時遊人~La liberte de l'esprit~

優游涵泳 不羈奔放 by椋柊

ギミーヘブン

2008-09-19 | 映画


誰にも理解されることのない感覚‘共感覚’
それを共有出来る相手の存在を知ってしまったら…

新介(江口洋介)はその感覚を胸にしまい
取り留めのない日常を過ごし
ヤクザ・紺野(鳥肌実)の下請け仕事として
インターネット上で盗撮サイトを運営している

親友・貴史(安藤政信)や
そばにいる大切な恋人・不由子(小島聖)には
理解されない哀しい闇を心に抱えながら…

麻里(宮崎あおい)は自分が共感覚を持つがために
誰とも分かり合えないという孤独を抱えて生きている
両親とは死に別れ
育ての親はなぜか次々に不審な死にとりこまれていく

新介と麻里
ふたりはある日
今までどうしても埋まらなかった心の奥深くにある
最後のパズルを持った存在として出会ってしまう



アンダーグランドのサイトで
‘死の商人’とされる伝説の男・ピカソ(松田龍平)
次々に起こる不可解な事件
それを追う警視庁・キャリア組の警部・柴田亜季(石田ゆり子)と
刑事・柘植(北見敏之)…

新介と麻里の運命的な出会いは
それぞれの人生を大きく巻き込んで
悲劇に向かって転がり始めるのだった…

               「CINEMA TOPICS ONLINE」より引用

ストーリーについては
「CINEMA TOPICS ONLINE ギミーヘブン」
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=6042
こちらに詳しく紹介されてます



この映画のキーワ-ド‘共感覚’
「視覚・聴覚・味覚・触覚・嗅覚」
この五感のうち
ひとつの感覚に付随して
他の種類の感覚も同時に生じさせる
一部の人にみられる特殊な知覚現象

言葉や数字が色・味や匂い
手触りとして感じられる

例えば
目玉焼きは「四角」
スクランブルエッグは「長い棒」
スプーンは「タンポポ」
冷たい水にさわると赤と緑の二つの色が交互に光って見える
アルファベットの‘a’は「赤」
「2+4=6」ではなく「2+4=黄色」

宮沢賢治(詩人、童話作家)
アルチュール・ランボー(詩人)
スティービー・ワンダー (音楽家)
カンディンスキー(画家)
スクリャービン(音楽家)
ウラジミール・ナボコフ(小説家)
リチャード・ファインマン(物理学者)
これらの方々が
共感覚者なのだそうです

ちなみに適切な検査を受けていない故人では
レオナルド・ダ・ヴィンチ(美術家)
アレクサンドル・スクリャービン(作曲家)
ウラジーミル・ナボコフ(作家)
ワシリー・カンディンスキー(画家)
などが共感覚者だったのでは?
と言われているとかいないとか…



常人には見えない
そして理解&想像すら出来ない世界が
共感覚者の世界
例えば
映画「MATRIX」でNEOが初めて体験した
すべてがデジタル化されたようなビジョンみたいな…

‘共感覚’と言う興味をひく題材なのに
状況説明の範疇で終わっているのが残念
共感覚者の世界を表現するのは難しいけれど
トライする価値はあったと思うんだけどなぁ
予算とイマジネーションの限界?

この作品では
共感覚者は常に孤独な存在としてと
描かれているけれど
所詮人間と言うものは
自分以外の人間と
本当の意味での共感はありえない
同じように感じ認識しているかどうかなんて
誰にも解からないんじゃないんだろうか

普通とか平均的と言った尺度(基準値)は
あるようでないような不明瞭なものだと思うし
今自分がその枠に収まっていたとしても
基準値自体が全く違ったモノになっているかもしれないのだから…

むしろ
共感者は
芸術や学問の分野において
素晴らしい才能を発揮している

一つの個性として
捉えるのも
間違いとは言い切れないと思う

なので
新介が共感覚者である自分を
「機械で言ったら不良品だ」とまで
言い切る必要ない気がする

それに
麻里の辿った悲劇は
‘共感覚’の持ち主だったからではなく
兄の歪曲された
異常な愛情に起因するモノで
彼女の孤独は
共感覚者だったからではない
と思います

‘共感覚’は孤独の要素でも
悲劇の元でもない
ただし
これはあくまで
‘共感覚’を認識し得ない
人間の考えであり
当事者にとっては
はなはだ迷惑な感覚なのかもしれない



残念ながら
江口陽介演じる新介からは
共感覚者として抱える苦悩や孤独感を
感じられなかったし

宮あおい演じる麻里は
幼少期に受けた
PTSDに対する適切なフォローがなかったため
所謂
彼女自身の中に
異常性格を育ててしまったと判断しました

監督の描きたかった世界が
‘共感覚’を持って生まれた人間の悲劇であるならば
ピカソの生家があった場所で
新介と麻里が再会しお互いの‘共感覚’を確認し
心を通わせる人間に出会えたにもかかわらず
あのようなエンディングで終わらせたのも
已むを得ない?

エンドロール前に流れたのは
監督が描く
共感覚者の新介と麻里が
心安らかに暮せるフェイクの世界だと思われるが
監督の思考からすれば
あのようなシーンで
最後に救いを表現したかったのだろうし
そう考えれば
それなりに納得のいくところではあるが

‘共感覚’
一つの才能として捉えた私には
あくまでも共感覚者は
孤独で閉鎖的な世界でしか
生きられないと
強制されているようで好きではない