藤原てい著 『流れる星は生きている』
藤原てい 『流れる星は生きている』
昭和二十年八月九日ソ連参戦の日の夜に、満州新京の観象台官舎で夫と引き裂かれた妻のていと愛児三人の言語に絶する脱出が始まる。敗戦下をいかに生き抜いたかを如実に示してくれた本だった。
ちなみに、『日本人の誇り』で有名な数学者の藤原正彦氏はこの本の著者の藤原ていの次男坊で、戦時下にどうやって逃げぬいたか、お茶目な性格もよく表現されていた。
しかし、藤原正彦氏は戦時中のことは幼児だったので記憶にないという。しかし、母親に背負われて生きるか死ぬか、臭い匂いを見にして渡った川があった。本人に言わせると、渡った記憶はないが、アメリカにいた時も川は何故か、怖かったという。
以下、印象に残った文章を書いてみた。
・ 私たちは日本人と呼ばれた。当たり前のことであるから誰も腹を立てる者はいなかった。それなのに、私たちが朝鮮人というと、彼等は非常に腹を立てた。それで、彼等の感情を刺激しないためにも、私たちはこちらの人と呼ぶことにきめていた。
・ 一度降り出したらなかなか止まないこまかいこまかい雪は空中に浮いているように視界を閉ざしていた。満州でもこの雪をよく見た。太陽が出るときらきら輝いて非常に美しかった。細氷という言葉を夫から聞いて知っていた。そしてもう一つの別名ダイヤモンド・ダストという異名もあまりに美しい名前だから覚えていた。ダイヤモンドの塵埃、ほんとにそんなように見える時もあった。私の故郷では氷乾きという言葉がある。寒中、洗濯物を凍ったまま乾かしておくといつのまにか乾くのを言うのである。
・ 私がもし病気にでもなったら、すぐ眼の前に三人の子供がやせ細って私の寝ている前にじっとして座っている姿が思い浮かばれてゾッとした。
・私が想像する場面はいつも親子四人で死ぬところであった。咲子は黙って死ぬだろう。正広は私の眼をとがめるように見つめて死ぬだろう。正彦は最後まで死ぬのはいやだと泣くだろう。
・向こうの隅では白米のご飯を食べている人がいる、時には卵が割ってかけてある。
世の中に残酷という言葉がある、それはこの場合のことをいうのだろう。あの人は自分で知らない大罪を犯している。人間のいかなる部分に加えられる残虐よりも食べられないといううことを自覚させるほど大きな罪はない。
・石鹸をたくさん持っていると向こうが可哀そうだと思わないからよ。相手に可哀そうだと思わせることが第一の条件よ。その次に自然に買ってやろうという気持ちに相手を導くのが最も大事なの。それは言葉には説明できないわ。石鹸一つぐらい買ってやるのはなんでもないことだが、なんだかすぐ財布に手をかけにくい妙な感じがするものらしい。
それから顔と手をいつも洗っておくこと、背中には必ず赤ちゃんを背負っていること。赤ん坊の顔も手も清潔にしておくこと、汚い人に近づくのは誰だって嫌だからね。
・この石の門の家ね、こういう家へ入ったら駄目よ、野良犬のように追い出されるわ、金持ちは行商や乞食を先天的に憎むものらしいわ。なるべく中流の家庭を狙うの、そして眼と耳を働かせてなるべく老人がいるような家を狙って、その老人が子供でも抱いていたら大成功するわ。
・咲子は背中でひっきりなしに下痢をしている、それを私はかまってやれない。きたないものは私の背中を通し、半ズボンの下まで流れ落ちる。蠅はこの臭気を追ってくるのに相違ない。夕立が来れば綺麗に流してくれる。川を渡れば身体まで洗ってくれる、私は蠅なんかどうでもよかった。
・私たちの前に老人が四人ばかりかたまって歩いて行った。杖にすがって行く姿は歩いているというより、むしろ前のめっていくという姿であった。私たちが追い抜くと、
「生きて行ける人は先へ行ってください、急いで逃げなさい。老人は捨てて、早く行っておくれ。」
といっていた。私たちは呪詛のような恐ろしいその声を後に聞きながら大きくよけて前に出た。私は初めて追い越した。私より力の弱い人たちもいるのだと思うと、変な優越感がちらりと頭をかすめた。
・医師は「栄養失調ってやつはね、食べても
食べても栄養を吸収しないで、かえって、胃
腸が衰弱して行くんですよ。栄養失調の下痢が始まったら第二期と心得なくちゃ。子供なんか、昨日まで元気で食って下痢してた奴がころりっといきますよ」
・「私たちは初めからこんなにみじめではなかったんです。私の今こんなに困っているところを見てみんなで軽蔑して、皆でいじめつけてそれがあなたの公衆道徳ですか。私はこの子の汚れたパンツを丸めて捨てて、新しいものに取替えてやりたいのは山々です。私だって私だって、殺されるように苦しい思いをしているんですよ。皆さんに気兼ねして、御覧なさい、この子もこんなに小さくなっているじゃありませんか。どうしたらよいの、どうしたらよいか私に教えて下さい」
その男は沈黙してしまった。
・ 「よして下さい、そんなもの、私は戴きたくありません。あなたなんかに、死んだって恵んで貰うもんですか。私は乞食じゃありません。もしあなたに本当の公衆道徳があったら、黙って臭い匂いを嗅いでいなさい」
・当時二歳だった次男の正彦は、アメリカの大学で、三年間、数学を教えていたが、昨年帰国し、今は日本の大学で教鞭をとっている。この次男は、あまりに当時幼すぎて、引き揚げの苦しみは全く記憶にないと、私は考え続けて来た。その彼が、
「ボクはどうして川がこわいのだろうか、日本でも、アメリカ居たときも、どんなに小さな川でも、一応立ち止まって、考えてから渡るような習慣を持っているのだが・・・」