止れ3米後に

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廃止バス停の痕跡を探る(5) 東燃循環

2010年10月31日 | 乗合バス路線史シリーズ
シリーズ「廃止バス停の痕跡を探る」ですが、初めて地元事業者である西武バス以外の痕跡を取り上げようかと・・・
今回は東武バスの「上福02 東燃循環」のバス停跡地を訪ねました。

この「東燃循環」は系統番号の通り東武東上線上福岡駅東口を起点とする循環路線でした。
県道所沢大宮線を通り、旧大井町の鶴ヶ岡を循環する系統で、沿線に東燃の研究所や住宅があったことから、路線名が「東燃循環」となったようです。
1970年現在のデータでは一日18回(他に上福岡駅~東燃住宅間が3回、川越神明町車庫~東燃住宅間が2回)の運行があったようですが、近年は平日に1回のみ運行される、いわゆる「免許維持路線」と化していました。
そして、去る9月30日一杯で廃止されてしまいました。
参考程度にバス停掲示の路線図(平成18年12月現在)から抜き出した東燃循環の路線図を・・・

過去は不明ですが最晩年は片方向のみの運行でした。
この地域は路線バスが密集しており、運行会社も東武・西武・ライフバスの3社、東武・西武は2つの営業所のエリアが被っています。
また、自治体の循環バスも地元ふじみ野市の他に川越市のバスも乗り入れています。
ただ、大手2社は比較的運行回数が多い路線とそうでない、免許維持路線に分けることができ、東燃循環は当然後者に入ります。
東燃循環の経路はほぼ全区間、他の系統と重複しており、廃止しても特に影響はないのでは・・・と思います。


今回、上福岡方面を訪れる機会があったので、廃止一月後バス停がどうなっているのか見てきました。
上記の通りほぼ全ての区間で他のバス路線と並行しているので、どのくらい遺構が残っているかは未知数でしたが・・・。
まずは起点の上福岡駅東口のバス乗り場から・・・。

バス用のターンテーブルや、立派な上屋がある東口乗り場ですが、人影はなく寂れています。
バス停の看板も駅前にはちと似合わないタイプ・・・「東燃循環」の表記は、マスキングテープのようなもので隠されていますが、思い切り透けて文字が見えます。
東口乗り場には一応、あんどん形のポールもありましたが・・・

看板を裏返しにして取り付けてあります。せっかくの設備ですが使われていないようで・・・。

東口を出て、渋滞する東上線の踏切を渡り、最初のバス停が「ふじみ通り」。

ここの看板にもばっちり東燃循環の文字が残されています。それどころか、数年前に廃止になったはずの「川越07:川越駅~上福岡駅」の文字もうっすらと残っています。

亀久保の交差点から川越街道を走り、上福岡駅西口から続く「中央通」に入ってすぐの「鶴ヶ岡中央通り」バス停。

比較的新しいダルマ形ポールですが、しっかり東燃循環の名が記されています。
ここもマスキングテープらしきもので隠されてはいますが、思いっきり透けています。


お次は東燃の研究所跡地に建つ「ビバモール」裏手の「ホンダ学園入口」バス停。

ここはバス停スペースが残っていました。ドア位置は前後と東武らしいです。
友人の話では10月中頃までバス停看板が残っていたとか・・・その頃来ればよかった・・・
ここはふじみ野市内循環バスのバス停がありますが、「大井保健センター入口」という名前です。
バス停自体2010年に循環バスの路線を拡充した際に設置されたそうです。友人曰く拡充された時に設置されたバス停とそれ以前の物は異なり、この背の低いタイプが新設された物で、下の緑が丘二丁目のタイプが旧来の物だそうです。

次がその緑が丘二丁目バス停。

ここはバス停スペースとポールの台座だけ残っていました。お隣はふじみ野市内循環バスの同名バス停です。
この先で再び県道所沢大宮線に合流、上福岡駅東口に戻ります。

友人が廃止間際の東燃循環のバス停を記録していたので、許可を得て公開させて頂きます。
上で紹介した「緑が丘二丁目」バス停。

手前のオレンジ色のポールが東燃循環の物です。
今は台座だけになってしまいました・・・。

次いで「ホンダ学園入口」バス停。

考えてみれば、手前の新しいふじみ野市内循環バスと東燃循環のバス停が並んだのはごくごく短い期間だったんですな。
そういう意味では貴重なカットかもしれません。

ホンダ学園入口バス停に掲出されていた時刻表。

平成20年3月31日が最後のダイヤ改正日となったようです。
運行は12時台にたった1本、休日は「運行いたしません」の文字が・・・。
いつ廃止になってもおかしくはない路線でした。

最後は、路線廃止のお知らせを・・・

「普段よりご利用いただいているお客様~」などと書かれていますが、一日1本のバスに定期利用客なぞいたのかと・・・まあ定型文のようなものでしょうが。
しかしバス路線ヲタ(?)としてこのお知らせほど寂しいものはないです。まあ廃バス停探索者としてはまた一つ研究対象(笑)が増えたわけですが、それでも運行されているバス路線のほうがいいです。
写真を提供していただいた友人も廃止になると知ったのが直前で、せめて最後くらい乗車しておきたい・・と思ったそうですが、平日のみの運行だったので断念したとのことでした。
私も廃止を知ったのがつい先日だったのですが、もし知っていたら乗りにいってたのになあ、と。何せ運行最終日は空いていましたから・・・(T_T)

というわけで、廃止一月後の東燃循環のレポでした。
これから遺構や今も残る看板・標記はどんどん消えてゆくかもしれませんから、興味のある方はお早めにどうぞ。
友人某氏には写真と情報の提供、それから現地の案内をしていただきどうもありがとうございました!!m(_ _)mこれからもまた改廃情報などあったら教えてくださひ・・・。

物置の更新後記(2010_10_29)

2010年10月30日 | ホームページ更新後記
しばらく更新もストップしていましたが(何せネタもないので・・・)、久々に「物置」の方を更新しました。
今回更新したのは「入間川電車ものがたり」です。バス停遺構の調査と考察で大分モチベーションが低下していましたが久しぶりに時間が出来たので一気にやってしまいました。
とりあえず「通史」のその2を書き上げました。ただこの調子だといつまで経っても終わらないので、早いところ概略が分かるような年表を作ろうかと思います。

今回の更新では入間馬車鉄道と名栗水電という実在した会社の社紋を作ってみました。
入間馬車鉄道の社紋は電化後も引き続き使われたという設定ですが、まあこの二つは架空ではなく実際の歴史の資料としても使えます(本当かよ…)。
まあ使う方はいないとは思いますが…。。。

今回は「音のページ」の更新は無しです。楽しみにしていただいてる方がいらっしゃることは把握済み(笑)ですので、こちらも拡充せねば・・・。

ページへのご意見ご感想をコメントやメールでいただければ嬉しいです。

廃止バス停の痕跡を探る(4) 狭山23系統の考察

2010年10月23日 | 乗合バス路線史シリーズ
数回前の記事で、西武バスの狭山23系統(狭山市駅西口~坂戸駅)の遺構調査の報告をしました。
(1)(2)(3)
今回狭山23系統の変遷をちょっとだけ調べてみましたのでよろしければ見てください。

・戦前
現在の(企業としての)西武バスは東浦自動車という会社を前身とします。東浦自動車は箱根土地会社(後の国土計画→コクド)の系列会社で、1945年の(旧)西武鉄道と武蔵野鉄道の合併翌年にそれぞれが保有していたバス事業を東浦自動車改め武蔵野自動車に統合、西武自動車→西武バスとなりました。
このうち武蔵野鉄道の乗合バスも元々武蔵野鉄道が運行していた路線と、戦中に合併した多摩湖鉄道が運行していた路線に分けることができます。
さらに遡れば各社が独自に開業した路線もありますが、個人や小規模経営の事業者を買収した路線が多数ありました。
武蔵野鉄道に引き継がれた吾野共同自動車組合もその一つで、詳しく調べなかったのですが高麗村の市原(現在の高麗駅付近?)から坂戸までの路線を運行していたようです。
吾野共同自動車組合の路線は段階的に武蔵野鉄道へ引き継がれます。件の坂戸までの路線が引き継がれたのは1934年3月でした。
その後1936年、吾野村の岡部君作が運行していた飯能~坂戸間の路線も譲り受け、さらに翌年には坂戸から松山間を延長しています。
しかし戦時体制に入り鉄道との並行路線や利用数が少ない路線は休止されていきました。坂戸方面への路線もいつ頃かは不明ですが休止になってしまったようです。

なお、戦前の坂戸までの路線網は未調査です。
高麗~坂戸間ですが、戦後は東武バスが同じ区間を運行していたようなので、それと関連性はあるのかどうかが気になります。


・戦後の坂戸乗り入れ復活
西武バスの社史によれば、戦後すぐの西武農業鉄道のバス事業(約1年間のみ)の運行路線は14路線で、休止路線が38路線。休止路線の中には飯能~坂戸間も含まれていました。
昭和20年代は坂戸までの路線は復活しなかったと考えられるでしょう。

その後、昭和32年12月には入間川駅~坂戸駅間の路線が復活します。これが後の狭山23系統になる路線です。
調査のため各市史・町史を読んでいたら、「鶴ヶ島町史・近現代資料編」の610ページに、「入間川・坂戸間のバス開通」と称する興味深い資料が掲載されていました。
当時配布された開通告知のビラと思しきものですが、これをそのまま載せてしまうとまずいのでそれらしく複製したモノを載せておきます。

このビラを読んで不可解な部分がいくつか見えてきます。
・「西武鉄道の御協力」という文章
御協力ということは西武に誰かが要請し運行を始めたということになるのか?
そもそも運行するのは西武"鉄道"ではなく西武"バス"でしょう…
・左の〆の部分(?)に、「西武鉄道」と並んで「狭山商工会」の名がある。
何故乗合バスの運行告知に商工会の名があるのか?それも狭山だけというのが不可解。

ここからは私の推測ですが…
何らかの理由(商圏拡大とか…?)によって、西武バスに入間川から坂戸までの路線開設(或いは休止中の路線の復活)を依頼したのではないかと思うのです。
戦前の坂戸方面へのバスの起点は飯能や高麗ですし、何故戦後になって入間川を起点としたのかがよく分かっていないのですが、この説を当てはめれば分かる気もします。
ちなみに昭和32年12月10日発行の「狭山市政だより」にも入間川坂戸間バス開業の告知が掲載されていますが、鶴ヶ島町史に掲載されているビラと、書体・文体や構成がよく似ています…。

入間川~坂戸間の所要時間は50分とのことですが、現代の時刻だと川越乗り換えでおおよそ40分かかるようです。
ただ当時は鉄道も単線でしょうし、何より本川越~川越市間の徒歩連絡が面倒なので、利用する人はあったかもしれませんね。遅れなければの話ですが。

・入間川~坂戸線の廃止まで
さて、昭和32年12月1日の開業以降の歩みを、確認した資料を基に検証していこうとおもいます。
件のビラの次に運行回数などが分かったのは、「埼玉県市町村誌」です。これは昭和45年現在の埼玉県の各市町村の統計データを集録した本ですが、統計の中には路線バスの運行区間と回数が含まれています。
それによれば、入間川駅~高萩駅~坂戸駅間は一日8回の運行があったということです。昭和32年の再開時に比べ倍になっています。

次に運行回数が分かったのが「西武バス社史」集録の「路線開設一覧」。
これを見ると、昭和49年9月16日に狭山市駅~高萩駅~坂戸駅南口間の路線が開設されたことになっています。
運行回数は昭和45年と変わらず8回。距離は16.250kmとなっています。
さて何故「路線開設一覧」に既に運行している路線が載るのか?という疑問が浮かび上がりますが、終点は坂戸駅"南口"となっています。
また、坂戸市史を読むと、坂戸駅に南口改札が開設されたのが昭和45年6月15日。駅周辺の区画整理である「坂戸駅南土地区画整理事業」が完成、公売を開始したのが昭和49年6月18日でした。
開設一覧にわざわざ書いてあるということなので、どこかで経路の変更があったはずですが、ひょっとしたら坂戸駅の南口に乗り入れを開始した…ということなのかもしれません。

その次にデータが分かったのが「西武鉄道時刻表」確認できたのは第2号~第7号で、それ以降は狭山23系統の時刻は掲載されていませんでした。一番古い第2号、昭和55年3月17日現在のデータです。

今も発行されている「西武時刻表」の巻末にある西武バス時刻表の項から抜粋しました。この頃には「狭山23」の系統番号が付けられていました。また当時の狭山営業所の管轄であったことが分かります。
運行回数は昭和49年の資料と変わらず8回。所要時間は狭山市駅~高萩駅間が23分、高萩駅~坂戸駅間が22分とありますので、全区間乗ると遅れなければおおよそ50分といったところでしょうか。
狭山市発の初バスが6時16分、終バスが19時5分。坂戸発の初バスが7時1分、終バスが19時55分。(いずれも平日)
現代の感覚ではちょっと微妙ですが、30年前なら何とか使えたのでしょうか。遅延が大きくなければの話ですが。。。
その後3号、4号が昭和56、57年に発行されており、狭山23系統の時刻も記されていますが運行回数は8回と変わりないです。

変化が起きたのは昭和58年12月9日発行の第5号。「12月12日から運行するダイヤ」という注釈つきで掲載されていますが…

運行回数が6回に減ってしまいました。初バス・終バスの時間はあまり変わりありませんが日中が少しずつへっています。
この昭和58年12月12日の改正か、昭和57年4月以降の改正で運行回数が減ってしまったようでした。

その後、昭和62年3月3日発行の6号、昭和63年7月1日発行の7号に時刻が掲載されていますが、運行回数は6回で変わりないです。
平成元年12月発行の8号は西武バス時刻表自体が掲載されず、営業案内のみとなってしまいました。平成3年3月発行の9号以降西武バス時刻表は再び掲載されるようになりますが、既にその頃は免許維持路線と化していたためか掲載されていません。

西武鉄道時刻表では平成に入ってからのデータを得ることが出来なかったので、狭山市が発行している「統計さやま」を見てみました。
「統計さやま」は昭和51年度から発行されていますが、路線バスのデータが掲載されるのは昭和62年度からです。このデータは西武バスが提供したとのこと。
毎年発行されていた訳ではないようで、飛んでいる部分はありますが、昭和62年度から平成5年度までの狭山23系統のデータのみを抜粋して表にしました。

さてデータでは最も古い昭和59年度の総乗降車人員は12万人台です。しかし翌60年度から61年度にかけてはあまり多くはないものの人員は増えています。現在も一部区間が辛うじて残る入曽~中新田~本川越線よりも多いくらいです。
(ちなみに、入曽中新田本川越線はS61年度の総乗降車人員が131,609人、一日あたりが360人)
しかし翌62年より下がり始め、平成元年度には運行回数が一日3回となると、総乗降車人員は10万人台を割り、一日あたりの人数も61年度の約半分となってしまいました。
その後は年を追うごとに減り続け(特に2年度の落ち込み方が・・・)、最後の平成5年度には総乗降車人員が約3万人、一日あたりが102人となりました。
個人的には一日あたりの乗降車人員がぎりぎり二桁にならなかったのが意外でしたがこれは狭山市駅~根岸新道間の利用客がそこそこあったということになるのでしょうか。

そして、統計さやま平成5年度版には、
「狭山市駅西口~坂戸駅は平成6年1月16日廃止」
という記述がありました。
社史には、「1994年3月限りで休止」とあります。また、この狭山23系統の廃止は担当していた狭山営業所の統廃合という理由もあると言われています。狭山営業所は狭山台団地にあり、平成6年の3月で閉鎖、路線は川越・飯能の両営業所に引き継がれたそうです。
(現在の狭山営業所は、平成14年に再開設された営業所。)
このあたり、社史とその他の資料で食い違いが出てくるのが何とも…。まあ「統計さやま」のデータは西武バスの提供のはずですが。
個人的な推測では、1月16日で実際の運行は休止して、3月一杯で廃止したのでは…と思っています。

なお、「西武鉄道時刻表」2号~7号から抜粋した狭山23系統の時刻表と、「統計さやま」から抜き出した乗降車人員・運行回数をまとめたPDFファイルを用意しておきましたので、興味のある方はご覧いただければと思います。
こちらです。

社史掲載の写真を見ると、この狭山23系統の最終日の車両は、前面にレオマークを取り付けたA1代の富士重工7E(恐らく用途外車か…A1-866と推測)が充当されたようです。
また前ドア脇には「さようなら 坂戸線」と書かれた札が取り付けられています。
ささやかながらさよならの装飾や花束贈呈などが行われたようでした。
惜しむべきはこの写真の撮影地が狭山市駅であることです。社史や、坂戸市・鶴ヶ島市の古い写真集、バスファンのサイトなどを虱潰しに見ていますが、今の所狭山23系統を記録した写真は社史の一枚だけしか見つけていません。
今後も当時の写真を見つけるべく調査は続行する予定です。また「この本・サイトに載っている」「写真を撮った」などの情報も下されば嬉しいです。

・狭山23系統の廃止後
狭山23系統が廃止となったため、当然ながら西武バスの営業エリアから鶴ヶ島市・坂戸市が消えました。
鶴ヶ島市内は、他に東武バスが路線を運行していたものの、市役所などがある中央部を通るのは狭山23系統のみで、市役所へは約2年ほど公共交通機関での来庁が出来なかったようです。
狭山23系統廃止の2年後、平成8年5月より鶴ヶ島市内循環バスの運行が開始し、かつて狭山23系統が経由していた地域に再び乗合バスが通るようになりました。
鶴ヶ島市内循環バスは数回の路線改編などを経て現在は鶴ヶ島市民バス・鶴ヶ島市乗合タクシーとなっています。運行回数も1時間に1本ほどあり、そこそこ使えると思います。

日高市内からは西武バスの路線は無くならなかったものの、高萩駅を経由する路線は狭山23系統のみだったため、西武バスのバス停は消え、高萩駅周辺は国際興業バスの路線だけ運行されました。
しかしそれから1年後の平成7年、川越から霞ヶ関団地・高萩駅方面の路線を運行していた国際興業バスの川越分車庫が廃止され、路線は西武バスに引き継がれました。
こうして高萩駅には再び西武バスが出入りするようになりましたが、日高市内の路線は不採算路線であったようで、平成18年3月一杯をもって撤退を表明、路線は川越のイーグルバスに引き継がれました。高萩駅から西武バスは2回消えたことになります。
運行がイーグルバスになってからは路線の拡充などが図られています。

狭山市側ですが、根岸坂上まで同じ経路を走る狭山25系統:狭山市駅西口~下川崎~飯能駅北口線も次第に運行回数を減らしており、平成21年3月の改正では狭山23系統の晩年と同じ一日3回の運行となりました。今後の展開が気になります。

・おわりに
たいした研究ではありませんが、今まであまりスポットライトの当てられることの無かったバス路線の遺構探索と路線史の調査ができて面白かったです。
最後に参考にした文献を…
・「地域とともに 西武バス60年のあゆみ」
・「鶴ヶ島町史 近現代資料編」
・「坂戸市史 通史編(2)」
・「西武鉄道時刻表」第2号~第7号
・「西武バス路線図」1981年 西武バス発行
・「埼玉県市町村誌」各巻
・「統計さやま」昭和62年度~平成5年度
・「広報さやま 縮刷版」
・ゼンリンの住宅地図 狭山市・日高市・鶴ヶ島市
など

ほぼ文章だけの長ったらしい記事でしたが、最後までご覧いただきどうもありがとうございましたm(_ _)m
ご意見ご感想、ご指摘などありましたらコメント欄かメールでお寄せ頂ければ嬉しいです。

ところざわ…2

2010年10月19日 | くるま・自転車
先の日曜の「ところざわクラシックカーフェスティバル」に来ていた旧車の中から管理人が特に気に入った車の写真を…。
趣味の関係上?商用車が多いです。あと素人なもんですから型式や車名はいい加減ですので間違いなどあればご指摘いただければ…。

まずは…

日産のH31セドリックのバンです。去年も同型車(同じ車?)が来ていましたが撮り損ねたので、今回こそは…という気持ちで撮りました。
古い本で「埼玉県道路パトロールカー」仕様のこの車(ただし縦目)が埼玉県庁前に並んでいる写真を見て以来お気に入りの車です。

この車は前もかっこいいですが後も…テールランプの造形とか、曲面ガラスとかがたまりません。
初代セドリックはセダンも来ていました。

やっぱかっこいいですよね~。ピカピカでほれぼれしてしまいます。

乗用車ベースのバンといえばこちらも…

2代目のクラウン(RT40、でいいのでしょうか)のバンです。これも綺麗でした~。

3台並び…

いすゞベレットの4ドアが3台も…。私の両親とも父親(つまり私からすれば祖父)がベレットに乗っていたそうで、後から別行動で来た両親が興味深そうに眺めていました。
その後スワップミートでベレット1500の販促用チラシ?を入手したので、せっかくの機会…ということでベレットの前で家族写真を撮ってもらいました。

初代の鹿…

一番最初のスバル・サンバーです。その独特の前面形状からくちびるサンバーと呼ばれているそうですが妙に納得してしまいます。

♪あっかる~いナッショナ~ル…

「ナショナルカラー」のダイハツ・ハイゼット。よく残ってたなあ~と思います。
ある意味一番驚いたかも??

〆は…

日産・ジュニアの消防車です。去年と比べ一気に新しくなったなあ…と思いますがこれはこれでいいですよねえ。かっこいいです。思わずトミカリミテッドヴィンテージのこれが欲しくなりました…。
と、思ったらトミカの車とはまた違う型式なんですな。


すばらしいご自慢の旧車を見せてくださった各車のオーナー様には深く感謝します。
というわけで、最後までご覧いただきありがとうございました~m(_ _)m

ナベトロ…

2010年10月18日 | 止れ15吋後に
ここ1~2週間くらいバスや車の記事ばかりだったので、ひさびさに鉄道の記事を…。

昨日の「ところざわ」の沢鉄さまのブース。昨日はずっと入り浸ってました。

写真の通り沢鉄様は15インチのナベトロを持参されていました。クラシックカーも目的でしたがこのナベトロも見たかったんです。

沢鉄様のページをご覧になっている方には解説不要かと思いますが、これは"自家製"車両です…。
成田にある実物(610mmゲージ、でしたっけ)のナベトロを採寸の上、15インチ仕様にスケールダウンしたということです。
もちろん全鋼製で、重量は100kgくらいあるとか。大人一人ではとてもでないけど持ち上げられません。

ナベの部分はリベット留めで、他は溶接で固定したそうです。ちなみにトロの部分にも大きなリベットが打ってあるように見えますが、これはダミーだそうです。
ちなみにこのダミーのリベットはあっと驚くモノを流用されたそうで…。

ナベを倒したところ。

両側にはストッパーがあり、積載している時はこのストッパーをかけるということです。
ちなみにこのストッパーは片側だけかけるとナベが動いてしまうので両側必ず必要だそうですよ!

あとナベを倒さないで留置すると水がたまるんじゃないか…?という素朴な疑問があったのですが、ナベの底には水抜き用の穴が3箇所開けてありました。これは実物も同様だそうです。

しっかり銘板も取り付けられています。

これも特注だそうです…凄い。

このナベトロはミゼットに乗って所沢までやってきました。

ミゼットを街中で見かけると当然小さく感じますがナベトロを積載すると大きく感じるから不思議です。
逆にそれだけナベトロが小さいということなのか?でもこのナベトロはかなり貫禄がありますよ。

ナベトロは、午前中は販売ブースの台として利用されていまいたが午後はちゃんと展示されていました。
ナベトロを見に来た方(もちろん自分とMLながとろ氏も…)と沢鉄様との15インチ談義(?)もなかなか楽しかったです。

重ね重ねになりますが沢鉄様、M様どうもありがとうございましたm(_ _)m
まだどこかでお会いできたらその時はよろしくお願いします…(^^)