数回前の記事で、西武バスの狭山23系統(狭山市駅西口~坂戸駅)の遺構調査の報告をしました。
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今回狭山23系統の変遷をちょっとだけ調べてみましたのでよろしければ見てください。
・戦前
現在の(企業としての)西武バスは東浦自動車という会社を前身とします。東浦自動車は箱根土地会社(後の国土計画→コクド)の系列会社で、1945年の(旧)西武鉄道と武蔵野鉄道の合併翌年にそれぞれが保有していたバス事業を東浦自動車改め武蔵野自動車に統合、西武自動車→西武バスとなりました。
このうち武蔵野鉄道の乗合バスも元々武蔵野鉄道が運行していた路線と、戦中に合併した多摩湖鉄道が運行していた路線に分けることができます。
さらに遡れば各社が独自に開業した路線もありますが、個人や小規模経営の事業者を買収した路線が多数ありました。
武蔵野鉄道に引き継がれた吾野共同自動車組合もその一つで、詳しく調べなかったのですが高麗村の市原(現在の高麗駅付近?)から坂戸までの路線を運行していたようです。
吾野共同自動車組合の路線は段階的に武蔵野鉄道へ引き継がれます。件の坂戸までの路線が引き継がれたのは1934年3月でした。
その後1936年、吾野村の岡部君作が運行していた飯能~坂戸間の路線も譲り受け、さらに翌年には坂戸から松山間を延長しています。
しかし戦時体制に入り鉄道との並行路線や利用数が少ない路線は休止されていきました。坂戸方面への路線もいつ頃かは不明ですが休止になってしまったようです。
なお、戦前の坂戸までの路線網は未調査です。
高麗~坂戸間ですが、戦後は東武バスが同じ区間を運行していたようなので、それと関連性はあるのかどうかが気になります。
・戦後の坂戸乗り入れ復活
西武バスの社史によれば、戦後すぐの西武農業鉄道のバス事業(約1年間のみ)の運行路線は14路線で、休止路線が38路線。休止路線の中には飯能~坂戸間も含まれていました。
昭和20年代は坂戸までの路線は復活しなかったと考えられるでしょう。
その後、昭和32年12月には入間川駅~坂戸駅間の路線が復活します。これが後の狭山23系統になる路線です。
調査のため各市史・町史を読んでいたら、「鶴ヶ島町史・近現代資料編」の610ページに、「入間川・坂戸間のバス開通」と称する興味深い資料が掲載されていました。
当時配布された開通告知のビラと思しきものですが、これをそのまま載せてしまうとまずいのでそれらしく複製したモノを載せておきます。
このビラを読んで不可解な部分がいくつか見えてきます。
・「西武鉄道の御協力」という文章
御協力ということは西武に誰かが要請し運行を始めたということになるのか?
そもそも運行するのは西武"鉄道"ではなく西武"バス"でしょう…
・左の〆の部分(?)に、「西武鉄道」と並んで「狭山商工会」の名がある。
何故乗合バスの運行告知に商工会の名があるのか?それも狭山だけというのが不可解。
ここからは私の推測ですが…
何らかの理由(商圏拡大とか…?)によって、西武バスに入間川から坂戸までの路線開設(或いは休止中の路線の復活)を依頼したのではないかと思うのです。
戦前の坂戸方面へのバスの起点は飯能や高麗ですし、何故戦後になって入間川を起点としたのかがよく分かっていないのですが、この説を当てはめれば分かる気もします。
ちなみに昭和32年12月10日発行の「狭山市政だより」にも入間川坂戸間バス開業の告知が掲載されていますが、鶴ヶ島町史に掲載されているビラと、書体・文体や構成がよく似ています…。
入間川~坂戸間の所要時間は50分とのことですが、現代の時刻だと川越乗り換えでおおよそ40分かかるようです。
ただ当時は鉄道も単線でしょうし、何より本川越~川越市間の徒歩連絡が面倒なので、利用する人はあったかもしれませんね。遅れなければの話ですが。
・入間川~坂戸線の廃止まで
さて、昭和32年12月1日の開業以降の歩みを、確認した資料を基に検証していこうとおもいます。
件のビラの次に運行回数などが分かったのは、「埼玉県市町村誌」です。これは昭和45年現在の埼玉県の各市町村の統計データを集録した本ですが、統計の中には路線バスの運行区間と回数が含まれています。
それによれば、入間川駅~高萩駅~坂戸駅間は一日8回の運行があったということです。昭和32年の再開時に比べ倍になっています。
次に運行回数が分かったのが「西武バス社史」集録の「路線開設一覧」。
これを見ると、昭和49年9月16日に狭山市駅~高萩駅~坂戸駅南口間の路線が開設されたことになっています。
運行回数は昭和45年と変わらず8回。距離は16.250kmとなっています。
さて何故「路線開設一覧」に既に運行している路線が載るのか?という疑問が浮かび上がりますが、終点は坂戸駅"南口"となっています。
また、坂戸市史を読むと、坂戸駅に南口改札が開設されたのが昭和45年6月15日。駅周辺の区画整理である「坂戸駅南土地区画整理事業」が完成、公売を開始したのが昭和49年6月18日でした。
開設一覧にわざわざ書いてあるということなので、どこかで経路の変更があったはずですが、ひょっとしたら坂戸駅の南口に乗り入れを開始した…ということなのかもしれません。
その次にデータが分かったのが「西武鉄道時刻表」確認できたのは第2号~第7号で、それ以降は狭山23系統の時刻は掲載されていませんでした。一番古い第2号、昭和55年3月17日現在のデータです。
今も発行されている「西武時刻表」の巻末にある西武バス時刻表の項から抜粋しました。この頃には「狭山23」の系統番号が付けられていました。また当時の狭山営業所の管轄であったことが分かります。
運行回数は昭和49年の資料と変わらず8回。所要時間は狭山市駅~高萩駅間が23分、高萩駅~坂戸駅間が22分とありますので、全区間乗ると遅れなければおおよそ50分といったところでしょうか。
狭山市発の初バスが6時16分、終バスが19時5分。坂戸発の初バスが7時1分、終バスが19時55分。(いずれも平日)
現代の感覚ではちょっと微妙ですが、30年前なら何とか使えたのでしょうか。遅延が大きくなければの話ですが。。。
その後3号、4号が昭和56、57年に発行されており、狭山23系統の時刻も記されていますが運行回数は8回と変わりないです。
変化が起きたのは昭和58年12月9日発行の第5号。「12月12日から運行するダイヤ」という注釈つきで掲載されていますが…
運行回数が6回に減ってしまいました。初バス・終バスの時間はあまり変わりありませんが日中が少しずつへっています。
この昭和58年12月12日の改正か、昭和57年4月以降の改正で運行回数が減ってしまったようでした。
その後、昭和62年3月3日発行の6号、昭和63年7月1日発行の7号に時刻が掲載されていますが、運行回数は6回で変わりないです。
平成元年12月発行の8号は西武バス時刻表自体が掲載されず、営業案内のみとなってしまいました。平成3年3月発行の9号以降西武バス時刻表は再び掲載されるようになりますが、既にその頃は免許維持路線と化していたためか掲載されていません。
西武鉄道時刻表では平成に入ってからのデータを得ることが出来なかったので、狭山市が発行している「統計さやま」を見てみました。
「統計さやま」は昭和51年度から発行されていますが、路線バスのデータが掲載されるのは昭和62年度からです。このデータは西武バスが提供したとのこと。
毎年発行されていた訳ではないようで、飛んでいる部分はありますが、昭和62年度から平成5年度までの狭山23系統のデータのみを抜粋して表にしました。
さてデータでは最も古い昭和59年度の総乗降車人員は12万人台です。しかし翌60年度から61年度にかけてはあまり多くはないものの人員は増えています。現在も一部区間が辛うじて残る入曽~中新田~本川越線よりも多いくらいです。
(ちなみに、入曽中新田本川越線はS61年度の総乗降車人員が131,609人、一日あたりが360人)
しかし翌62年より下がり始め、平成元年度には運行回数が一日3回となると、総乗降車人員は10万人台を割り、一日あたりの人数も61年度の約半分となってしまいました。
その後は年を追うごとに減り続け(特に2年度の落ち込み方が・・・)、最後の平成5年度には総乗降車人員が約3万人、一日あたりが102人となりました。
個人的には一日あたりの乗降車人員がぎりぎり二桁にならなかったのが意外でしたがこれは狭山市駅~根岸新道間の利用客がそこそこあったということになるのでしょうか。
そして、統計さやま平成5年度版には、
「狭山市駅西口~坂戸駅は平成6年1月16日廃止」
という記述がありました。
社史には、「1994年3月限りで休止」とあります。また、この狭山23系統の廃止は担当していた狭山営業所の統廃合という理由もあると言われています。狭山営業所は狭山台団地にあり、平成6年の3月で閉鎖、路線は川越・飯能の両営業所に引き継がれたそうです。
(現在の狭山営業所は、平成14年に再開設された営業所。)
このあたり、社史とその他の資料で食い違いが出てくるのが何とも…。まあ「統計さやま」のデータは西武バスの提供のはずですが。
個人的な推測では、1月16日で実際の運行は休止して、3月一杯で廃止したのでは…と思っています。
なお、「西武鉄道時刻表」2号~7号から抜粋した狭山23系統の時刻表と、「統計さやま」から抜き出した乗降車人員・運行回数をまとめたPDFファイルを用意しておきましたので、興味のある方はご覧いただければと思います。
こちらです。
社史掲載の写真を見ると、この狭山23系統の最終日の車両は、前面にレオマークを取り付けたA1代の富士重工7E(恐らく用途外車か…A1-866と推測)が充当されたようです。
また前ドア脇には「さようなら 坂戸線」と書かれた札が取り付けられています。
ささやかながらさよならの装飾や花束贈呈などが行われたようでした。
惜しむべきはこの写真の撮影地が狭山市駅であることです。社史や、坂戸市・鶴ヶ島市の古い写真集、バスファンのサイトなどを虱潰しに見ていますが、今の所狭山23系統を記録した写真は社史の一枚だけしか見つけていません。
今後も当時の写真を見つけるべく調査は続行する予定です。また「この本・サイトに載っている」「写真を撮った」などの情報も下されば嬉しいです。
・狭山23系統の廃止後
狭山23系統が廃止となったため、当然ながら西武バスの営業エリアから鶴ヶ島市・坂戸市が消えました。
鶴ヶ島市内は、他に東武バスが路線を運行していたものの、市役所などがある中央部を通るのは狭山23系統のみで、市役所へは約2年ほど公共交通機関での来庁が出来なかったようです。
狭山23系統廃止の2年後、平成8年5月より鶴ヶ島市内循環バスの運行が開始し、かつて狭山23系統が経由していた地域に再び乗合バスが通るようになりました。
鶴ヶ島市内循環バスは数回の路線改編などを経て現在は鶴ヶ島市民バス・鶴ヶ島市乗合タクシーとなっています。運行回数も1時間に1本ほどあり、そこそこ使えると思います。
日高市内からは西武バスの路線は無くならなかったものの、高萩駅を経由する路線は狭山23系統のみだったため、西武バスのバス停は消え、高萩駅周辺は国際興業バスの路線だけ運行されました。
しかしそれから1年後の平成7年、川越から霞ヶ関団地・高萩駅方面の路線を運行していた国際興業バスの川越分車庫が廃止され、路線は西武バスに引き継がれました。
こうして高萩駅には再び西武バスが出入りするようになりましたが、日高市内の路線は不採算路線であったようで、平成18年3月一杯をもって撤退を表明、路線は川越のイーグルバスに引き継がれました。高萩駅から西武バスは2回消えたことになります。
運行がイーグルバスになってからは路線の拡充などが図られています。
狭山市側ですが、根岸坂上まで同じ経路を走る狭山25系統:狭山市駅西口~下川崎~飯能駅北口線も次第に運行回数を減らしており、平成21年3月の改正では狭山23系統の晩年と同じ一日3回の運行となりました。今後の展開が気になります。
・おわりに
たいした研究ではありませんが、今まであまりスポットライトの当てられることの無かったバス路線の遺構探索と路線史の調査ができて面白かったです。
最後に参考にした文献を…
・「地域とともに 西武バス60年のあゆみ」
・「鶴ヶ島町史 近現代資料編」
・「坂戸市史 通史編(2)」
・「西武鉄道時刻表」第2号~第7号
・「西武バス路線図」1981年 西武バス発行
・「埼玉県市町村誌」各巻
・「統計さやま」昭和62年度~平成5年度
・「広報さやま 縮刷版」
・ゼンリンの住宅地図 狭山市・日高市・鶴ヶ島市
など
ほぼ文章だけの長ったらしい記事でしたが、最後までご覧いただきどうもありがとうございましたm(_ _)m
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