、己の孤独の重味を量っていたのだ。

 ----僕は孤独な自分だけの信仰を持っていた、と僕はゆっくり言った。しかしそれは、信仰ではないと人から言われた。孤独と信仰とは両立しないと言われたんだ。僕の考えていた基督教、それこそ無教会主義の考え方よりももっと無教会的な考え方、それは宗教じゃなくて一種の倫理観だったのだろうね。僕はイエスの生き方にも、その教義にも、同感した。しかし自分が耐えがたく孤独で、しかもこの孤独を棄ててまで神に縋ることは僕には出来なかった。僕が躓いたのはタラントの喩ばかりじゃない、人間は弱いからしばしば躓く。しかし僕は自分の責任に於いて躓きたかったのだ。僕は神よりは自分の孤独を選んだのだ。外の暗黒(くらき)にいることの方が、寧ろ人間的だと思った。
 孤独というのは弱いこと、人間の無力、人間の悲惨を示すものなんだろうね。しかし僕はそれを靭いもの、僕自身を支える最後の砦というふうに考えた。傲慢なんだろうね、恐らくは。けれども僕は、人間の無力は人間の責任で、神に頭を下げてまで自分の自由を売り渡したくはなかった。

 ---ピアノコンチェルト一番、これ、前の曲ね。これはワルツ集、これはバラード集。どうしたの、これ?
 ---千枝ちゃんにあげるんだよ。千枝ちゃんがショパンを大好きだって言ったから、それだけ探し出した。向うものの楽譜はもうなかなか見付からないんだよ。

 僕の書いていたものはおかしな小説だった。(略)全体には筋もなく脈絡もなく、夢に似て前後錯落し、ソナタ形式のように第一主題(即ち孤独)と第二主題(即ち愛)とが、反覆し、展開し、終結した。いな、終結はなく、それは無限に繰り返して絃を高鳴らせた。

 僕はそうして千枝子を抱いたまま、時の流れの外に、ひとり閉じこもった。僕はその瞬間にもなお孤独を感じていた。いな、この時ほど、自分の惨めな、無益な孤独を、感じたことはなかった。どのような情熱の焔も、この自己を見詰めている理性の泉を熱くすることはなかった。山が鳴り、木の葉が散り、僕等の身体が次第に落ち葉の中に埋められて行くその時でも、愛は僕を死の如き忘却にまで導くことはなかった。もう一歩を踏み出せば、時は永遠にとどまるかもしれない。しかしその死が、僕に与える筈の悦びとは何だろうか、・・・・僕はそう計量した。激情と虚無との間にあって、この生きた少女の肉体が僕を一つの死へと誘惑する限り、僕は僕の孤独を殺すことはできなかった。そんなにも無益な孤独が、千枝子に於ける神のように、僕のささやかな存在理由の全部だった。この孤独は無益だった。しかしこの孤独は純潔だった。

 孤独、・・・いかなる誘惑とも闘い、いかなる強制とも闘えるだけの孤独、僕はそれを英雄の孤独と名づけ、自分の精神を鞭打ちつづけた。

 支えは孤独しかない。

 僕の青春はあまりに貧困だった。それは僕の未完の小説のように、空しい願望と、実現しない計画との連続にすぎなかった。

 藤木、と僕は心の中で呼びかけた。藤木、君は僕を愛してはくれなかった。そして君の妹は、僕を愛してはくれなかった。僕は一人きりで死ぬだろう。

〈来栖の独白 追記〉
この孤独は無益だった。しかしこの孤独は純潔だった。・・・・僕は一人きりで死ぬだろう。
 なんという、ぞっとさせるような孤独だろう。しかし、冷静な理知の眼には、人生の現実はそのような残酷なものだ。『草の花』は知的な青年の孤独を描いている。私はこの孤独(純潔)に魅せられ、惹かれ続けてきた。守りたいものであった。群れることを嫌った。
 若いときには若いときの、老いには老いの孤独があるだろう。老いての孤独は、若いときとは比較にならぬ峻烈なものであるのかもしれない。人は、そのようにして、やっと死に辿りつくことができる。 2008/01/21 up


3 コメント

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う~む。 (閑話ノート)
2008-01-22 19:41:07
ゆうこさんお晩です。
福永武彦の小説は読んだことございません・・・。
孤独、無益、純潔・・・。
なるほど「草の花」は、プラトニックの愛の詩でありますか?
この作家はショパンに造詣が深いのですね。

早速きょう夜想曲(選集)を聴いてみました。アシュケナージ(デッカ盤)です。
作品9-1,2,3ですね。第2曲はあまりにも有名ですよね。甘く感傷的な旋律はすばらしい。それをアシュケナージは奇をてらわず自然体で弾く。音の艶やかさは絶品でした。

<追伸>ご要望にお応えし、拙い音楽レビューですが適当なものをTBさせて頂きました。(連射汗)
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わー、福永武彦だー! (kenneth)
2008-01-26 23:43:15
 こんにちは。久々のコメントとなります。ブログは更新の度に読ませて頂いているのですが、なかなか考えをまとめられず、コメントはせずに過ごしてしまいます。しかし今回は“福永武彦”の文字を見て、気持ちに火が着いてしまいました。
 私も福永作品をよく読んだ頃があります。私は、大林宣彦監督の映画が好きなのですが、彼が感銘を受け、映画化までしたかったと言う作品『草の花』に興味を持ったのがきっかけとなりました。そこから『忘却の河』、幾つかの短編、変名で書かれた推理小説なども読みました。
 正直な所は、『草の花』(美しい!)よりも解り易い(悪く言えば俗っぽい)『忘却の河』が好きでした、読後の充実感もダイレクトにあって。そして映画化された短編『廃市』なども。でも一番好きなのは〝王朝大恋愛時代小説〟『風のかたみ』(俗っぽ過ぎ?)だったのでした。
 しかし、どれにしても、人同士が互いに気づけなかった心のすれ違いの怖さ、それの生むやるせなさが胸に突き刺さったものでした。
 
 
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Unknown (ゆうこ)
2008-01-27 21:35:28
kenneth様
 コメントありがとうございます。拙ブログ、お読み戴いて感謝です。
 福永武彦さんについてのコメント、とっても嬉しく拝見しました。
>大林宣彦監督
>映画化までしたかったと
 まったく知りませんでした。大林宣彦監督が映画になさってたら、どんな風になったかしらと、ちょっと想像してみました。あの時代ですしね。
>『忘却の河』
 そうですよね。俗っぽいっていうか、大人の人間を感じたことを覚えています。『海市』『廃市』も読みましたが、今となっては内容を忘れてしまっているのです。『草の花』は、好きな箇所の文章まで諳んじていますのに。
>心のすれ違いの怖さ、それの生むやるせなさが胸に突き刺さったものでした。
 同感です。怖さのようなものを感じました。難しいなぁって。
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