軽井沢ル・ボン・ヴィボン

一通り書いたところで

僕自身とお店の略歴を2回に渡って書きましたが
ここからは一つ一つのエピソードを抜き出していきたいと思います。

北軽井沢に移住してきた頃

私達一家が北軽井沢に移住してきたのは
まだ長野新幹線すら開通していない1995年でした。

それは僕自らの意志ではなく、両親が目指したものでした。
自然の中で暮らしたいという父(東京生まれ&育ち)が
北軽井沢にペンションを建てたのがきっかけ。

僕はその当時、実家からは離れて
吉祥寺のLe Bon Vivant で働いていたのですが
それがきっかけで退職し、応援に向かいました。

色々あったのち
そのペンションは両親と弟夫婦が主体となって運営する事に決まり
僕は立ち上げ〜軌道に乗るまでのお手伝いというスタンスになりました。

当時は清里や甲斐大泉などのペンションが流行っていて
(落ち着いてきた頃ではありましたが)
僕の未来の憧れの一つに
「地方に移住してオーベルジュ開業」がありましたので
試行という一面もあり、懸命に手伝いました。

山に入ってキノコや山菜などの恵みをいただき
手作りのパンと野生の果物で作ったジャムで朝食を。

図鑑を片手に森に入り、植物や菌類を調べ
地元の仙人(的な人物)に師事して使い方を学び
酪農家さんから原乳を分けていただき、フレッシュチーズを自作する。

本物のオーベルジュ
これは僕が考える理想の形だったのですが
家族のみんなも共感し、夢中になってそれを実践してくれました。
結果、本当に素晴らしい価値あるペンションになりました。
今振り返っても、嘘がなく純粋で本当に素晴らしいと思う。

インターネットもまだ一般的ではなく
SNSなどで自ら発信する手段も無かったあの頃。
オーベルジュの素晴らしさを広める方法が見つからずに苦心しました。
お洒落であるとか、ペット同伴可能とか、温泉があったり
そういう分かりやすい指標ではなかったので
雑誌に広告を掲載するくらいでは、その価値が宣伝できなかった。
紙媒体がメインな時代、掲載料は高額でした。
集客のために価値を安売りしてしまった事もあり
どんどん余裕がなくなって、最終的に父のペンションは閉業するのですが
最後の最後までその価値は維持していました。

もし今だったら・・考えても仕方ありませんが
少し時代が早かったのかもしれません。

父は若くして亡くなりました。
パソコンのファイルに「心の手作り」と書かれた
未完成のジャムのラベルが遺されていました。

父の遺言だと思って大切に守っているポリシーです。

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