を見た
旧約聖書に出てくる人間の愚かさを象徴した
「バベルの塔」をモチーフにした作品で
‘コミュニケーションの壁’がテーマになっているとのこと
主演はブラッド・ピット
小生には
別の意味で‘コミュニケーションの壁’を痛感した作品
字幕が仏語で音声が英語・アラビア語・スペイン語に手話・・・
サンディゴ・メキシコ・モロッコ・日本を舞台に
それぞれの国で独立したストーリーが展開するのだが
実は繋がりがあるらしい
モロッコ
ブラピ夫妻が
観光バスに揺られている最中
妻のケイトが銃で左肩を撃たれる発砲事件に巻き込まれる
その銃を発砲したのは、羊(山羊?)飼いの少年達(兄弟の弟の方)なのだが
彼は、自分が発砲したことによって人を傷つけたという‘罪’の意識がない
そもそも
銃がどういうものであるかということすら理解しないまま
大人から手渡された感があり
これは、正しく理解しないまま広島や長崎に投下された原爆を彷彿させる
(あくまでも個人的見解です)
バベルの塔(The Towar of Babel)1563年/ウィーン美術史美術館
日本
その銃を少年の生活にもたらしたのが役所広司演じる日本人
モロッコにハンティングに行った際
同行したガイドに感謝の意を込めて譲ったのだ
悪意を持って渡したのではないが
結果悲劇を呼び起こしてしまう
「銃をガイドに渡したことが罪になるのですか?」
と刑事に質問する彼・・・
彼自身、銃を発砲した少年同様‘罪’の意識はない
そして
銃で撃たれるのが銃の象徴でもある大国アメリカ(ここでは銃の発祥という印象)
の人間というのも皮肉な展開だと思った
‘自分で自分の首を絞める’とか‘因果応報’とでも言うのか・・・
サンディエゴそしてメキシコ
ブラピ夫妻の子供達の面倒をみているメキシコ人女性が
後半、子供達を荒野に置き去りにするのだが
置き去りにするという‘罪’の意識はない
自ら荒地を孤独にさ迷う彼女の姿は
バベルの塔崩壊後
共通言語を失った愚かな人間達が世界中に散らばっていく様を彷彿させた
再びモロッコ
自分の息子がアメリカ人を撃ってしまった事実を知った父親が
子供達をつれて逃げようとするが
兄が警官に足を撃たれてしまう
それを見た弟は、自覚を持って警官に発砲する
その後
兄は再度逃げようとして警官に撃たれ死んでしまう
この時、初めて弟は
‘銃を撃つ事’がどういうことなのか
自分が起してしまった
‘罪’が何だったのかを兄の死を体験することによって
理解することになる
そして
自らその‘銃’を叩き壊し‘罪’を認識した彼は自ら警官の前に進みでる
このシーンも象徴的
再び日本
今どきの日本人?
それを誇張すかのごとく
特異な思春期を迎えているチエコ(菊池凛子)というキャラクターが
かなりきわどく描かれている
ここでは
‘コミュニケーションの壁’を‘聾唖’というとらえ方をして表現されている
(お断り:聾唖の方がコミュニケーションできないと言っているのではないです)
日本のシーンを見た外国人に
『今の日本人女性は性に対してのモラルがないんだ!』
と勘違いされやしないかと不安になってしまったが
その反面
日本人では、描きたくても描けない心理&真理を
くやしいけれど、ストレートに表現しているような気がする
凛子と話をした刑事が(色々あるんです)
居酒屋で独り冷酒を飲みながら自分を取り戻そうとする場面
そしてそのシーンの背景に
妻ケイトが病院を無事退院するシーンが流れるところも深い・・・
が
このシーンの刑事の心情が外国人に理解できるんだろうか(・・?
ともかく
映画を見終わって(日本人である自分が)非常に不快感を持ったパートでもある
役所広司が全裸の娘(菊池凛子)を高層マンションの最上階にあるベランダで
抱きしめるシーンがある
全裸というのも意図があるんだろう・・・
カメラが後方に引いていくにしたがって
東京の夜の眩しいばかりの光を背景に高層マンションや
高層ビル郡がその全貌を現す
それらはまさしく
現代に甦った‘バベルの塔’
最後になって申し訳ありませぬが
ネタバレっぽくなってしまいましかね・・・