止れ3米後に

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バス停は物語る(2) 国際飯能の運賃表

2012年02月20日 | 乗合バス路線史シリーズ
バス停ネタ第二弾です。今回は国際興業バス飯能営業所管内の、バス停のポールに取り付けられている運賃表を取り上げてみたいと思います。

上の写真のようなポールはよく「だるま型」とか言われるタイプです。上の丸い標識の下に板が2枚取り付けられています。それぞれ上は時刻表、下は路線図・系統図を兼ねた運賃表が取り付けられています。
このだるまポールは飯能管内でも割と多く見ることができます。
トップにあげた画像はその中でも特に免許維持路線やそれに準ずる系統を中心に残っている、古い路線図兼運賃表です。

同じ画像の路線図の部分をアップで(クリックで拡大します)。
さてこれはいつ頃のものか推測してみましょう。まず「平10年4月1日実施」と書かれたステッカーが右下に貼ってあるのが見えます。これは恐らく現在の運賃を設定した日でしょうから、少なくともこれ以前、ということになります。
次に路線図を見て目にはいるのが「高麗川団地第二折返場」の文字。現在はイーグルバスが運行している高麗川団地方面は、かつては国際興業バスが運行していました。
川越駅からの路線は今は無き川越営業所が運行していましたが、飯能駅からの路線は地元の飯能管轄でした。
末期は
[飯12]飯能駅~高麗川駅~高麗川団地第二折返場
の運行でした。
1995年1月に国際興業の川越車庫が閉鎖、管轄の路線は西武バスに移管されました。
その際、高麗川団地への路線は西武が一括して運行することになったため、飯12系統は高麗川駅までの運行に短縮されました。
その代わりに、西武が運行していた宮沢湖経由の飯能駅~高麗川駅間(飯52系統など)が高麗川団地、さらに高萩駅・ひだか団地へと延長された形になったのです。それらも後にイーグルバスに移管され現在に至ります。
前置きが長くなりましたが、少なくともこれは1995年以前のものでしょう。

他にも「原市場折返場」も現在は廃止されてありません。当然ですが95年以降に延長された、さわらびの湯や有間渓谷、埼玉医大方面の系統も書かれていません。
飯11系統の「トンネル入口」というバス停も今は「クリーンセンター」という名前に変わっています。
「トンネル」とは埼玉県下では初めてのレンガ造りの隧道で、現在は廃道となった「畑トンネル」のことでしょう。
(現在では違う方面でだいぶ有名らしいですが...^^;)

一枚の路線図から分かることもだいぶあるもんですね。


おまけ

学02系統のバス停にあった運賃表兼路線図。上からペンキで塗られており運賃表としての役目を果たしていません。

ペンキが剥がれかけたところから見える文字を見ると、飯能管内のバス停ではない模様…
どうも大宮方面のもののようで。使われなくなったのを転用したんでしょうね。

バス停は物語る(1) 宮寺農協の所13

2012年02月13日 | 乗合バス路線史シリーズ
入間市内循環バスに宮寺農協前というバス停があります。南コースが通過するこのバス停はかつて普通の路線バスと共用であったようで、その名残か入間市博物館方面のバス停は西武バスの標準的なものが使われています。


上の写真でも分かるとおり、かつての一般路線の系統番号・行き先と次のバス停の名前はガムテープで隠してあります。
[所13] 箱根ヶ崎駅 と書いてあるように見えます。次停留所は「坊」でしょうか。


下の路線図も当時のものですが上から紙が貼ってあります。ああ剥がしたい…
なお入間市役所方面の乗り場は循環バス専用のポールに交換済みです。

さて所13系統は所沢駅西口から箱根ヶ崎駅へ向かう系統でした。
現在宮寺へ向かう系統は小手指駅発着が主になってしまいましたが、かつては所沢発着だったそうです。1979年発行の西武時刻表創刊号から関連する系統を抜き出してみました。
国立病院線 所10 所沢駅~狭山ヶ丘駅
国立病院線 所11 所沢駅~国立病院
藤 沢 線 所12 所沢駅~武蔵藤沢駅
箱根ヶ崎線 所13 所沢駅~箱根ヶ崎駅
      所14 所沢駅~宮寺
      所15 所沢駅~三ヶ島農協
新 所 沢線 所41 所沢駅~新所沢駅
狭山ヶ丘線 所43 所沢駅~新所沢駅~狭山ヶ丘駅~三ヶ島農協
狭山ヶ丘線 所45 所沢駅~新所沢駅~狭山ヶ丘駅~国立病院
運行はすべて所沢営業所です。
これらのうち国道463号線経由の系統は全て廃止されています・・・。
箱根ヶ崎線の所13系統など、県道179号線経由の系統は、小手指駅発着に変更され、所沢駅西口からは新たに
所16 所沢駅西口~早稲田大学
所17 所沢駅西口~椿峰ニュータウン
が出入庫を兼ねて開設され、この時点では旧箱根ヶ崎線時代のルートは維持されていました。
しかし2009年の所沢営業所の移転に伴い、所16・17の両系統は廃止されました。
狭山ヶ丘駅・国立病院方面へも、小手指駅から系統が新たに開設されましたが、近年の改廃で狭山ヶ丘駅への乗り入れ本数が激減したのは周知の通りです。
箱根ヶ崎駅への乗り入れも、狭山ヶ丘駅経由の便が僅かに残るのみとなってしまいました。

なお地図を見て頂ければわかりますが、現在小手指からの路線バスは県道を通っており、そちらに「JA宮寺支店前」というバス停があります。
もともとはこちらの宮寺農協前バス停がある旧道を経由していたようですが路線は県道に移り、現在は入間市内循環バスのみが停車するようになってしまいました。
ご利用の際にはご注意を。


ちなみにこのポールを初めて見たのはもう3年くらい前、たまたまここからバスに乗った時でした。その時はカメラが電池切れで、また来ればいいやと思って来たのが去年夏。
その時にブログにアップしようと思っていてすっかり忘れて昨日思い出して、ようやくアップしました。

バス停は時としてこういう廃止路線の面影を残しているから面白いです。
不定期シリーズとしてまたなにか見つけたら載せようと思います。

廃止バス停の痕跡を探る(5) 東燃循環

2010年10月31日 | 乗合バス路線史シリーズ
シリーズ「廃止バス停の痕跡を探る」ですが、初めて地元事業者である西武バス以外の痕跡を取り上げようかと・・・
今回は東武バスの「上福02 東燃循環」のバス停跡地を訪ねました。

この「東燃循環」は系統番号の通り東武東上線上福岡駅東口を起点とする循環路線でした。
県道所沢大宮線を通り、旧大井町の鶴ヶ岡を循環する系統で、沿線に東燃の研究所や住宅があったことから、路線名が「東燃循環」となったようです。
1970年現在のデータでは一日18回(他に上福岡駅~東燃住宅間が3回、川越神明町車庫~東燃住宅間が2回)の運行があったようですが、近年は平日に1回のみ運行される、いわゆる「免許維持路線」と化していました。
そして、去る9月30日一杯で廃止されてしまいました。
参考程度にバス停掲示の路線図(平成18年12月現在)から抜き出した東燃循環の路線図を・・・

過去は不明ですが最晩年は片方向のみの運行でした。
この地域は路線バスが密集しており、運行会社も東武・西武・ライフバスの3社、東武・西武は2つの営業所のエリアが被っています。
また、自治体の循環バスも地元ふじみ野市の他に川越市のバスも乗り入れています。
ただ、大手2社は比較的運行回数が多い路線とそうでない、免許維持路線に分けることができ、東燃循環は当然後者に入ります。
東燃循環の経路はほぼ全区間、他の系統と重複しており、廃止しても特に影響はないのでは・・・と思います。


今回、上福岡方面を訪れる機会があったので、廃止一月後バス停がどうなっているのか見てきました。
上記の通りほぼ全ての区間で他のバス路線と並行しているので、どのくらい遺構が残っているかは未知数でしたが・・・。
まずは起点の上福岡駅東口のバス乗り場から・・・。

バス用のターンテーブルや、立派な上屋がある東口乗り場ですが、人影はなく寂れています。
バス停の看板も駅前にはちと似合わないタイプ・・・「東燃循環」の表記は、マスキングテープのようなもので隠されていますが、思い切り透けて文字が見えます。
東口乗り場には一応、あんどん形のポールもありましたが・・・

看板を裏返しにして取り付けてあります。せっかくの設備ですが使われていないようで・・・。

東口を出て、渋滞する東上線の踏切を渡り、最初のバス停が「ふじみ通り」。

ここの看板にもばっちり東燃循環の文字が残されています。それどころか、数年前に廃止になったはずの「川越07:川越駅~上福岡駅」の文字もうっすらと残っています。

亀久保の交差点から川越街道を走り、上福岡駅西口から続く「中央通」に入ってすぐの「鶴ヶ岡中央通り」バス停。

比較的新しいダルマ形ポールですが、しっかり東燃循環の名が記されています。
ここもマスキングテープらしきもので隠されてはいますが、思いっきり透けています。


お次は東燃の研究所跡地に建つ「ビバモール」裏手の「ホンダ学園入口」バス停。

ここはバス停スペースが残っていました。ドア位置は前後と東武らしいです。
友人の話では10月中頃までバス停看板が残っていたとか・・・その頃来ればよかった・・・
ここはふじみ野市内循環バスのバス停がありますが、「大井保健センター入口」という名前です。
バス停自体2010年に循環バスの路線を拡充した際に設置されたそうです。友人曰く拡充された時に設置されたバス停とそれ以前の物は異なり、この背の低いタイプが新設された物で、下の緑が丘二丁目のタイプが旧来の物だそうです。

次がその緑が丘二丁目バス停。

ここはバス停スペースとポールの台座だけ残っていました。お隣はふじみ野市内循環バスの同名バス停です。
この先で再び県道所沢大宮線に合流、上福岡駅東口に戻ります。

友人が廃止間際の東燃循環のバス停を記録していたので、許可を得て公開させて頂きます。
上で紹介した「緑が丘二丁目」バス停。

手前のオレンジ色のポールが東燃循環の物です。
今は台座だけになってしまいました・・・。

次いで「ホンダ学園入口」バス停。

考えてみれば、手前の新しいふじみ野市内循環バスと東燃循環のバス停が並んだのはごくごく短い期間だったんですな。
そういう意味では貴重なカットかもしれません。

ホンダ学園入口バス停に掲出されていた時刻表。

平成20年3月31日が最後のダイヤ改正日となったようです。
運行は12時台にたった1本、休日は「運行いたしません」の文字が・・・。
いつ廃止になってもおかしくはない路線でした。

最後は、路線廃止のお知らせを・・・

「普段よりご利用いただいているお客様~」などと書かれていますが、一日1本のバスに定期利用客なぞいたのかと・・・まあ定型文のようなものでしょうが。
しかしバス路線ヲタ(?)としてこのお知らせほど寂しいものはないです。まあ廃バス停探索者としてはまた一つ研究対象(笑)が増えたわけですが、それでも運行されているバス路線のほうがいいです。
写真を提供していただいた友人も廃止になると知ったのが直前で、せめて最後くらい乗車しておきたい・・と思ったそうですが、平日のみの運行だったので断念したとのことでした。
私も廃止を知ったのがつい先日だったのですが、もし知っていたら乗りにいってたのになあ、と。何せ運行最終日は空いていましたから・・・(T_T)

というわけで、廃止一月後の東燃循環のレポでした。
これから遺構や今も残る看板・標記はどんどん消えてゆくかもしれませんから、興味のある方はお早めにどうぞ。
友人某氏には写真と情報の提供、それから現地の案内をしていただきどうもありがとうございました!!m(_ _)mこれからもまた改廃情報などあったら教えてくださひ・・・。

廃止バス停の痕跡を探る(4) 狭山23系統の考察

2010年10月23日 | 乗合バス路線史シリーズ
数回前の記事で、西武バスの狭山23系統(狭山市駅西口~坂戸駅)の遺構調査の報告をしました。
(1)(2)(3)
今回狭山23系統の変遷をちょっとだけ調べてみましたのでよろしければ見てください。

・戦前
現在の(企業としての)西武バスは東浦自動車という会社を前身とします。東浦自動車は箱根土地会社(後の国土計画→コクド)の系列会社で、1945年の(旧)西武鉄道と武蔵野鉄道の合併翌年にそれぞれが保有していたバス事業を東浦自動車改め武蔵野自動車に統合、西武自動車→西武バスとなりました。
このうち武蔵野鉄道の乗合バスも元々武蔵野鉄道が運行していた路線と、戦中に合併した多摩湖鉄道が運行していた路線に分けることができます。
さらに遡れば各社が独自に開業した路線もありますが、個人や小規模経営の事業者を買収した路線が多数ありました。
武蔵野鉄道に引き継がれた吾野共同自動車組合もその一つで、詳しく調べなかったのですが高麗村の市原(現在の高麗駅付近?)から坂戸までの路線を運行していたようです。
吾野共同自動車組合の路線は段階的に武蔵野鉄道へ引き継がれます。件の坂戸までの路線が引き継がれたのは1934年3月でした。
その後1936年、吾野村の岡部君作が運行していた飯能~坂戸間の路線も譲り受け、さらに翌年には坂戸から松山間を延長しています。
しかし戦時体制に入り鉄道との並行路線や利用数が少ない路線は休止されていきました。坂戸方面への路線もいつ頃かは不明ですが休止になってしまったようです。

なお、戦前の坂戸までの路線網は未調査です。
高麗~坂戸間ですが、戦後は東武バスが同じ区間を運行していたようなので、それと関連性はあるのかどうかが気になります。


・戦後の坂戸乗り入れ復活
西武バスの社史によれば、戦後すぐの西武農業鉄道のバス事業(約1年間のみ)の運行路線は14路線で、休止路線が38路線。休止路線の中には飯能~坂戸間も含まれていました。
昭和20年代は坂戸までの路線は復活しなかったと考えられるでしょう。

その後、昭和32年12月には入間川駅~坂戸駅間の路線が復活します。これが後の狭山23系統になる路線です。
調査のため各市史・町史を読んでいたら、「鶴ヶ島町史・近現代資料編」の610ページに、「入間川・坂戸間のバス開通」と称する興味深い資料が掲載されていました。
当時配布された開通告知のビラと思しきものですが、これをそのまま載せてしまうとまずいのでそれらしく複製したモノを載せておきます。

このビラを読んで不可解な部分がいくつか見えてきます。
・「西武鉄道の御協力」という文章
御協力ということは西武に誰かが要請し運行を始めたということになるのか?
そもそも運行するのは西武"鉄道"ではなく西武"バス"でしょう…
・左の〆の部分(?)に、「西武鉄道」と並んで「狭山商工会」の名がある。
何故乗合バスの運行告知に商工会の名があるのか?それも狭山だけというのが不可解。

ここからは私の推測ですが…
何らかの理由(商圏拡大とか…?)によって、西武バスに入間川から坂戸までの路線開設(或いは休止中の路線の復活)を依頼したのではないかと思うのです。
戦前の坂戸方面へのバスの起点は飯能や高麗ですし、何故戦後になって入間川を起点としたのかがよく分かっていないのですが、この説を当てはめれば分かる気もします。
ちなみに昭和32年12月10日発行の「狭山市政だより」にも入間川坂戸間バス開業の告知が掲載されていますが、鶴ヶ島町史に掲載されているビラと、書体・文体や構成がよく似ています…。

入間川~坂戸間の所要時間は50分とのことですが、現代の時刻だと川越乗り換えでおおよそ40分かかるようです。
ただ当時は鉄道も単線でしょうし、何より本川越~川越市間の徒歩連絡が面倒なので、利用する人はあったかもしれませんね。遅れなければの話ですが。

・入間川~坂戸線の廃止まで
さて、昭和32年12月1日の開業以降の歩みを、確認した資料を基に検証していこうとおもいます。
件のビラの次に運行回数などが分かったのは、「埼玉県市町村誌」です。これは昭和45年現在の埼玉県の各市町村の統計データを集録した本ですが、統計の中には路線バスの運行区間と回数が含まれています。
それによれば、入間川駅~高萩駅~坂戸駅間は一日8回の運行があったということです。昭和32年の再開時に比べ倍になっています。

次に運行回数が分かったのが「西武バス社史」集録の「路線開設一覧」。
これを見ると、昭和49年9月16日に狭山市駅~高萩駅~坂戸駅南口間の路線が開設されたことになっています。
運行回数は昭和45年と変わらず8回。距離は16.250kmとなっています。
さて何故「路線開設一覧」に既に運行している路線が載るのか?という疑問が浮かび上がりますが、終点は坂戸駅"南口"となっています。
また、坂戸市史を読むと、坂戸駅に南口改札が開設されたのが昭和45年6月15日。駅周辺の区画整理である「坂戸駅南土地区画整理事業」が完成、公売を開始したのが昭和49年6月18日でした。
開設一覧にわざわざ書いてあるということなので、どこかで経路の変更があったはずですが、ひょっとしたら坂戸駅の南口に乗り入れを開始した…ということなのかもしれません。

その次にデータが分かったのが「西武鉄道時刻表」確認できたのは第2号~第7号で、それ以降は狭山23系統の時刻は掲載されていませんでした。一番古い第2号、昭和55年3月17日現在のデータです。

今も発行されている「西武時刻表」の巻末にある西武バス時刻表の項から抜粋しました。この頃には「狭山23」の系統番号が付けられていました。また当時の狭山営業所の管轄であったことが分かります。
運行回数は昭和49年の資料と変わらず8回。所要時間は狭山市駅~高萩駅間が23分、高萩駅~坂戸駅間が22分とありますので、全区間乗ると遅れなければおおよそ50分といったところでしょうか。
狭山市発の初バスが6時16分、終バスが19時5分。坂戸発の初バスが7時1分、終バスが19時55分。(いずれも平日)
現代の感覚ではちょっと微妙ですが、30年前なら何とか使えたのでしょうか。遅延が大きくなければの話ですが。。。
その後3号、4号が昭和56、57年に発行されており、狭山23系統の時刻も記されていますが運行回数は8回と変わりないです。

変化が起きたのは昭和58年12月9日発行の第5号。「12月12日から運行するダイヤ」という注釈つきで掲載されていますが…

運行回数が6回に減ってしまいました。初バス・終バスの時間はあまり変わりありませんが日中が少しずつへっています。
この昭和58年12月12日の改正か、昭和57年4月以降の改正で運行回数が減ってしまったようでした。

その後、昭和62年3月3日発行の6号、昭和63年7月1日発行の7号に時刻が掲載されていますが、運行回数は6回で変わりないです。
平成元年12月発行の8号は西武バス時刻表自体が掲載されず、営業案内のみとなってしまいました。平成3年3月発行の9号以降西武バス時刻表は再び掲載されるようになりますが、既にその頃は免許維持路線と化していたためか掲載されていません。

西武鉄道時刻表では平成に入ってからのデータを得ることが出来なかったので、狭山市が発行している「統計さやま」を見てみました。
「統計さやま」は昭和51年度から発行されていますが、路線バスのデータが掲載されるのは昭和62年度からです。このデータは西武バスが提供したとのこと。
毎年発行されていた訳ではないようで、飛んでいる部分はありますが、昭和62年度から平成5年度までの狭山23系統のデータのみを抜粋して表にしました。

さてデータでは最も古い昭和59年度の総乗降車人員は12万人台です。しかし翌60年度から61年度にかけてはあまり多くはないものの人員は増えています。現在も一部区間が辛うじて残る入曽~中新田~本川越線よりも多いくらいです。
(ちなみに、入曽中新田本川越線はS61年度の総乗降車人員が131,609人、一日あたりが360人)
しかし翌62年より下がり始め、平成元年度には運行回数が一日3回となると、総乗降車人員は10万人台を割り、一日あたりの人数も61年度の約半分となってしまいました。
その後は年を追うごとに減り続け(特に2年度の落ち込み方が・・・)、最後の平成5年度には総乗降車人員が約3万人、一日あたりが102人となりました。
個人的には一日あたりの乗降車人員がぎりぎり二桁にならなかったのが意外でしたがこれは狭山市駅~根岸新道間の利用客がそこそこあったということになるのでしょうか。

そして、統計さやま平成5年度版には、
「狭山市駅西口~坂戸駅は平成6年1月16日廃止」
という記述がありました。
社史には、「1994年3月限りで休止」とあります。また、この狭山23系統の廃止は担当していた狭山営業所の統廃合という理由もあると言われています。狭山営業所は狭山台団地にあり、平成6年の3月で閉鎖、路線は川越・飯能の両営業所に引き継がれたそうです。
(現在の狭山営業所は、平成14年に再開設された営業所。)
このあたり、社史とその他の資料で食い違いが出てくるのが何とも…。まあ「統計さやま」のデータは西武バスの提供のはずですが。
個人的な推測では、1月16日で実際の運行は休止して、3月一杯で廃止したのでは…と思っています。

なお、「西武鉄道時刻表」2号~7号から抜粋した狭山23系統の時刻表と、「統計さやま」から抜き出した乗降車人員・運行回数をまとめたPDFファイルを用意しておきましたので、興味のある方はご覧いただければと思います。
こちらです。

社史掲載の写真を見ると、この狭山23系統の最終日の車両は、前面にレオマークを取り付けたA1代の富士重工7E(恐らく用途外車か…A1-866と推測)が充当されたようです。
また前ドア脇には「さようなら 坂戸線」と書かれた札が取り付けられています。
ささやかながらさよならの装飾や花束贈呈などが行われたようでした。
惜しむべきはこの写真の撮影地が狭山市駅であることです。社史や、坂戸市・鶴ヶ島市の古い写真集、バスファンのサイトなどを虱潰しに見ていますが、今の所狭山23系統を記録した写真は社史の一枚だけしか見つけていません。
今後も当時の写真を見つけるべく調査は続行する予定です。また「この本・サイトに載っている」「写真を撮った」などの情報も下されば嬉しいです。

・狭山23系統の廃止後
狭山23系統が廃止となったため、当然ながら西武バスの営業エリアから鶴ヶ島市・坂戸市が消えました。
鶴ヶ島市内は、他に東武バスが路線を運行していたものの、市役所などがある中央部を通るのは狭山23系統のみで、市役所へは約2年ほど公共交通機関での来庁が出来なかったようです。
狭山23系統廃止の2年後、平成8年5月より鶴ヶ島市内循環バスの運行が開始し、かつて狭山23系統が経由していた地域に再び乗合バスが通るようになりました。
鶴ヶ島市内循環バスは数回の路線改編などを経て現在は鶴ヶ島市民バス・鶴ヶ島市乗合タクシーとなっています。運行回数も1時間に1本ほどあり、そこそこ使えると思います。

日高市内からは西武バスの路線は無くならなかったものの、高萩駅を経由する路線は狭山23系統のみだったため、西武バスのバス停は消え、高萩駅周辺は国際興業バスの路線だけ運行されました。
しかしそれから1年後の平成7年、川越から霞ヶ関団地・高萩駅方面の路線を運行していた国際興業バスの川越分車庫が廃止され、路線は西武バスに引き継がれました。
こうして高萩駅には再び西武バスが出入りするようになりましたが、日高市内の路線は不採算路線であったようで、平成18年3月一杯をもって撤退を表明、路線は川越のイーグルバスに引き継がれました。高萩駅から西武バスは2回消えたことになります。
運行がイーグルバスになってからは路線の拡充などが図られています。

狭山市側ですが、根岸坂上まで同じ経路を走る狭山25系統:狭山市駅西口~下川崎~飯能駅北口線も次第に運行回数を減らしており、平成21年3月の改正では狭山23系統の晩年と同じ一日3回の運行となりました。今後の展開が気になります。

・おわりに
たいした研究ではありませんが、今まであまりスポットライトの当てられることの無かったバス路線の遺構探索と路線史の調査ができて面白かったです。
最後に参考にした文献を…
・「地域とともに 西武バス60年のあゆみ」
・「鶴ヶ島町史 近現代資料編」
・「坂戸市史 通史編(2)」
・「西武鉄道時刻表」第2号~第7号
・「西武バス路線図」1981年 西武バス発行
・「埼玉県市町村誌」各巻
・「統計さやま」昭和62年度~平成5年度
・「広報さやま 縮刷版」
・ゼンリンの住宅地図 狭山市・日高市・鶴ヶ島市
など

ほぼ文章だけの長ったらしい記事でしたが、最後までご覧いただきどうもありがとうございましたm(_ _)m
ご意見ご感想、ご指摘などありましたらコメント欄かメールでお寄せ頂ければ嬉しいです。

廃止バス停の痕跡を探る(3) 狭山23系統 後編

2010年10月12日 | 乗合バス路線史シリーズ
前回同様狭山23系統:狭山市駅西口~坂戸駅南口線の廃止バス停の調査報告です。
今回は後編ですが、まずは路線図を。

路線図も長くなるので高萩駅を境に分割しました。一応狭山市~坂戸間全バス停の路線図もあるので、ご覧になりたい方はどうぞ。
こちらです。
さてバス停の名前のデータですが、1981年4月に西武バスが発行した路線図を元にしました。
前回も書きましたが、狭山市駅~根岸坂上間は現在も他の系統が運行されています。
また、高萩駅周辺は狭山23が運行されていた頃は国際興業バスの路線と並行している区間がありました。その部分の国際興業バスは水色のラインで示してあります。


路線の中間になる高萩駅からスタートです。路線図で見てもらえれば分かるとおり高萩駅へは国道407号から離れているので、ヒゲのように飛び出ています。
ですのですでに紹介した高萩十字路のバス停などは省略して、407号線に復線(?)したところから再開とします。
十字路を左折し、再び407号に入ると、JR川越線のガードをくぐります。

写真は坂戸方から狭山方面を見たところです。
このガードをくぐりゆるい坂を上がると「中宿」というバス停がありますが、これも先の「高萩駅入口」同様に狭山23系統があったころは国際興業バスのみが停車する停留所だったようです。
この中宿バス停の真ん前には大分前に弊ブログでご紹介した郵便局があります。
さてこの中宿バス停を過ぎると・・・

・日高団地入口
「団地入口」の交差点を少し坂戸方に進んだところ、恐らく交差点から小畔川の間にあったそうですが痕跡は見あたりませんでした。
日高団地入口 バス停跡地 地図リンク
なお同名の「ひだか団地入口」バス停は現在も存在します。

団地入り口の交差点を入ったところで、かつては国際興業、現在はイーグルバスの停留所です。

・旭ヶ丘療養所前
さらに407号を進み、ファミレスやスーパーが両脇にあるカーブをたどると、「高萩並木」という歩道橋があります。この下が旭ヶ丘療養所前バス停跡のようです。

狭山市方面乗り場は、この歩道橋の橋脚を挟んで別スペースになっています。かなり立派です。

このバス停スペースの前にマンションがあり、現在はそこへ出入りする車の駐車スペースとして活用されているようです。
また坂戸方面乗り場の痕跡はありませんでした。狭山23系統廃止後、1996年から運行を開始した日高市内循環バスがここをバス停として使っていたようですが詳細は不明です…。
しかしここのスペースは立派ですね。正直もったいないと思います。
旭ヶ丘療養所前バス停跡 地図リンク

・森戸新田
旭ヶ丘療養所前バス停跡から「日光街道杉並木」が始まります。道路の両脇には立派な並木がありますが、整備されているとは言い難いです。またここが渋滞する箇所だと聞きました…。
さてこの並木道の途中にある押しボタン信号付近に森戸新田のバス停があったものと思われます。
坂戸方面乗り場ですが、歩道から車道へのそれらしい切り欠き(?)を発見…。

407号に面している家や工場などがあると同じような切り欠き部分があるのですが、ここは振り返ると塀しかありません。
それに車が通るにはちと狭い気がします。まあココだけは住宅地図でも詳しい場所が特定できず、推測でしかないですが…。
反対側の狭山市方面乗り場の遺構は…

上の切り欠きの反対側、草むらのなかに朽ちかけたベンチがありました。
例によって「日光街道杉並木~」のプレートが、近くに放置されていたので、日高カントリークラブ・小学校入口のバス停跡地にあったモノと同じベンチでしょう。
森戸新田バス停跡地 地図リンク
森戸新田のバス停跡地をすぎると、長かった日高市を抜け出て鶴ヶ島市に入ります。
なお森戸新田バス停の所在地は、地図を見て頂ければ分かるかと思いますが厳密には川越市になるようです。路線図では省略してますが…

・高倉第二
鶴ヶ島市に入って最初のバス停跡地です。
住宅地図で場所の特定はできましたが、遺構は見つかりませんでした。
高倉第二バス停跡地 地図リンク
「圏央鶴ヶ島入口」交差点脇のガソリンスタンドの前だったようです。なおガソリンスタンドは10月10日現在解体していました。

荒れ果てていた並木もここの交差点をすぎると整備されていました。

・高倉
407号は「高倉天神」の交差点から4車線の立派な国道になりますが、狭山23系統は旧日光街道へ入っていきます。

高倉天神の交差点を過ぎて少しだけ坂戸方に進んだところが高倉バス停でした。
まずは坂戸方面のりば。

一見するとただの歩道に見えますが、よ~く見ると側溝が歩道側に寄っています。元のバス停スペースです。
車道と歩道の境のコンクリートブロック(正式名称は??)は近年取り付けたようでまだ綺麗です。
恥ずかしながら坂戸までの行きはバス停の遺構を見失ってました(汗)
坂戸の図書館で、古い住宅地図を見て確認してからやっと気づいた次第です。まだまだ修行がたりません。
いっぽう狭山市方面乗り場は…

側溝が泥に埋もれかけていますが…しっかりと残っていました。
高倉バス停跡 地図リンク
坂戸方面乗り場はまだ地図に書かれていますね。

余談ですがこの高倉バス停跡地と次の役場前バス停跡地の間に、鶴ヶ島市内循環バスのものと思しきバス停跡地も発見しました。追って報告します。

・役場前
その名の通り鶴ヶ島町の役場の前に位置したバス停です。
高萩からの杉並木は「脚折才道木」交差点で終わり、まわりの景色もすっかり宅地になりました。
鶴ヶ島町役場は市制施行とともに移転したらしく役場は現在社会福祉協議会の建物になっているようです。
隣(バス路線で言えば狭山方)には小学校があり、その通学用として設置されたと思われる「才道木歩道橋」の狭山寄りにバス停があったと思われます。

(坂戸方から狭山市方を望む)
痕跡はなにもありませんでしたが、坂戸方面のりばのほぼ同位置に鶴ヶ島市民バス朝夕便(坂戸駅~西公民館循環)の「教育センター」バス停があります。
役場前バス停跡地 地図リンク
ちなみに狭山23系統の最晩年は鶴ヶ島町が市制施行しているので、すでに「役場前」ではないのですがバス停の名前は変わらなかったようです。

・脚折
事前に都市地図で、帰りは当時の住宅地図で場所を確認したものの、現地の場所がどうしても分かりませんでした。よって遺構もないようです…。
余談ですがこの脚折バス停跡地から次の下新田バス停の間に「餃子の満州」の本社がありました。まさかこんなところに本社があるとは思いもしなかったので驚きました…。

・下新田
鶴ヶ島市内最後のバス停です。
ここもそれらしき遺構は見あたりませんでしたが、鶴ヶ島市民バス朝夕便(坂戸駅~西公民館循環)の「花影町南」バス停がほぼ同位置にあたるようです。

(狭山方から坂戸方を望む)
花影町南のバス停にはバス停のスペースもありましたが、大きさからして小型バスしか停車できそうになかったので、狭山23系統の遺構ではないでしょう…。
下新田バス停跡地 地図リンク
下新田バス停を過ぎると関越道のガードをくぐり、いよいよ坂戸市内に入っていきます。
東武越生線の踏切の手前で右折しますが、坂戸駅に南口が無い頃は直進していたのでしょうか。
右折した後しばらく進み、坂戸駅南口の交差点を左折するといよいよ…

・坂戸駅南口
終点・坂戸駅南口バス停に到着です。

現在駅舎を橋上化しているようです…。
現在あるバス乗り場は駅出口から見て左側にあります。この乗り場から狭山23系統が発着していたかは不明ですが、狭山23系統が運行していた頃南口には他のバス路線は発着していませんでした。

ちなみに現在発着しているのは、関西方面・羽田・成田へ向かう高速バスと、坂戸市内循環バス、鶴ヶ島市民バス・乗合タクシーで、普通の路線バスは発着していなかったです。

しかし、坂戸は遠かった……。

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というわけで、狭山23系統の廃バス停レポートはこれにて終わりです。
バス停の跡地なぞポールを撤去すればいいだけだから残らない…と思ってましたが、ここまで残っているとは思いませんでした。
一応分類してみると…
・バス停スペースが残存している
田木(狭山市方面)、日高カントリークラブ(坂戸方面)、旭ヶ丘療養所前(狭山市方面)、高倉
・ベンチが残存している
田木(狭山市方面)、日高カントリークラブ(狭山市方面)、小学校入口(狭山市方面)、森戸新田(狭山市方面)
・ガードレールなどの切り欠きが残っている
大谷沢(狭山市方面)、小学校入口(坂戸方面)、森戸新田(坂戸方面)

以前から坂戸に行く西武バスというのは非常に興味深かったのですが、今回詳細に現地を調査できてよかったです。
引き続き、狭山23系統の変遷を調査していますので、また発表しようと思います。
長い記事でしたがご覧いただきありがとうございました。m(_ _)m